故宮本佳彦告別式弔辞 (於・文京区,道灌山会館)

故人の宮本佳彦さんは、私達が集まって聖書を勉強している「無教会・東京聖書読者会」付属の「読書会」を長い間指導されてきました。この読書会は午前中の聖書の勉強に引き続き、午後の時間に主として「岩波新書」などを利用してこの世の様々な分野のことを学習してまいりました。

 無教会主義キリスト教は専門の宗教家がいませんので、告別式のときには宗教には素人の後輩が先輩を見送ることをしています。かくいう私自身は年齢が8歳後輩の建築士でございます。

ところで、故人は人生の後半、聖書の勉強会には姿を見せなくなり、午後の読書会も自然解散となりました。私は宮本さんの姿が見えなくなったので、その信仰はどうなったのか、死後の救いはどうなるのか時々心配をしておりました。

ところが一昨日御夫人の多英子さんから、宮本さんが亡くなられたこと、生前、自分にもしものことがあったら、自分が指導した午後の「読書会」のメンバー、特に私高橋に連絡せよと言っていたということを伺いました。これを聞いた私はとっさに「よかった」と安堵しました。なぜかと言いますと、人の救いは神と個人の関係であり、地上の教会て洗礼を受けるとか無教会の集会に所属し続けるとかが条件ではないのであります。奥様のお話を伺い宮本先輩は神を忘れなかったと確信したからであります。

聖書の中に「なやみの日にわれを呼べ我なんぢを援(たす)けん」(詩編5015)とあります。故人は最後に「主を呼び」ました。この僅かな願いだけで神に良しとされたと思ったのであります。

 人は必ず死にます。死んで神の前に立ちます。そのとき宮本先輩が「主を呼ぶ」ことをなさいますように。どうか故人が地上で犯した過ちを赦し、あなたの独り子イエスキリストの十字架の贖いの血潮で清めていただけますように。私はここにひたすら祈るものであります。さようなら宮本さん。復活の日また逢う日まで

2013年6月17日 東京聖書読者会・高橋照男

 

 

 

 

 

思わざる不幸との遭遇と真の偉業 ++++++++ ブログ

2013/06/18 08:33

130618(火)右臀部の痛みは今朝は少し和らぐ。薄紙を剥ぐように治って行く希望が湧いた。昨日の気功施術師のインフォームドコンセント(治療説明)が よかった。説明の言葉は力あり。原因は前屈姿勢の悪さによる脊髄狭窄。姿勢を正せば痛みはなくなる。今まで痛い臀部をマッサージしていたがそれは対症療法。原因は背骨。30分ごとの体操は上反りの運動に切り替える。
昨日先輩の宮本さんを天に送って(昨日ブログ参照。遺影あり)、聖書のあちこちが頭に浮かぶ。今朝はそれを掲げ感話をする。

口語訳 詩 90:3-10
90:3
あなたは人をちりに帰らせて言われます、「人の子よ、帰れ」と。
90:4
あなたの目の前には千年も/過ぎ去ればきのうのごとく、夜の間のひと時のようです。
90:5
あなたは人を大水のように流れ去らせられます。彼らはひと夜の夢のごとく、あしたにもえでる青草のようです。
90:6
あしたにもえでて、栄えるが、夕べには、しおれて枯れるのです。
90:7
われらはあなたの怒りによって消えうせ、あなたの憤りによって滅び去るのです。
90:8
あなたはわれらの不義をみ前におき、われらの隠れた罪をみ顔の光のなかにおかれました。
90:9
われらのすべての日は、あなたの怒りによって過ぎ去り、われらの年の尽きるのは、ひと息のようです。
90:10
われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。

宮本さんは77歳であった。最近ではやや早かった観がある。
10節、「人の一生は70年あるいは80年」とあるが宮本さんはその通りになった。
6節、「栄え」。宮本さんは東大法学部卒、野村証券入社、社内留学制度でハーバードビジネススクール卒(猛烈な勉強で有名、ここの卒業生はケンブリッジ、オックスフォード卒以上との評判)、野村証券常務、三洋証券副社長、名古屋商科大学教授、顧問とこの世的には「栄え」た。
6節、「夕べには、しおれて枯れる」。67歳で脳梗塞、以後10年の闘病。最後は認知症になり反応が無くなったという。自分のことを誰にも知らせるなと言っていたという。見舞いに来た人が昔の栄光のイメージが壊れることを恐れたのか。
塚本先生の晩年は脳軟化症。家人が人に合わせなかったのと似ている。
宮本さんは東大祭で「外山成美」さんと出会い、彼女の影響で無教会キリスト教に関心を持つようになった。
塚本先生に結婚の挨拶に行くと、塚本先生は「君は聖書の勉強はしなくてよい。ただ勤務先で後ろ指を指されないように、一生懸命この世に仕事に励め」と言われたという。塚本先生は「見る目があった」。
その成美さんは何と40代で召天。宮本さんに依頼されてその成美さんの告別式は私が司った。宮本さんは遺族挨拶で「成美と初めて出会ったときは、今日飾られている白菊のようにきれいであった」と述べた。私は泣いた。成美さんは宮本さんにキリストを引き合わせて早々に逝ったのだ。昨日はその遺児長男のY君と固く握手した。彼は棺の蓋を閉めるとき声を出して泣いたので私は背中をさすった。

塚本訳 Tペテ1:24-25
1:24
何故なら『人はみな草』のよう『また』その『栄華はみな草の花のようである』。』草は枯れた花は落ちた』
1:25
『しかし』主の『言は永遠に消え失せない』。これが君達に』宣べ伝えられた福音の言』である。

人の一生は短い。あっという間だ。
私が脳出血で入院した日野原先生は100歳えも現役の診療をされているが、それでも永遠には生きない。いつかは枯れて地に落ちる。
「花はしぼむ」。震災復興ソングの「花は咲く」はむなしい。地上のものを復興することが究極の目的であるならばそれはむなしい。
「メメントモリ」(ラテン語の諺。死を思え)。今度の震災で死を思い、永遠の命に目覚めて霊魂の花が咲けば成功人生だ。どの道人間は死ぬのだ。
宮本さんにとって最後の10年間は「思わざる不幸」であった。しかしそれこそが「偉業」であった。病気に耐えたことが偉業なのではない。不幸を与えられた身となったことが偉業なのだ。なぜか。それにより宮本さんは神によって多くの人の「慰め」になったからだ。

塚本訳 マコ 10:29-30
10:29
イエスは言われた、「アーメン、あなた達に言う、わたしのため、また福音のために、家や兄弟や姉妹や母や父や子や畑をすてた者で、
10:30
今、この世で──迫害のうちにおいてではあるが──百倍の家と兄弟と姉妹と母と子と畑とを、また来るべき世では永遠の命を受けない者は一人もない。

宮本さんのこの世的栄光には多くの人は追い付けない。しかし最後の10年間の不幸で私はより親しい人になった。
私が若き日に美ヶ原の聖書合宿で出会ったWS氏もこの世的には栄達の道を進み、東大脳外科の教授になったが、なんと定年前に「若年性アルツハイマー」なった。彼は「なぜこの俺がこの病気に」と荒れたらしい。しかしこのことにより私はよりWS氏と心でしたしくくなった。
宮本さんもWS氏も自分では望まない「不幸」を与えられたことにより神によって百倍の友を作らされたのだ。二人は神により真の「偉業」をすることをさせられたのだ。

塚本訳 ルカ 23:42-43
23:42
それから(イエスに)言った、「イエス様、こんどあなたのお国と共にお出でになる時には、どうかわたしのことを思い出してください
23:43
「イエスが言われた、「アーメン、わたしは言う、(その時を待たずとも、)あなたはきょう、わたしと一しょに極楽にはいることができる。」

宮本さんには芥子だね一粒ほどの信仰があった。闘病中、「自分にもしものことがあったら、高橋に連絡するように」と多英子夫人(後妻)に言っていたそうだ。宮本さんは40代の若さで逝った先妻の成美さんが紹介したエホバの神を忘れなかった。人生の最後の10年の苦しみの中で「神を呼んだ」。神はそのかすかな信仰を良しとしたはずだ。
信仰は「なりふり構わず」の態度が最高だ。それでよい、それでよい、否、その方が神に喜ばれるのだ。宮本さん万歳。あなたは人生の最後の苦しみの10年間で真の栄光の道を歩まされました。

詩篇11971(文語)

困苦(くるしみ)にあひたりしは我によきことなり 此(これ)によりて我(われ)なんぢの律法(おきて)をまなびえたり

口語訳 詩 119:71
119:71
苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを/学ぶことができました。


新改訳 詩 119:71
119:71
苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。


新共同 詩 119:71
119:71
卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたのを学ぶようになりました。

「あなたの律法(おきて)とは何か。神の「お心」。それは人間が皆最後の日に救われることだ。最後の日に復活し、永遠の命を与えられることだ。
人間はそのためにこの世では大苦難、大不幸、大痛に遭遇するのだ。
俺の人生、「こんなはずではなかった」と思う時が真の幸福への入り口に立つことだ。

塚本訳 ヨハ 6:39-40
6:39
そして、わたしに下さったものを一つも無くさず、最後の日にそれを復活させること、これがわたしを遣わされた方の御心である。
6:40
子(なるわたし)を見て信ずる者が皆永遠の命を持ち、わたしがその人を最後の日に復活させること、これがわたしの父上の御心であるから。(だから信じない者は、父上がわたしに下さらない人たちである。)」

全人類、そして万物の復興が神の「御心」。
はじめ神は天地を創造してこれを「よし」とされた。これが「創世記」。終末で神は万物を復興させ再び「よし」とされるのだ。それが聖書の終わりの「黙示録」

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朝の黙想 終わり。

 

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