眠りとしての死、罪の赦しと復活の希望

―――2013.9.1 すずめの会、於茅ヶ崎市金子幸子邸 ―――

             高橋照男

 

故宮本佳彦告別式 弔辞  2013.6.17 於 道灌山会館(西日暮里)
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 故人の宮本佳彦さんは、私達が集まって聖書を勉強している「無教会・東京聖書読者会」付属の「読書会」を長い間指導されてきました。この読書会は午前中の聖書の勉強に引き続き、午後の時間に主として「岩波新書」などを利用してこの世の様々な分野のことを学習してまいりました。
 無教会主義キリスト教は専門の宗教家がいませんので、告別式のときには宗教には素人の後輩が先輩を見送ることをしています。かくいう私自身は年齢が8歳後輩の建築士でございます。
ところで、故人は人生の後半、聖書の勉強会には姿を見せなくなり、午後の読書会も自然解散となりました。私は宮本さんの姿が見えなくなったので、その信仰はどうなったのか、死後の救いはどうなるのか時々心配をしておりました。
ところが一昨日御夫人の多英子さんから、宮本さんが亡くなられたこと、生前、自分にもしものことがあったら、自分が指導した午後の「読書会」のメンバー、特に私高橋に連絡せよと言っていたということを伺いました。これを聞いた私はとっさに「よかった」と安堵しました。なぜかと言いますと、人の救いは神と個人の関係であり、地上の教会て洗礼を受けるとか無教会の集会に所属し続けるとかが条件ではないのであります。奥様のお話を伺い宮本先輩は神を忘れなかったと確信したからであります。
聖書の中に「なやみの日にわれを呼べ我なんぢを援(たす)けん」(詩編5015)とあります。故人は最後に「主を呼び」ました。この僅かな願いだけで神に良しとされたと思ったのであります。
 人は必ず死にます。死んで神の前に立ちます。そのとき宮本先輩が「主を呼ぶ」ことをなさいますように。どうか故人が地上で犯した過ちを赦し、あなたの独り子イエスキリストの十字架の贖いの血潮で清めていただけますように。私はここにひたすら祈るものであります。さようなら宮本さん。復活の日また逢う日まで
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口語訳   90:9-10

90:9 われらのすべての日は、あなたの怒りによって過ぎ去り、われらの年の尽きるのは、ひと息のようです

90:10 われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです

 

塚本訳 ルカ 8:52-55

8:52 (集まった)人々が皆泣いて、女の子のために悲しんでいた。イエスが言われた、「泣くな。死んだのではない、眠っているのだ。

8:53 人々は死んだことを知っているので、あざ笑っていた。

8:54 しかしイエスは女の子の手を取り、声をあげて「子よ、起きなさい!」と呼ばれると、

8:55 霊がもどって、即座に女の子は立ち上がった。イエスは(何か)食べさせるように言いつけられた。

 

塚本訳 ルカ 7:12-15

7:12 町の門の近くに来られると、ちょうど、ある独り息子が死んで、(棺が)舁き出されるところであった。母は寡婦であった。町の人が大勢その母に付添っていた。

7:13 主は母を見て不憫に思い、「そんなに泣くでない」と言って、

7:14 近寄って棺に手をかけ──担いでいる者は立ち止まった──「若者よ、あなたに言う、起きよ!」と言われた。

7:15 すると死人が起き上がって物を言い出した。イエスは『彼を母に渡された。』

 

塚本訳 ヨハ 11:11

11:11 こう話して、またそのあとで言われる、「わたし達の友人ラザロが眠った。目をさましに行ってやろう。

 

●イエスは「死は眠り」だと言う。

 

塚本訳 マタ 22:10-13

22:10 家来たちは道に出ていって、出会った者を悪人でも善人でも皆集めてきたので、宴会場は客で一ぱいになった。

22:11 王は客を見ようとして入ってきたが、そこに礼服を着けていない者が一人いるのを見て

22:12 その人に言った、『君、礼服も着ずに、なんでここに入ってきたのか。』その人が黙っていると、

22:13 王は家来たちに言った、『あの者の手足を縛って、外の真暗闇に放り出せ。そこでわめき、歯ぎしりするであろう。』

 

●終末の時には「悪人でも」集められるが、それからが問題。身内、親族、同朋がその時「素直に礼服(義の衣)」を貸していただく心を持つかどうか

●「桃栗3年、柿8年、柚子のバカヤロ18年」人の救いは最後の日。

 

塚本訳 マタ 13:47-48
13:47
さらに、天の国は地曳網を海におろしてあらゆる種類(の魚)を取るのに似ている。
13:48
網が一ぱいになると岸に引き上げ、坐って、良いのは集めて入れ物にいれ、わるいのは投げすてるのである。

 

●終末では一度「あらゆる種類(の魚)」が集められる。それからが問題。

●しかし、イエスは裁くためにこの世に来られたのではなく、救うために

この世に来られたので、「素直でない」頑固な「わるい」人間も救われるはずだ。信者はこの一点に「希望」を持とう。

新約聖書の「希望」

 

塚本訳 Tコリ13:13 a

13:13a それゆえに、いつまでものこるものは信仰と希望と愛、この三つ。

 

●「信仰」と「愛」は耳にタコができるほど聞いたが、新約聖書の「希望」とは何か。意外に盲点である。

 

塚本訳 Tペテ1:3

1:3 讃美すべきかな、我らの主イエス・キリストの父なる神!彼は大なる憐憫により、イエス・キリストが死人の中から復活し給うたことをもって、私たちを活ける希望に新しく生み、

 

●新約聖書の「希望」は人間の願望欲望ではなく神から与えられる復活

 

塚本訳 ロマ 5:4-5

5:4 忍耐は鍛錬を、鍛錬は希望を生むことを知っているからである。

5:5 そしてこの『希望は(必ず実現して、わたし達を)失望させることはない。』神はわたし達に聖霊を授け、それによって愛をわたし達の心の中に(いつも豊かに)注いでいてくださるからである。

 

●忍耐と鍛錬がやむをえず復活の希望を生む

●ハンセン氏病に侵された玉木愛の句

 目をささげ、手足をささげ、降誕祭(クリスマス)

毛虫這えり、蝶となる日を夢見つつ

 

塚本訳 ロマ 8:24

8:24 なぜなら、わたし達は(最後の日に救いが完成されるという)望みをもって、救われているからである。目に見ることのできる望みは望みではない。人はいま現に見ているものを、なんでその上望む必要があろうか。

 

●希望は見えないものだから希望。見えたら理性の安息だけで終わる。

 

塚本訳 Tテサ1:10

1:10 そして如何に天から下り給うその御子を待ち望んでいるかを、人々が自分で言い弘めているからである。そしてこの御子こそ神が死人の中から甦らせ給うたお方、すなわち私達を来らんとする御怒りから救い出し給うイエスである。

 

 ●終末の裁きではキリストによって万人が罪から救済される。身内親族の救いの希望。万物復興の希望。その証拠はキリストの歴史的有体的復活。

 

塚本訳 Tペテ1:8

1:8 君達は彼を(目のあたり)見たことはないが、(これを)愛し、今も見ることは出来ないが、(これを)信じて、(既にかの日の)輝きに満ちた、言語に絶する喜悦を喜んでいる。

 

●我々はイエスの復活を見たわけではないが、使徒たちの伝承を「信じる」

 

塚本訳 コロ 3:3-4

3:3 君達は(既にこの世に)死んで、その生命はキリストと共に神の右に隠されているのだから。

3:4 (しかし今でこそ隠されているが、)私達の生命であるキリストが顯れ給う時には、君達もまた彼と共に栄光の裡に顯れるであろう。

 

●死は一時の眠り。具体的な現象はわからないが「誰であるかはわかる」ように有体的に復活する。これ大脳皮質では理解できない信仰世界の秘儀。

 

塚本訳 Uコリ4:16

4:16 このゆえに、わたし達は気を落さない。いや、わたし達の(生れながらの)外の人はどんなにこわれていっても、(キリストによって生れた)内の人は一日一日と新しくされてゆく。

 

●我々の肉体は壊れる、老化して痛む。我が身と身内親戚の罪に悩む。しかし神から与えられる新しい命は、老化しない。

 

塚本訳 Tコリ10:13

10:13 人間の力に余る試みが、あなた達をおそったことはないのである。神は誠実であられる。あなた達が耐えられない程に試みられることを、お許しにならない。試みに添えて、(かならず)逃げ道をもつくっておいてくださるので、それに耐え得るのである。

 

●試みと共に添えられる「逃げ道」こそ神の知恵による真の安らぎと幸福への導き。

 

塚本訳 Tコリ15:54-55

15:54 そしてこの死滅すべきものが不滅を着、この死ぬべきものが不死のものを着たら、その時(聖書に)書いてある言葉が実現する。『死は(神の)勝利に飲みこまれてしまった。』

15:55 死よ、どこに、お前の勝利は。死よ、どこに、お前の剣は』。

 

●「死の恐怖はいかにして克服できるか」。それは復活の希望による。

●この世的に栄光の人生を歩んだ人は晩年に大苦難に遭遇するようだ。しかしこれは神の恩恵。その人を復活の希望に招くための「これでもか、これでもか」という神の恵みの最後の一撃。それは信仰の完成のため。

 

塚本訳 Uコリ5:1

5:1 なぜ(こんな希望に生きることができるの)であろうか。もし地上の家であるわたし達のこのテント、(この肉体)がこわれるならば、天に、神の建てられた建物、(人間の)手で造らない永遠の家をいただいていることを、わたし達は知っているからである。

 

塚本訳 ヨハ 11:26

11:26 また、だれでも生きている私を信じている者は、永遠に死なない。このことが信じられるか。」

 

●地上の家(肉体)は崩壊する。老朽化する。経済的理由で手放される。しかし我々は「永遠の家」に住む。否、今すでに住んでいる。

 

塚本訳 Tペテ1:24-25

1:24 何故なら“人はみな草”のよう“また”その“栄華はみな草の花のようである”。“草は枯れた花は落ちた”

1:25 “しかし”主の“言は永遠に消え失せない”。これが君達に“宣べ伝えられた福音の言”である。

 

●大熊一雄、好子さん(2007.3.6召天、80才)の墓碑銘。福島県いわき市。

●「幸福論」の著者ヒルティは言う。「人生がたとえ詩編90篇の嘆きだったとしても、神と永遠の命を信じて生きてきた私は幸福でした」と。

 

塚本訳 ルカ 20:33-36
20:33
すると(もし復活があるなら、)復活の折には、この女はその(七人の)うちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも女を妻にしましたから。」
20:34
イエスは言われた、「この世の人はめとり嫁ぐけれども、
20:35
あの世にはいる資格を与えられて、死人の中から復活する者は、めとることもなく嫁ぐこともない。
20:36
復活によって生まれる彼らは、天使と同じであり、神の子であるので、もはや死ぬことが出来ない、(従って子を産む必要がない)からである。

天国では地上のような結婚生活はない。「死人の中から復活する者」「復活によって生まれる彼ら」「天使と同じ」「神の子」などの様子だ。 妻は妻、子は子、親は親であってもそれは「天使」のように「神の子」だ。 

塚本訳 Tコリ15:40-44
15:40
天の体があり、地の体がある。しかし天のものの輝きは別であり、地のもののはまた別である。
15:41
(天のものの輝きにしても、)太陽の輝きがちがい、月の輝きがちがい、星の輝きがまたちがう。その上、星はひとつびとつ輝きが相違している。
15:42 死人の復活もこのようである。(一つの体が死んで別の体が生まれる。)死滅の姿でまかれて不滅の姿に復活する。
15:43
恥辱の姿でまかれて栄光の姿に復活する。弱さの姿でまかれて力の姿に復活する。
15:44 (神の霊を持たない)魂だけの体がまかれて霊の体が復活する。魂だけの体がある以上は霊の体もあるわけである。
 
復活は霊の体であっても全く人格がなくなるということではないらしい。それはイエスが死人をよみがえらせて肉親に渡したことからも想像できる。暗示されている。(ヤイロの娘ルカ852-55、ナインの若者ルカ712-15 ラザロのよみがえりヨハネ1128-44)。星の輝きは相違している。

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