イエスを主と告白する者は神殿宗教に戻るな

・・・マタイ23章のイエスの「聖書学者、パリサイ人攻撃」をどう読むか・・・

 

東京聖書読者会 2011.6.5 高橋照男

 

マタイ23章ではイエスが学者パりサイ人を「ああ禍だ」と言って攻撃している。「裁くな」(マタ71-5)と言ったイエスはここでは学者、パリサイ人を「目の見えない案内人」「偽善者」「蛇!」「蝮(まむし)の末!」と聞くに堪えないような暴言を吐いていて、なにかイエスらしくない違和感を感じる。これはなぜか。
この問題を解く鍵は同じ並行記事のマルコ1737bにある。これは5月22日の感話で述べたのでそれを再掲する。

5月22日感話加筆再掲
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*マタイ22章41〜46節「救世主(キリスト)はだれの子か」の並行記事マルコ12章32〜37節の末尾1237b(下記。「大勢の群衆は喜んでイエスの話を聞いていた」)を見ると、それはマルコがそれに続ける「学者の偽善」の読み方への道を開く。このマルコ1237bの部分はネストレ、文語、塚本、口語などは段落を設けて次の部分「学者の偽善」への冒頭でもあることを示す。一方マタイ22章の「救世主(キリスト)はだれの子か」の最後の部分にはこの言葉はないが、マルコの記事から明らかにそこには「霊の目のあいている人」が存在していたことが分かる。したがってマタイにおいては23章でイエスが「学者、パリサイ人」を「目の見えない人」と攻撃するのはイエスの話を喜んで聞いた人に向かって語ったものであると推測できる。つまりこのマタイ23章のイエスの学者パリサイ人に対しての攻撃の言葉は彼らに向かって直接ではなく、イエスの話を喜んで聞いた内輪の者に語ったものであることが推測できる。つまり内輪に向かって「あいつら学者、パリサイ人は目が開いてないから必然的にああいう古い神殿宗教の生活になるのだ」と憤慨を漏らした。これがマタイ23章である。

塚本訳  マコ 12:37
12:37
(このように)ダビデ自身が救世主を主と言っているのに、どうして(その救世主が)ダビデの子であろうか。」 
  大勢の群衆は喜んでイエスの話を聞いていた

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5月22日感話加筆再掲 おわり

イエスこそ待望の神の子だと見えない人は学者パリサイ人に多くいたが、マルコ1237bに「大勢の群衆は喜んでイエスの話を聞いていた」とあるように「目の開いている人」は存在した。
マタイ23章のイエスの攻撃の言葉は「学者・パリサイ人」に対して直接ではなくイエスの話しを喜んで聞いた」内輪の人に対して吐露した憤激であるように編集されている。 この事は並行記事のマルコ1237bでそれが推測できる。                          内輪の人に漏らす愚痴憤慨憤激というものはその中に真実が込められている。
 
塚本訳 2 ルカ 8:10
8:10
言われた、「あなた達(内輪の者)には、神の国の秘密をさとる力が授けられている(のでありのままに話す)が、ほかの人たちには譬をもって話すのである。これは(聖書にあるように、)『彼らが見ても見えず、聞いても悟らない』ようにするためである。

ここで、マタイにある批判攻撃の説話はマルコとルカに比べて非常に長い。これは何が原因か。
これを考察するにはマタイがこの福音書を書いた歴史的背景に目を向けなければならない。
マタイの教会にはユダヤ人クリスチャンが多かった。マタイ福音書には旧約の引用が多いことからそれがわかる。
するとこのマタイ23章1-36節は、ユダヤ教の神殿宗教から脱しきっていない内輪にいるユダヤ人クリスチャンに対する言わば内部批判にもなっている。マタイ23章は一見学者パリサイ人という外敵に対する批判のように書いているが、実は同時に内部批判でもある。マタイの編集意図はそこにあった。マタイの教会の聖書読者はこれをそのように読まなければならないと言うのである
マタイ23章の劇烈批判を「目の見えない」学者・パリサイ人に語っても彼らは聞き入れないことをイエスには分かっていた。イエスが「目が開いていない人間」にはまともに言うはずはない。イエスは裁判の席でも分かりそうもない人には沈黙した。(マタイ26632714、ルカ2268)。つまり黙秘権を行使した。 

塚本訳  ルカ 22:66-68
22:66
朝になると、国の元老院、すなわち大祭司連や、聖書学者たちが集まって、イエスを彼らの法院の議場に引いていって
22:67
言った、「お前が救世主なら、そうだとわれわれに言ってもらいたい。」彼らに答えられた、「言っても、とても信じまいし、
22:68
尋ねても、なかなか返事ができまい。

これは我々の不信者に対するとるべき姿勢でもある。いくら信仰を大脳皮質に説得しても相手の心の目が開かないうちはキリスト教の信仰は伝わらない。

● イエスは外敵である学者パリサイ人、つまり目の見えない人には直接語らなかった。しかし内輪の人には神の国の真理を語った。
マタイ23章はイエスの真正の言葉なのかどうか疑問に思えるが、マタイの編集意図に触れればその真相が見えて、意味がわかる。つまり外敵である学者、パリサイ人への憤激を内輪の者に漏らしたものなのである。
ではこれらの批判攻撃の言葉はイエスの真正の言葉ではなく全くマタイの創作かというと、そうではない。個々の批判攻撃の言葉は時に応じてイエスの口に上ったものである。マタイはそれを一挙にここにまとめたのである。それは「山上の説教」(マタイ5-7章)」の編集方針と似ている。いろいろな時に語ったイエスの言葉が一気にそこにまとめて編集された。マタイ23章もこれと似ている。 山上の説教は内輪の者に(マタイ51)「ああ幸いだ」と8回語ったが、マタイ23章は「ああ禍だ」とおそらく内輪の者に語ったと考えられる。その数5回。
聖書著者の編集意図を探る方法を聖書の編修史的考察という。20世紀最後の聖書学の主流はこれであった。 ATD、NTDはこの編集史的立場の註解書である。

今日の我々聖書読者は、編集史的考察という学問操作を知らなくても、マタイ23章のイエスの批判攻撃はこの私に向けられたのだと言う姿勢で読めばこれを編集したマタイの意図に添えることになる。
つまりマタイ23章は外敵への批判であると同時に集会内部のユダヤ人クリスチャンにも向けられていると読むのが正解。つまり「イエスを主と告白する者は神殿宗教に戻るな。安心せよ君達は救われたのだから、この世的なものに興味を持つな」と。

 

 

23:13 ああ禍だ、君たち聖書学者とパリサイ人、この偽善者!君たちは人々を天の国から締め出して、自分が入らないばかりか、入ろうとする者をも入らせないからだ。

 

 

 

 

*イエスを神の子と見ず復活を信じないと、そこには神の祝福が去るから結果として制度主義(神殿主義、形式主義、宗教細則遵守など)か思想主義(自分の先生の思想への固執かその先生の懐古趣味の密教集団、社交クラブ)に転落退化する。肉の内村鑑三先生を知らないと無教会主義集会には入り難いのもその悪例。無教会の退潮の本質はここにある。それは思想趣味遊興集団であってキリスト集団ではない。

 

塚本訳 マタ 9:10-12

9:10 イエスが家で食卓についておられるたときのこと、大勢の税金取りや罪人も来て、イエスや弟子たちと同席していた。

9:11 パリサイ人はこれを見て、弟子たちに言った、「なぜあなた達の先生は、税金取りや罪人と一しょに食事をするのか。」

9:12 聞いて言われた、「丈夫な者に医者はいらない、医者のいるのは病人である。

 

23:14 〔無し〕

 

 
 

 

 


新共同 マタ 23:14

23:14 (†底本に節が欠落 異本訳)律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。

 

*信者はよく「やもめ」の家に押しかけておしゃべりをしたり長いお祈りをして感謝を頂くのだと言う事(田川)。社会派信者の祈りや活動も見せびらかしが多い。

 

塚本訳 マタ 6:5

6:5 また祈る時には、偽善者のようにしてはならない。彼らは人に見せようとして、礼拝堂や大通りの角に立って祈ることを好むのである。アーメン、わたしは言う、彼らは(褒められた時、)すでに褒美をもらっている。

 

塚本訳マタ 6:6

6:6 あなたが祈る時には、『奥座敷に入り、部屋をしめきった上で、』隠れた所においでになるあなたの父上に『祈れ。』そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父上は、褒美をくださるであろう。

 

23:15 ああ禍だ、君たち聖書学者とパリサイ人、この偽善者!君たちはたった一人の改宗者を作るために海と陸とを飛びまわり、そして(改宗者が)できると、自分たちより倍も悪い地獄の子にするからだ。

 

 
 

 

 

 


*神が働くという事を信じないと、人間の努力が神の国到来の条件と思うから。行為に熱心になってよく飛びまわり思想を宣伝する。信者の物理数が神の国興隆のバロメータだと勘違いする。神の国は人間の行為では到来しない。神の意思による。

 

塚本訳 マタ 15:13-14

15:13 イエスは答えられた、「わたしの天の父上がお植えにならないものは皆、引き抜かれる。

15:14 あの人たちを放っておけ。盲人の手引をする盲人だ。盲人が盲人の手引をすれば、二人とも穴に落ちよう。

 

塚本訳 ルカ 10:20

10:20 しかし(悪い)霊どもがあなた達に服従したことを喜ばず、自分の名が天(の命の書)に書き込まれていることを喜ばなくてはいけない。」

 

 

23:16 ああ禍だ、君たち目の見えない案内人!君たちは言う、『お宮にかけて誓う者はなんでもないが、お宮の黄金(の器や飾り)にかけて誓う者は、(その誓いを果す)義務がある』と。

 

 
 

 

 

 


*イエスが神の子で復活の宮と見えない人は偉い先生や王を尊ぶ。これ偶像崇拝

 

塚本訳 マタ 12:6-7

12:6 わたしは言う、(ダビデ王よりも、祭司よりも、)宮よりも大きい者が(今)ここにいる。

12:7 もしあなた達に、『わたしは憐れみを好み、犠牲を好まない』という(神の言葉の)意味がわかっていたなら、罪もないこの人たちを(安息日違犯だと言って)咎め立てしなかったであろうに。

 

塚本訳 マタ 5:33-35

5:33 さらにあなた達は昔の人が(モーセから)、『偽りの誓いをしてはならない、』また『誓ったことは主に対して果たさねばならない』と命じられたことを聞いたであろう。

5:34 しかしわたしはあなた達に言う、いっさい誓ってはならない。神の御名はもちろん、『天』にかけても(誓ってはならない)。(天は)『神の御座である』から。

5:35 『大地』にかけても。(大地は)『神の足台である』から。エルサレムにかけても。(エルサレムは)『大王(なる神)の都』であるから。

23:17 愚かな人たちよ、目の見えない人たちよ、黄金と黄金を清くするお宮と、いったいどちらが尊いのか。

 

 
 

 

 

 


*イエスは復活する自分の体を神の宮と自覚していた。荘厳な礼拝堂とは違う。

 

塚本訳 ヨハ 2:19-22

2:19 イエスは答えられた、「このお宮をこわせ、三日で造ってみせるから。」

2:20 ユダヤ人が言った、「このお宮を建てるには四十六年もかかったのに、あなたは三日で造るというのか。」

2:21 しかしイエスは自分の体のことを宮と言われたのであった。

2:22 だから死人の中から復活された時、弟子たちはこう言われたことを思い出して、聖書とイエスの言われた言葉と(が本当であること)を信じた。

 

塚本訳 ロマ 9:4

9:4 (言うまでもなく、)それはイスラエル人のことである。(彼らは神の)子たる身分(を与えられ、神の)栄光(はその中に住み、)かずかずの契約(は神との間に結ばれ、比類のない)律法、(荘厳な)礼拝、多くの(恩恵の)約束は、(ことごとく)彼らのものである。

 

23:18 また(君たちは言う)、『祭壇にかけて誓う者はなんでもないが、その上の供え物にかけて誓う者は、(その誓いを果す)義務がある』と。

 

 
 

 

 


*宗教的儀式の煩瑣な規則を持ち出して民衆から金を巻き上げる職業宗教家。偶像人間である先生の思想を振り回す人間もまた同じ。そこには神の霊が存在しない。

 

塚本訳 ヘブ 10:17-18

10:17 「『もはや絶対に彼らの罪』と彼らの不法と『を記憶しないであろう』」とつけくわえられたからである。

10:18 (すでに)こんな(罪の)赦しがある以上、もはや罪のための捧げ物(の必要)はない。(旧約による祭司制度も礼拝の行われる聖所も、全然必要がなくなったのである。)

23:19 目の見えない人たちよ、供え物と供え物を清くする祭壇と、いったいどちらが尊いのか。(お宮は黄金に、祭壇は供え物にまさってはいないのか。)

 

 
 

 

 

 


*祭壇に触れる物は清くなると思うのは洗礼聖餐で身が清くなると思うのと同じ

 

塚本訳 ロマ 1:25

1:25 彼らは真の神を偽りの神(偶像)にかえて、造物者の代りに創造物を崇めもしおがみもしたからである。造物者こそ永遠に賛美すべきである、アーメン。

 

23:20 だから、祭壇にかけて誓う者は、祭壇と、その上の物一切にかけて誓うのである。

 

 
 

 

 


*被造物に汚れたものなし。宗教上の規則を誓いの対象と決めて人間を縛る間違い

 

塚本訳 コロ 2:20-21

2:20 もし君達が、(今言ったように洗礼によって)キリストと共に死に、此世の元素の霊(の支配)から離れたのなら、何故(なお)この世に生きている者のように、

2:21 「手をつけるな、味わうな、触るな」という規則に縛られるのか

23:21 またお宮にかけて誓う者は、お宮と、そこにお住みになっている方とにかけて誓い、

 

 
 

 


*特定の被造物を偶像崇拝してはいけない。お宮や、先生の奥にいます方を拝め。

 

塚本訳 コロ 2:9

2:9 (君達はこんなものに惑わされず、ただキリストに拠れ。)何故なら、彼の中には豊満なる神性が悉く形体を取って宿って居り

 

23:22 天にかけて誓う者は、神の御座と、その上にお坐りになっている方とにかけて誓うのである。

 

 
 

 

 


*人間の意思で特定の被造物にかけて誓うのは神の主権を無視している。神不在。

 

塚本訳 使  7:48-50

7:48 しかし(それは御心にそむいたことで、)いと高きお方は(偶像とちがい、人間の)手で造ったものの中にはお住みにならない。預言者(イザヤ)が言うとおりである。

7:49 『主は言われる、『天はわたしの御座、地はわたしの足台であるのに、どんな家をわたしに建ててくれるのか、どこがわたしの憩いの場所か。

7:50 これらは何もかもわたしの手で造ったもの』ではないのか。』

 

23:23 ああ禍だ、君たち聖書学者とパリサイ人、この偽善者!君たちは薄荷(はっか)や蒔蘿(いのんど)やクミンの(収穫の)一割税は(神妙に)納めるが、律法の中でもっと大切な正義と憐れみと忠実とをすてて顧みないからだ。しかしこれこそ行うべきである。だがあれもすててはならない。

 

 
 

 

 

 

 


*信者は宗教を職業にするな。お布施の功徳を神学的に決めるな。

*「だがあれもすててはならない」は疑問の個所といわれる。神殿宗教から脱しきっていないユダヤ人クリスチャンの加筆ではないのかと考えられている。。

 

口語訳 ホセ 6:6

6:6 わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ

 

23:24 目の見えない案内人よ、君たちは(律法を守るために、酒の中に落ちた)一匹の蚋をこし出しながら、駱駝を飲みこんでいる。

 

 
 

 


*本末転倒ということ。細かい宗教規則は守るが、生活全体が大間違いしている

 

塚本訳 マタ 15:4-6

15:4 神は、『父と母を敬え、』また『父または母を罵る者は必ず死に処せられる』と言われたのに、

15:5 あなた達はこう言うのだから。──『父または母にむかって、わたしがあなたに差し上げるはずのものは(神への)供え物にする、と言う者は、

15:6 父または母を敬わなくてよろしい(、扶養の義務をまぬかれる)』と。こうして、あなた達は自分の言伝えで神の言葉を反故にしている。

 

23:25 ああ禍だ、君たち聖書学者とパリサイ人、この偽善者!君たちは杯や皿の外側は清潔にするが、内側は掠め取った物と不節制とでいっぱいだからだ。

 

 
 

 

 


*しきたりや因習に満ちている人間は形で他人を判断する。人間は形ではなく中味。

 

塚本訳 マコ 7:4

7:4 市場から帰ったときは(身を)洗い浄めねば食事をせず、このほかにも杯や壷や銅の器をすすぐことなど、かたく守っている仕来たりが沢山あるのである。──

 

23:26 目の見えないパリサイ人よ、まず杯の内(の物)を清潔にせよ。そうすれば外も(おのずと)清潔になるであろう。

 

 
 

 

 


*宗教の形式主義、無教会主義の無形式主義。いずれも中味に命がないと退化する。

 

塚本訳 マタ 15:19-20

15:19 心から悪い考えが出るからである。人殺し、姦淫、不品行、盗み、偽証、悪口(など)。

15:20 人をけがすのはこれで、洗わぬ手で食事をすることは人をけがさない。」

 

 

23:27 ああ禍だ、君たち聖書学者とパリサイ人、この偽善者!君たちは白く塗った墓に似ているからだ。外側はりっぱに見えるが、内側は死人の骨とあらゆる汚れとでいっぱいである。

 

 
 

 

 

 


*「立派」というのはこの世的な尺度で一種の徴。この世的偉さと信仰は無関係

 

塚本訳  ヨハ 3:3

3:3 イエスが答えて言われた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、(徴を見て信じたのではいけない。)人は新しく生まれなおさなければ、神の国にはいることは出来ない。

 

塚本訳使  23:3

23:3 するとパウロが言った、「白く塗った壁!こんどはあなたが神に打たれる番だ。律法に従ってわたしを裁判するために(そこに)坐っているそのあなたが、律法に背いてわたしを打つことを命令するのか。」

 

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