詩篇第126篇を読む

・・・・勝利宣言ではなく、今の涙を省みての復活の希望・・・・

           東京聖書読者会 2008.3.30 高橋照男

なぜ詩篇126篇か。・・・現在編集中の津上毅一編「藤林益三」という本の副題は詩篇第126篇の5節とした。これは藤林先生がよく「色紙」に揮毫された部分である。

詩篇第126篇(文語訳)

1・エホバ、シオンの俘囚(とらはれびと)をかへしたまひし時

われらは夢みるもののごとくなりき

 2・そのとき笑(わらひ)はわれらの口にみち

   歌はわれらの舌にみてり

   エホバわれらのために大(おほい)なることをなしたまへりと

   いへる者もろもろの國のなかにありき

 3・エホバわれらのために大(おほい)なることをなしたまひ          

   たれば我儕(われら)はたのしめり

 4・エホバよ願はくは われらの俘囚(とらはれびと)を

   みなみの川のごとくに歸(かへ)したまへ

 5・涙とともに播(ま)くものは

  歡喜(よろこび)とともに穫(かりと)らん

6・その人は種をたづさへ涙をながしていでゆけど

  禾束(たば)をたづさへ喜びてかへりきたらん

 

詩篇126編を黒崎幸吉の名註解で下記に記す。本文は口語訳を使用する。( )内は黒崎註解の文語体による解説を口語体にし、読みやすいように内容を若干変更した。聖書はこれを読みくだすときに力がある。塚本敷衍訳と黒崎注解には意味がある。敷衍や注解を聖書本文に鋳込んで意味を通りやすくし、しかもそれを読み下しても文章がうまく流れるように工夫されている。黒崎によればこれはドイツのシュタルケの手法だという。(昭和9年、日英堂書店「新約聖書略註」の序)●聖書をこのように読みこむ方法が我々にも期待されている。

詩篇第126篇(都もうでの歌)

(イスラエルがバビロンの捕囚より帰ることとなりし時の歓喜の絶頂を歌えるもの。そして尚その帰還が完成してエルサレムの復興の行われんがために多くの苦心を払いつつある心持を歌えるものである)

126:1 主がシオンの繁栄を回復されたとき、(我ら事のあまりにも大なる喜びであった為に一時はその言葉の真偽をさえ疑い)われらは夢みる者のようであった。

126:2 その時(この事の真なるを知るよろこびに満たされ)われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされた。その時(ただに我らのみならず、この事実を聞きて)「主は彼らのために大いなる事をなされた」と/言った者が、もろもろの国民(異邦人)の中にあった。(異邦人すらもこの偉大なる主の恩恵を認めざるを得ざりしなり。)

126:3 (かくの如く)主はわれら(イスラエル)のために大いなる事をなされたので、われらは喜んだ。(この楽しさに比すべきものはなし。)

126:4 主よ、どうか、(今より後)われらの繁栄を、ネゲブの川のように(溢るるばかりに豊かに)回復してください。

126:5 (過去に於いても然りし如く今後に於いても多くの労苦を払い)涙をもって種まく者は、(やがてはその苦心が報いられて)喜びの声をもって刈り取る。

126:6 種を携え、涙を流して出て行く者は、(刈り入れのとき来たれば)束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。

註「ネゲブの川」は南国砂漠地方では平素は水がないけれども雨期に入れば大なる水流となる。

この詩を聖書で聖書を読む手法で「読み」をおこなう。[高橋HP・BbB「聖書で聖書を読む」、高橋HP・「TSK日本語ヴァージョン」、ATD「詩篇・下」・ヴァイザー、岩波「旧約聖書Ⅺ、詩篇・下」松田伊作訳 参考]

●ここでは筆者(高橋)個人の「読み」を行う。無教会主義集会の存在意義なることを実行する。聖書それ自身の生活体験の「読み」を行うことが、カトリックの「おミサ」以上の「儀式」。ここに無教会のレゾンデートルがある。聖書の生活体験読みの姿を見て、嫁の一人が無教会の聖書読みはバッハのカンタータ147番「心と口と生きざまをもて」に似ていると指摘してくれたのは喜びである聖書は「学者読み」「勉強読み」でなく「自分読み」「我流読み」で決して読み間違えない。その実例は次の通り。

口語訳 エペ 2:3
2:3
また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった

この「怒りの子」というのは、神の怒りを愛けるべき者(新共同訳)というのがその本当の意味である。しかしこれを「私は救われる以前は怒りっぽい人間、つまり怒りの子であったが、十字架で救われて怒ることが少ない人間になれた」と読んでも決して読み間違いではない(塚本)。これが学者読みでなく聖書の素人読み。こういう読み方の方がしばしば本質読みに迫れる。

「都もうでの歌」(詩篇120-134)の圧倒的な喜びの一つ一昨年、エルサレムでアフリカからの巡礼団に接したが、彼らは爆発的な喜びを表していた。ホテルの廊下が騒がしかった。エルサレムの神殿を慕う喜びの気持ちは詩篇第84篇も同じである。特にその第2節に顕著。また6節には「涙の谷」という言葉があり、これは詩篇126篇と通じる。

 新改訳 詩  84:1-13
84:1
万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。
84:2
私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。
84:3 雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。
84:4
なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。セラ
84:5
なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。
84:6
彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。
84:7
彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。
84:8
万軍の神、主よ。私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ。耳を傾けてください。セラ
84:9
神よ。われらの盾をご覧ください。あなたに油そそがれた者の顔に目を注いでください。
84:10
まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。
84:11
まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。
84:12
万軍の主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は。

詩篇126編2節。イスラエルのシオンへの帰還という「回復」が起こったとき。神を信じない異邦人たちはその不思議さに驚いたということ。私の家は全焼したが、多くの方々の援助で不思議に「回復」して以前よりも大きな家を建てられた。このことを知った職場の同僚が不思議がって言った。「高橋さん。神様っているんですねー」と。

詩篇126編4節。「シオンは回復されても、我らの全員はまだシオンに戻っていない」(岩波松田訳の注)。バビロンの方がいいと言ってシオンに一緒に戻らなかった同胞がいたらしい。つまり「バビロンに居る方が面白い」と言って一緒に帰還しなかった人々のことである。ここにこの詩篇作者の涙がある。バビロンにはいろいろな楽しみがあった。救われていない同胞がいる悩み。これはロマ書9章のパウロの気持に通じる。

塚本訳  ロマ 9:1-3
9:1
私はキリストにある者として本当のことを言う、嘘はつかない。わたしの良心も聖霊によって、(それが本当であることを)保証してくれる。
9:2
(わたしが急にこんなことを言い出したら信じてくれないかも知れないが、)わたしに大きな悲しみと、心に絶えざる痛みとがあるのである
9:3
ほんとうに、兄弟すなわち血を分けた同胞の(救われる)ためならば、このわたしは呪われて、救世主(の救い)から離れ落ちてもよいと、幾たび(神に)願ったことであろう。

詩篇126編5〜6節。5節の「播く」というのは単に播くときの「辛い労働」を指すだけではなく、6節の「種を播く」という意味を含有している。つまり播くという言葉には「種を」が含まれている。だから口語訳、新改訳、新共同訳は原文にはない「種を」を補って「種を播く」と訳している●しかし文語訳、関根訳、松田訳には「種を」がない。その方が6節の意味がすっきりする5節は「播く」という「行為」に重点があり、6節は涙を流して播くところの「種」そのものに強調点があるからである。ではこの6節の「種」はどういう種なのか、それは「涙の種」、あとで芽が出る種のことであり、ここに新約の復活が暗示されている。イエスの次の言葉につながる。死の涙から喜びへである。

文語訳 ヨハ 12:24
12:24
誠にまことに汝らに告ぐ、一粒の麥、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし。

塚本訳  ヨハ 12:24
12:24
アーメン、アーメン、わたしは言う、一粒の麦は、地に落ちて死なねば、いつまでもただの一粒である。しかし死ねば、多くの実を結ぶ。(だからわたしは命をすてる。)

口語訳 Tコリ15:35-36
15:35
しかし、ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。
15:36
おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか

口語訳 黙  21:4

21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

口語訳 ヨハ 16:20

16:20 よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう

新共同訳 1ペテ1:23-25

1:23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

1:24 こう言われているからです。「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。

1:25 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。

一旦死ななければ新しいものは出ない。ローマ帝国が初代教会の信者を殺せば殺すほど新しい信者が誕生した。そのことを指して「血は種子である」(これがキリスト教の歴史の真実)と言われるようになった。それは復活のキリストが霊で生きていたからである。

塚本訳  ガラ 6:7-8
6:7
思違いをするな、神は侮るべきではない。人は(自分で)蒔いたものを、また刈取らねばならない。
6:8
というのは、肉に蒔く者は肉から滅亡を刈取り、霊に蒔く者は(最後の日に神の)霊から永遠の命を刈取るであろう

●この「肉に蒔く」というのは肉の人に向かって「肉的なこと」を蒔くことである。「靈に蒔く」とは自分のお金を信仰のために使うこと。●これは蒔く「種」が違うということ。

「種も違う」が播き方にも原因があった。「播く」ということには涙が伴うのが必然だがその涙がなかった。「弟子はその師に勝らず」(この意味は弟子は師ほどには苦労しないというイエスの慰め)が現実となり、弟子たちは苦労せず、涙なくして「遊びながら」播いてきた。その結果芽が出ずに刈り入れができないでいる。播いたと思っているが「涙」という水分がなかった。キリスト教全般が振るわないのは、「種が違った」がさらに播く人間の流す「涙」という水分が少なかった結果でもある。これも芽が出ない原因であった。

文語訳  マタ 10:24-25
10:24
弟子はその師にまさらず、僕はその主にまさらず、
10:25
弟子はその師のごとく、僕はその主の如くならば足れり。もし家主をベルゼブルと呼びたらんには、ましてその家の者をや。

「刈り入れる」とは何か。これは次の句がそれを説明する。

塚本訳  ヨハ 4:35-38
4:35
あなた達のあいだでは『刈入れの時の来るにはまだ四月』と言うではないか。しかしわたしは言う、目をあげて畑を見てごらん。(麦畑の間を押し寄せてくるあのスカルの人たちを!)畑は黄ばんで刈入れを待っている。
4:36
すでに、刈る人は報酬を受けている。すなわち永遠の命にいたる実を集めている。まく人も刈る人も、同時に喜ぶためである。
4:37
『まく人、刈る人、別の人』という諺は、そのままここに当てはまるからである。
4:38
(すなわち)わたしはあなた達をやって、あなた達が自分で苦労しなかったものを刈り取らせる。ほかの人々が苦労し、あなた達はその苦労(の実)を取り入れるのである。(あなた達はわたしがまいたものを、ただ取り入れるだけでよいのだ。)

●「まく人、刈る人、別の人」というのは新共同訳のように「一人が種を蒔き、別の人が借り入れる」という意味である。人の罪を清めるのは、血は血でも罪なき神の子イエスの血のみ。その「宝血」はすでに流された。その意味ですでに「(芽が出る)種は播かれている」。人の涙には人を救う効能はない。人が救われるのは「イエスの血」のみ。これが真の種神がイエスという「種」を播いたのだが、その種とはいかなるものであったのか。藤林先生が読まれた欽定訳聖書(KJV1611)には何とそれが「precious seed」となっている。つまり「イエスの死という種」は普通の種とは違うのだ。それはprecious (尊い)seed(種)なのだ。他の英語訳はそうは訳してない。欽定訳訳者の筆の勢いかもしれないがキリストを暗示して恐ろしく信仰が深い。なおルターのドイツ語訳もここを edlen Samen(尊い種)と訳している・・・・・・このことは編者津上毅一氏が「藤林益三」の本の中で指摘している。「サウンドオブミュージック」の中で歌われる「edel weiss エーデルワイス」(高貴な白)は教科書にも採用されたもの。アルプスなどに生える高山植物。普通オーストリアの民謡と間違えられるが、作曲リチャード・ロジャース、作詞オスカー・ハマースタイン2世による米国人のものである。私としては、あの白い花はキリストを連想させられる。●イザヤ書には神の植えた木が「義のかしの木」になったという言葉がある。人間の植える木は育たなくて、神の植える木のみが育つという。

口語訳 イザ 61:3
61:3
シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために/植えられた者ととなえられる

人間、そして我々がいくら涙を流し、血を流してもその血や涙は人を罪から救う効力はない。イエスの血のみが、precious seed(尊い種)のみが人を救うのだ。讃美歌260番2〜3節の通りである。

讃美歌260番 

 2. かよわき われ は  おきて に たえず,

   もゆる こころ も たぎつ なみだ も,

つみを あがなう ちからは あらず

 3. じゅうじか の ほか に たのむ かげ なき

   わびしき われ を あわれみ たまえ,

   みすくい なく ば いくる すべ なし.

人間の流す涙には救いの効力はないが、我々には「刈り入れの労苦」が負わされている。刈り入れの作業とは「希望を持ちつつの忍耐の祈り」。

新共同 ヘブ 5:7
5:7
キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。

塚本訳 コロ 1:24
1:24
今私は君達のために苦しむことを喜びとし、またキリスト・イエスの体なる教会のために私の体でキリストの患難の不足を補っている

「刈り入れの労苦」の慰め。普通は播いた人の苦労の方が大きいので、刈り入れする人より喜びも報酬も多いはずなのだが、福音の伝道においては播く人と刈り入れの人が同じように喜べるのだという。同等の報酬が得らえるというのである。これ深い慰めである。

塚本訳 ヨハ4:36

4:36 すでに、刈る人は報酬を受けている。すなわち永遠の命にいたる実を集めている。まく人も刈る人も、同時に喜ぶためである

 ●結論。この詩篇第126篇5〜6節は「苦あれば楽あり」という世俗の教訓を通り越して、その先の復活の喜びを指し示している。「私の人生には苦労があったが、今はこの通り成功している」という勝利宣言ではない。●今のこの「涙」の人生は農夫の涙の労働のようであるが、将来きっと「実りの刈り入れ」という喜びに変わるだろうという前向きの希望である。今の涙の惨めな自分への励ましである。であるから、この5〜6節は勝利宣言ではない。自分および同胞の救いは完成していないが、将来きっと完成するだろうという希望の言葉。信仰の言葉である。 ●今だに続く信者の「涙の人生」とこれから来るであろう「みじめな死」は決して無駄には終わらずに来世での復活の喜び、そしてその時には農夫の刈り入れの喜びと同じような喜びが待っているのだという希望。ではヨハネ4章36節の「刈り入れ」の作業とは何か。我々の「涙の人生」「負わされている十字架」「希望をもって祈る忍耐の人生」、これ自分では気がつかなくてもそのまま自然に「刈り入れの労苦の作業」になっているのだ。その報酬は神によってその都度計算されているのだ。「涙の」パウロも次のように言っている。

塚本訳 Tコリ15:58
15:58
だから、わたしの愛する兄弟たちよ、しっかりしておれ、動かずにおれ、いつも主の仕事にぬきんでよ。骨折りが主にあってむだにならないことを、あなた達は知っているのだから

塚本訳 ロマ 8:18-1923
8:18
(しかもこの苦しみは恐れることはない。)なぜなら、わたしはこう考える。今の世の苦しみは、わたし達に現われようとしている栄光(──キリストと一しょに神の国の相続人になる最後の日の大いなる光栄──)にくらべれば、言うに足りない。
8:19 (そしてこの栄光は必ず与えられる。)その証拠(の第一)は、創造物が神の子たちの現われるのを、首を長くして待ちこがれていることである
8:23
しかし(苦しんでいるのは)創造物だけではない。わたし達自身も、(神の子にされた証拠として)御霊なる初穂を持っているので、このわたし達自身も、自分(のみじめな姿)をかえりみて、呻きながら、(正式に神の)子にされること、すなわちわたし達のこの(罪の)体があがなわれ(て、朽ちることのない栄光の体にされ)ることを、待っているのである

塚本訳 Tテサ5:23
5:23
願はくは平和の神、みづから汝らを全く潔くし、汝らの靈と心と體とを全く守りて、我らの主イエス・キリストの來り給ふとき責むべき所なからしめ給はん事を

人生は「あざなえる縄のごとし」でよく三つにわけて考えられる。順列組み合わせで次の8種類になる。苦楽苦、苦楽楽、苦苦楽、苦苦苦。楽苦楽、楽楽苦、楽苦苦、楽楽楽。●同じ聖書の言葉でも人生の諸段階では違った響きに聞こえてくる。藤林先生の御晩年は詩篇126篇の5〜6節と重ね合わせて解することができる。それは夫人の激しい痛みを伴う難病を通して「忍耐と涙と祈りによる」来世復活への希望の御心境だったのではないか。それは今回発行する「藤林益三」という本に付録として掲載した「内村鑑三とヨブ記」(内村鑑三記念キリスト教講演会・大阪)に表明されている。その講演の結論は、夫人の不治の病は「復活に最後の望みを託すきりなかった」と読むことができる。

今回の私の感話は原稿段階のものをブログで発表したが、その結論がロマ書8章23節であることを非常に喜んでくださった東北の読者の方が、下記のようなメールを送って下さった、そして最後にロマ8章23節の後半部分に対して御自分の敷衍訳を試みられた。その内容は誠に然り、アーメンである。

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高橋様 (前略)

ロマ8:23を読むときに、いつも合わせて思い起こすのが次の個所です。

 どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。(Iテサロニケ5:23 口語訳)

 塚本訳敷衍の「(正式に神の)子とされること、すなわちわたし達のこの(罪の)体があがなわれ(て、朽ちることのない栄光の体にされ)ることを、待っているのである。」をIテサ5:23と合わせてさらに私(某ブログ読者・・・高橋注)なりに敷衍すれば、

 「(正式に、すなわち霊と心とからだのすべてにおいて神の)子にされること、すなわち(霊と心とからだのうち、ただひとつまだ残っているところの)わたし達のこの(罪の)体があがなわれ(て、来臨のときに朽ちることのない栄光の体にされ)ることを、(望みを抱きつつ、忍耐しながら、)待っているのである。」

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●人生三区分の考えによって我々の人生がたとえ「苦苦苦」の最悪のパターンであっても来世で「楽」ならば、成功。それは苦苦苦楽である。我々には人生三区分のその次、第4のステージが待っているのだ。それは永遠。パウロも、初代キリスト教徒たちもその「信仰と希望」で生きていたのだ。●新約聖書に現れた「種まきの譬」は次の通り。

塚本訳  マタ 13:3-9
13:3
譬をもって多くのことを語られた。──「種まく人が種まきに出かけた。
13:4
まく時に、あるものは道ばたに落ちた。鳥が来て食ってしまった。
13:5
あるものは土の多くない岩地に落ちた。土が深くないため、すぐ芽を出したが、
13:6
日が出ると焼けて、しっかりした根がないので枯れてしまった。
13:7
あるものは茨の(根が張っている)間に落ちた。茨が伸びてきて押えつけてしまった。
13:8
しかしあるものは良い地に落ちた。そしてあるいは百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍の実がなった
13:9
耳のある者は聞け。」

塚本訳 ルカ 13:18-19
13:18
すると言われた、「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。
13:19
それは芥子粒に似ている。ある人がそれをその庭に蒔いたところ、育って(大きな)木になり、』その枝に空の鳥が巣をつくった。』」

塚本訳 Tコリ15:42

15:42 死人の復活もこのようである。(一つの体が死んで別の体が生まれる。)死滅の姿でまかれて不滅の姿に復活する

 

口語訳 ヤコ 5:7-8

5:7 だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。

5:8 あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。

同じ種でも芽が出るものと出ないものがある。「播いたつもり」でも芽が出ないこともある。これはなぜか。不思議。この世には「不思議」ということがある。新約聖書には「不思議」という言葉が多く出てくる(塚本訳では敷衍も入れて65回)。イエスも植物の生育現象を「なぜそうなるのかわからない」という。

口語訳 マコ 4:26-27
4:26
また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである
4:27
夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない

大賀一郎(無教会)は弥生時代(約2000年前)の古代ハスの種3粒を発見、発芽を試みたが2粒は失敗。一粒が成功。今はそれが根分けされ日本のみならず世界に広まった。一粒の種は何倍にもなった。

大賀ハス   大賀ハス

ハスの権威者でもある大賀博士は、それらの年代を明確にするため、ハスの実の上方層で発掘された丸木舟のカヤの木の破片をシカゴ大学原子核研究所へ送り、年代測定と鑑定を依頼した。シカゴ大学のリピー博士らによって放射性炭素年代測定が行われ、ハスの実は弥生時代後期(約2000年前)のものであると推定された。大賀博士は発掘された3粒のハスの実の発芽を試みるも2粒は失敗に終わる。だが5、残りの1粒が発芽に成功し、翌年の1952(昭和27年)7月18にピンク色の大輪を咲かせた。このニュースは国内外に報道され、同年11月17付米国ライフ誌に「世界最古の花・生命の復活」として掲載され、博士の姓を採って「大賀ハス」と命名された。出典: フリー百科事典『ウィキペディアより』

また博士は敬虔なクリスチャンでもあり、満州滞在時にも日曜学校を30余りも創設するなどキリスト教の伝道に努めました。『大賀ハス発祥の地(千葉市花見川区)より』

この解説の中に「生命の復活」という素晴らしい言葉がある。そうだ、我々も「あの人には芽が出ない、芽が出ない」と嘆かないで2000年間は待ってみよう。死後の「身体のよみがえり」を待とう。 それは生命の復活なのだ。この大賀ハスの事実をイエスが聞いたらなんというか。きっと言うに違いない。「日本の大賀ハスを見よ。2000年後にでも美しい花が咲いたではないか。あなたたちの身体が復活するのは当たり前だ」と。

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