キリスト信者はなぜ身内から嫌われるのか・・・・霊肉の相剋

大熊一雄さんと好子さんへのレクイエム(鎮魂曲)

東京聖書読者会 高橋照男 2007.4.1 (2016.1.10 表題変更)

○大熊一雄さんが召されたのは2005.11.1、大熊好子さんが召されたのは去る2007.3.6でした。

○お二人は私たち信者の間では尊敬され慕われていましたが御身内の方からは必ずしもそうではありませんでした。この落差は何故起るのでしょうか。これは私の長い間の疑問でありましたので、今日はこのことを考えてみたいと思います。結論は題名に書きまたように霊肉の分裂、霊肉の相剋。その意味で大熊さんご夫妻、特に一雄さんを大熊家の非難からかばわれた好子さんには人知れず、涙と苦しみの御苦労がございました。今日の話はご夫妻に対するレクイエム(鎮魂曲)であります。

 

●イエスの生涯は身内にも弟子にも世の人にも理解されず、辛かった。

塚本訳ヨハ 2:3-4
2:3
すると宴会の最中に酒が足りなくなったので、母がイエスに言う、「お酒がなくなりました。」
2:4
イエスが言われる、「女の方、〃放っておいてください。〃わたしの栄光(を示す)時はまだ来ておりません。」

○「女のかた」とは、原語ではグナイ。・・・意訳すれば「アンタ」とでも訳せるか。このときのイエスの座った目、母マリヤの驚いた目を思う。「素直な息子だったのに変わってしまった」という母の嘆き。

○「放っておいてください」・・・これを意訳すれば「私に干渉しないでください」ということか。子供の結婚問題は100%がこのこと。子供が親を離れるときの常套句。生物学的に説明できる自然の姿。

 

塚本訳 ルカ 2:34-35

2:34 シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った、「驚きなさるなよ、この幼児はイスラエルの多くの人を、(この方に対する態度によって)倒されたり立たせたりする、また、一つの目印となって(この世の烈しい)反対をうける、使命を負わされているのです。──

2:35 (母人よ、)あなたも剣で胸を刺しつらぬかれ(る苦しみをせ)ねばなりますまい。──これは多くの人の心の(隠れた)考えを外に出させるためなのです。」

○シメオンの予言は的中した。母マリヤのこのときの苦しみは「剣で胸を刺されるよう」だった。この言葉は愛する者の変わりように嘆き悲しむ時の表現として至言。人生には何度かこういう悲しい場面がある。

○内村鑑三先生が深く愛しておられた塚本先生がその膝元から離れるとき、内村先生は深い悲しみに陥り、持病の心臓病が悪化して死期を早めたのだと言う。そのため内村家では塚本先生を深く憎んだと言う。

塚本訳マコ 3:31-35
3:31
そこにイエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていてイエスを呼ばせた
3:32
大勢の人がイエスのまわりに坐っていたが、彼に言う、「それ、母上と兄弟姉妹方が、外であなたをたずねておられます。」
3:33
イエスは「わたしの母、兄弟とはだれのことだ」と答えて、
3:34
自分のまわりを取りまいて坐っている人々を見まわしながら、言われる、「ここにいるのが、わたしの母、わたしの兄弟だ。
3:35
神の御心を行う者、それがわたしの兄弟、姉妹、また母である。」

○「外に立っていてイエスを呼ばせた」・・・肉の母としての権威を発揮、「家の仕事もしないで何でこんなところにいるのですか、話があるからちょっとこっちに来なさい」と言う意味。私たちに即して言えば「聖書勉強や、お祈りばかりしてないで、勉強しなさい。仕事をしなさい」と言う意味か。

○「私の母、兄弟とはだれのことか」・・・キリスト教では信者仲間を「兄、姉、兄弟、姉妹」と呼ぶ。ここに身内、肉親との分離の悲劇がある。家庭よりキリスト教を愛する。教会を愛する。

○内村鑑三の離婚問題は浅田タケとの金銭問題。家庭内のお金(5銭?、50銭?、5円?)が紛失したとき、内村は群馬県安中教会員であったタケに「教会に貢いだのではないだろうな」と言った。これに対しタケは「いいえ。あなたに黙ってそんなことはいたしません。もしそれが本当ならば離縁していただいても結構です」。こんなゴタゴタが原因であった。・・・・この話はタケの子供のノブ(父である内村鑑三に愛された)の子供の日永康氏(つまり内村の孫)が内村鑑三記念講演会で公表された。(私はそれを聞いたが内容はおぼろ記憶。この講演は後に文章になったが手元にない。「すべてのこと益」となったのだからこのことはもう詳しく知らなくてよい。ロマ書8章28節)

○霊肉の相剋はよく金銭問題になる。これ、信者に対する身内の不満の原因として多い。厳しいこと。

塚本訳マタ 10:34-36
10:34
地上に平和をもたらすためにわたしが来た、などと考えてはならない。平和ではない、剣を、(戦いを)もたらすために来たのである。
10:35
わたしは子を『その父と、娘を母と、嫁を姑と』仲違いさせるために来たのだから。
10:36
家族が自分の敵となろう。』

○「キリスト教の敵はローマ帝国にあらずしてグノーシスであった」といわれるが、それよりも「家族が敵となろう」とはもっと厳しい言葉。もっと厳しい敵である。なぜなら肉親の情に負けて信仰が揺らいだり、ひるんだりするからである。

○初代教会における一殉教女ヴィクトリアのこと。信者ゆえに裁判所に引き立てられたとき、ヴィクトリアの兄が駆けつけて次のように言う。「ヴィクトリアよ、おまえ自身とお父様、お母様をいたわりなさい」。つまりローマ皇帝を主と一言で言えば赦されたのであったが、ヴィクトリアは「我が主イエスは『我よりも父母を愛する者は我にふさわしからず』と仰せられました」と答えて殉教した。身内に「父母を敬え」と言われて信仰がぐらつかないのは日本人であって日本人ではない。

○過日、今井館における「若者のシンポジウム」で聞いた話し。日本では長男長女がキリスト教になることは家の宗教である仏教の檀家を離れることになるので、なかなか困難なことがあるという。

塚本訳ルカ 21:16-17
21:16
あなた達はまた親、兄弟、親族、友人からまで(裁判所に)引き渡される。殺される者もあろう。
21:17
またわたしの弟子であるために皆から憎まれる

○親が子を、兄弟が兄弟を、子が親を裁判所に訴えるとはまたひどい話である。しかし現代においても信仰に熱心になると親から勘当されることは数ある。

○親子別れの一例。父上が僧侶の方。その父上は「お前がキリスト教になるというなら、檀家に申し訳ない。私は腹を切って死ぬ」と言ったと言います。彼は家も父も母も捨ててキリスト信者になった。そういう彼はさすがに筋金入りの信仰の持ち主である。異教国日本においてクリスチャンになるのは並大抵のことではない。○私の場合は無教会主義の良い風習で真の親孝行ということを学んだ。常識の道を学んだ。

 

塚本訳 マコ 6:17-19

6:17 それにはこういう訳がある。──このヘロデは(前に)その兄弟ピリポの妻ヘロデヤと結婚したことから、ヨハネを捕えさせて牢につないだことがあった。

6:18 ヨハネがヘロデに、「あなたは自分の兄弟の妻を妻にするのはよろしくない」と言ったからである。

6:19 (そのため)ヘロデヤはヨハネを恨んで、殺したいと考えていたが、出来なかった。

 

○クリスチャンが「皆から憎まれる」「恨まれる」とは今日においては大抵が「性道徳」の問題。身内の誰かが不倫を美化している場合、それに「ノー」というと100%その人から本能的に憎まれる。

○キリスト教愛真高校初代理事長の多田昌一氏夫人のさや子さんは置屋の娘。さや子さんは父の職業に反旗を翻したのであった。

塚本訳 ルカ 12:51-53
12:51
あなた達は、地上に平和をもたらすためにわたしが来たと思うのか。そうではない、わたしは言う、平和どころか、内輪割れ以外の何ものでもない。
12:52
今からのち、一軒の家で五人が割れて、三人対二人、二人対三人に
12:53
割れるからである。父対息子』息子対父、』母対娘』娘対母、』姑対嫁』嫁対姑』!」

○キリスト教は「この世的平和」をもたらさない。かえって分裂させるから儒教道徳を完成しない。しかし、儒教や仏教の目指すところはキリスト教が満たすことを我々は知っている。このことは終末のときにわかる。来世でわかる。それまで忍耐忍耐。

○「親不孝の親孝行」をするという難しい道を歩まなければならない宿命を負っている。

塚本訳マコ 6:3-4
6:3
これはあの大工ではないか。マリヤの息子で、ヤコブとヨセとユダとシモンとの兄弟ではないか。女兄弟たちは、ここで、わたし達の所に住んでいるではないか。」こうして人々はイエスにつまずいた。(そのため彼の言葉に耳を傾ける者がなかった。)
6:4
イエスは彼らに言われた、「預言者が尊敬されないのは、その郷里と親族と家族のところだけである。」

○皆から尊敬されていた某長老が亡くなったのでお悔やみに伺ったときこのこと。たっぷり一時間以上、信者ではないそのご夫人からご主人に対する不平不満をくどくどと聞かされ閉口した。淋しくなったことがある。私たちの見方とは全然違った。この落差が不思議でたまらなかった。門にまで見送って下さったお嫁さんが偉かった。「父の本当の姿は集会に行っているときの姿だと思ってください」とわたしに言って下さった。本当の姿、本当の姿、それは身内には見えない。そこに悲劇がある。信者の苦労がある。

塚本訳マタ 16:22-23
16:22
するとペテロはイエスをわきへ引っ張っていって、「主よ、とんでもない。そんなことは絶対にいけません!」と言って忠告を始めた。(救世主が死ぬなどとは考えられなかったのである。)
16:23
イエスは振り返って、ペテロに言われた、「引っ込んでろ、悪魔、この邪魔者!お前は神様のことを考えずに、人間のことを考えている!」

○「人間のことを考えている」・・・これはだれにも当てはまる重要な注意。現代のキリスト教に置き換えると、「日本のこと」「教会のこと」「集会のこと」「先生のこと」「家庭のこと」「自分のこと」「勤務先のこと」「子供のこと」「自分のこと」と言うことができる。かといって聖職者になるのがよいというのではない。それはかえって「自分の職業のことを考えている」ということになる。

塚本訳マコ 3:20-22
3:20
家にかえられると、また群衆が集まってきて、みんなは食事すら出来なかった。
3:21
身内の者たちが(イエスの様子を)聞いて(ナザレからカペナウムへ)取りおさえに出てきた。「気が狂っている」と思ったのである
3:22
またエルサレムから下ってきた聖書学者たちは、「あれはベルゼブル[悪魔]につかれている」とか、「悪鬼どもの頭[悪魔]を使って悪鬼を追い出している」とか言った。

塚本訳 ヨハ 10:19-21
10:19
(イエスの)これらの言葉によって、ユダヤ人の間にまたもや意見が分れた。
10:20
そのうち多くの者は、「あの人は悪鬼につかれて、気が狂っている。どうしてあなた達はあんな人の話を聞くのか」と言い、
10:21
またこう言う者もあった、「悪鬼につかれた者にあんな話はできない。悪鬼に盲人の目をあけることが出来ようか。」

○よくある「熱心なクリスチャン」という言われ方は第三者の言い方。身内からは「気が狂っている」「ヘンなヤツ」「変わり者」「宗教に凝っている」「馬鹿は死ななきゃ直らない」「キリストをやっている」などと思われるのが普通。身内からは決して尊敬はされない。これ不思議なことである。

 

●イエスが身内から「気が狂った」と思われても仕方がない非常識な言動。

塚本訳ルカ 9:59-60
9:59
またほかの一人に言われた、「わたしについて来なさい。」その人が言った、「その前に、父の葬式をしに行かせてください。」
9:60
その人に言われた、「死んだ者の葬式は死んだ者にまかせ、あなたは行って神の国を伝えなさい。

○この言葉をまともに実行することによるトラブルは多い。しかし法事に呼ばれたら出席した方がよい。

○私は建築士として神道の地鎮祭に出席する。出席しないことで無用なトラブルを生じさせないためである。その代わり建築主がクリスチャンであって私がキリスト教式で起工式を行うときは皆さんに出席していただく。宗教の相互承認である。キリスト教の歴史の浅い日本に生きる知恵である。

 塚本訳マタ 10:37
10:37
わたしよりも父や母を愛する者は、わたし(の弟子たる)に適しない。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたし(の弟子たる)に適しない

○この言葉も悲劇の温床。塚本先生の一人娘の故嗣子さんは塚本先生が自分よりも「療養所の娘」の方がかわいいのだと察して淋しがったと言われる。また一人息子の晃さんは昨年お亡くなりになられましたが、いつも一人でフルートを吹いておられたそうです。二歳のときに震災で母親に先立たれ、それが原因で塚本先生が伝道者に邁進するようになり自分の子供に愛情が行かなくなった悲劇。このお二人のお子様の犠牲があって我々の塚本先生があったのであります。かたじけないことでありました。

 

岩波・佐藤訳マタ 9:5-6

401905また神はいわれた、このゆえに人は父と母を棄てるであろう。そして自分の女に結びつくであろう。こうして二人は一つの身になるであろう

401906だから、彼らはもはや二つではなく、一つの身なのである。したがって、神が一つ軛(くびき)に合わせられたものを、人間が離してはならない」。

 

○これは結婚の秘儀。生物学的な真理。しかしこれがもし「親不孝者」が結婚してゆくときの理論的根拠となると悲劇。以後、心が通じなくなる。聖書も読み違えると大変なことになる。

○かって、結婚式でこの箇所を初めて聞いた新郎か新婦の父親が「憤然として席を立った」という話を聞いたことがある。その牧師、どういう風に話をしたのだろう。

塚本訳マタ 16:25-26
16:25
(十字架を避けてこの世の)命を救おうと思う者は(永遠の)命を失い、わたしのために(この世の)命を失う者は、(永遠の)命を得るのだから。
16:26
たとい全世界をもうけても、命を損するならば、その人は何を得するのだろう。それとも、人は(一度失った永遠の)命を受けもどす代価として、何か(神に)渡すことができるのだろうか。

○この言葉は「経済を主眼としている職業」の人にまともに語ってはならない。「憤然と」されるだけである。聖書には「小事(この世の仕事)に忠実であれ」(ルカ16章10節、塚本訳で読む必要あり)とある。聖書は真面目に深く読まなければならない。

●霊の世界のことは5次元の世界のこと。4次元の大脳皮質では永遠にわからない。これが身内に理解されない悲しいところ。信者の宿命、悲劇、涙、苦悩。

ヨハ 8:43
8:43
なぜわたしの言葉が通じないのだろうか。(神から委ねられた)わたしの福音を聞く耳がないからだ。

○言葉が通じない・・・・信仰のことはこの世の知恵、常識、教育では100%全く到達できない。これを知ることはこの世と無用のトラブルをさけるために必要な理解。「精神衛生上」のために大切。

塚本訳 マタ 13:11
13:11
答えられた、「あなた達(内輪の者)には、天の国の秘密をさとる力が授けられている(のでありのままに話す)が、あの(外の)人たちには授けられていないのだ

○福音というのはこれを悟る能力を授けられている人にのみわかること。ここに信者の悲しみがある。では、私の身内は救われないのですか、という深い疑問が湧きあがる。

 

塚本訳 ルカ 16:28-31

16:28 わたしに五人の兄弟があります。彼らまでがこの苦しみの場所に来ないように、よく言って聞かせてください。』

16:29 しかしアブラハムは言う、『(その必要はない。)彼らにはモーセ(律法)と預言書と[聖書]がある。その教えに従えばよろしい。』

16:30 彼が言った、『いいえ、父アブラハムよ、もしだれかが死人の中から行ってやれば、きっと悔改めます。』

16:31 しかしアブラハムは答えた、『モーセと預言書との教えに従わないようでは、たとえ死人の中から生き返る者があっても、その言うことを聞かないであろう。』

 

○福音はこれを悟る力が授けられていなければ、「死者の復活」という驚くべきの奇跡をみても信じようとしない。

○同じようにそういう人は「どんなに悲惨な不幸」にあっても神を信じようとはしないのと同じ。そういう人は不幸にあうとかたくなになる。そのとき近づくと「不幸に付け込んで宗教に勧誘するな」などと反発するだけ。

 塚本訳 ヨハ 3:3
3:3
イエスが答えて言われた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、(徴を見て信じたのではいけない。)人は新しく生まれなおさなければ、神の国にはいることは出来ない。」

○知識人ニコデモとの問答におけるイエスの結論。現代の若者は「あなたは何故キリスト教になったのですか」という質問が多い。「何故?」には「何故か」で答える必要がある。

無教会主義はこれにどう答えてきたか。信仰は「不立文字」(禅宗の立場を示す標語で、「悟りは文字や言説では伝えられず、心から心へ伝えるものである」ということ)であるという雰囲気で、「何故」に対する応答に積極的でなかった嫌いがあった。これでは真面目な若い者の心をつかめない

無教会は「何故」に対する応答の知的努力、信仰の表現としての芸術(音楽、絵画、建築など)にきわめて無知無関心であったのではないか。これでは「若いものに対する言葉」のない、不親切な無教会ではないだろうか。もとより救いは「知や芸術」で得られることではない。しかし肉で生きているうちは何らかの「肉の手段」が信仰への「きっかけ」として必要ではないだろうか。

塚本訳 ヨハ 6:44-45
6:44
(わたしを信じないのは、父上が引っ張ってくださらないからだ。)わたしを遣わされた父上が引っ張ってくださらなければ、だれもわたしの所に来ることはできない。(しかし来れば、)わたしはその人をきっと最後の日に復活させる
6:45
預言書に、〃(最後の日に)人は皆神に教えを受けるであろう〃と書いてある。(そして神に引っ張られる者、すなわち本当に)父上に聞き、また学ぶ者は皆、わたしの所に来る

○引っ張られるのが先か、来るのが先か。塚本訳の(しかし来れば)の「しかし」の意味が深い。たとえ救いの予定に入ってなくとも「押しかけていけば」救われるのだ。

○なんとなくエクレシアに引かれて「何年か通っていれば」、そのうち神の啓示がいただける。「求めよさらば与えられん」。ただしそのエクレシアは「有体的復活、三位一体、使徒伝承」という正統信仰をしっかりもっていなければならない。若者を欺く。

 

塚本訳 ヨハ 14:22-23

14:22 イスカリオテでない方のユダが言う、「主よ、いったいどういうわけで、わたし達だけに御自分を現わし、この世(の人)にはそうしようとされないのですか。

14:23 イエスは答えられた、「わたしを愛する者は、わたしの言葉を守る。するとわたしの父上はその人を愛され、わたし達は(父上もわたしも)、その人のところに行って、同居するであろう。

 

○これ重要な質問。しかしその答えはわかったようでわからないもの。イエスの言葉にさかのぼるのだろうか。ヨハ 6:44-45と似ている。ヨハネの神学ではないのだろうか。

 

塚本訳Uコリ4:3-4
4:3
しかしそれでもなおわたし達の説く福音が(ベールで)覆われている(からわからないのだと言う)なら、それは滅びゆく者にとって(だけ)覆われているのである
4:4
彼らの場合、この不信者たちの考えをこの世の神(である悪魔)が盲にして、神の影像である救世主の栄光をつげる福音の光を見ることができないようにしたのである

 

○これパウロが自分で自分を慰めている言葉。ロマ書9〜11章と内的に一致。「不信者は神に一時的にそうされているだけなのだ」というもの。これ身内に不信者をもつ我々の心得であります。。

塚本訳ヨハ 6:63
6:63
霊が命を与える。肉はなんの役にも立たない。いまわたしがあなた達に話した言葉は、霊である。だから、命である。

○これ霊肉の相剋の悩みを解決する決定的な言葉。聖書の言葉は「霊のこと」。だからそれは霊を体験した人でなかればわからない。

○しかし5次元のことは4次元の世界の人にわかってもわからなくても一応話さなければならない。その具体的な努力が「イエスのたとえ話」。

●霊のことは霊でなければわからない。 第一コリント2章14節の翻訳比較

塚本訳

2:14 しかし(御霊を持たない)生まれながらの人間は、神の霊から出てくることを受け入れない。彼にはそれが馬鹿なことなのである。またそれを理解することも出来ない。(霊のことは)霊的に判断されねばならないからである。

受け入れない(デクセタイ)・・・塚本、岩波佐藤、新共同、前田、新改訳、口語、文語、

馬鹿なこと(モーリア)・・・・塚本

→愚かなこと・・・岩波佐藤、新共同、前田、新改訳、口語、文語

理解する出来ない(デュナタイ グノーマイ)・・・塚本、岩波佐藤、新共同、口語、

        →悟り得ない・・・前田、新改訳、文語

●この信者の永遠の苦悩というものに対して新約聖書はどう言っているか。新約聖書は信者達のこの苦悩を慰め励ますために編集されている。パウロの手紙の本質もこの慰め、励まし。

 

塚本訳 Tコリ1:18-19
1:18
なぜか。この十字架についての言葉は、滅びゆく者には馬鹿なことであるが、わたし達救われる者には、神の力(の現われ)であるから
1:19
(聖書に)こう書いてあるではないか、『知恵者の知恵をわたしは滅ぼし、賢い者の賢さをわたしは無にする』と。

 

○我々は、世の人たちおから案外「馬鹿」「愚か」と思われている。しかしそれが事実それが正解。

 

 塚本訳Tコリ1:23-24
1:23
わたし達は十字架につけられたキリストのこと(だけ)を説く。すなわち、ユダヤ人にはつまづき、異教人には馬鹿なことであるけれども
1:24
(神に)召された者だけには、ユダヤ人、異教人の別なく、(これこそ)神の力、また神の知恵なるキリストを(説くのである)。

 

○伝道は「馬鹿らしく」「愚か者らしく」説いた方が力がある。なまじ頭に訴えるとパウロのように失敗する。

 

塚本訳 使  17:32
17:32
死人の復活と聞くと、嘲る者もあり、「そのことはまたいつかあなたに聞こう」と言う者もあった。

 

塚本訳 使  18:15
18:15
問題が(宗教の)教義や、(救世主という)人物や、あなた達の律法に関するものなら、自分で始末したがよかろう。わたしはそんなことの裁判官になりたくない。」

 

塚本訳 使  25:19
25:19
この男に対しての問題は、何か彼らの宗教に関してと、死んだイエスとかいう者を、パウロ(というその囚人)が、(今も)生きていると主張したことに関してであった

 

 塚本訳 使  26:24-25
26:24
彼がこのように弁明したとき、フェストが大声で(それをさえぎって)言う、「パウロ、お前は気が狂っている。博学がお前を狂わせたのだ。」
26:25 パウロが言う、「フェスト閣下、気は狂っておりません。わたしは正気で真理の言葉を話しています。

 

○福音を話そうとするとき「その話はまた聞こう」と言われるのが普通。そういうときは無理して話さない方がよい。「ものみの塔」の人のように福音を「押し売り」してはかえってキリスト教の評判を落とす。薄っぺらな宗教だと思われる。

塚本訳 マタ 10:23-24
10:23
この町で迫害された時には、次の町に逃げてゆけ。アーメン、わたしは言う、人の子(わたし)は(すぐに)、あなた達がイスラエル人の町々を回りつくさぬうちに来るのだから。
10:24
弟子は先生以上でなく、僕は主人以上ではない。(だからあなた達が迫害されるのは当り前である。)

○これ、身内から理解されない悲しみのときの最大の慰め。この人はダメだと思ったら「逃げよ」である。紳士的に引き下がることが大切。

○「弟子は師に勝らず」とは、イエス以上の苦労はあなた達には来ないという慰め。苦難においてイエスは「先生」。弟子たる私たちの苦難は「先生」以上にはならないというのである。慰めの言葉。進歩の否定ではない。

塚本訳Tコリ4:3-5
4:3
しかし(そのことについて、わたしはだれにも判定してもらおうと思わない。)あなた達によって、あるいは人間の裁判所によって判定されることなど、わたしには全くつまらないことである。いや、わたし(自身)でさえ自分を判定しない
4:4
なぜなら、わたしは身にすこしも(務めをなおざりにした)覚えはないが、だからと言って、これで義とされているのではない。わたしを判定される方は主(御自身)である。

○身内の非難は、この世的な考えからの批判。それによって裁判所に引かれたら「つまらないことだと思え」、「当然のことだと思え」、「意に介するな」というのである。

○「自分で自分を判定しない」とは自分が一所懸命やったことはすべて神に動かされたこと。だから自分で自分のことを誉めないのと同時に反省もしない。自分は神ママで動いたのだという自覚。

 

塚本訳Tコリ7:15

7:15 しかし不信者の夫(なり妻なり)が別れるなら、別れさせよ。こんな場合に、兄弟なり姉妹なり(つまり信者)は(結婚に奴隷として)束縛されてはいない。神は平和な生活へあなた達をお召しになったのである。(無理があるのは、御心ではない。)

 

○これ無教会主義集会の基本姿勢。「来るものを拒まず、去るものを追わず」

○キリスト教の集まりが「来るものを拒み、去るものを追う」であってはいけない。それは信仰というものが神の引きであることを理解しないことから生じるこの世的な悪い態度。

 

 塚本訳ロマ 8:5
8:5
なぜ(霊によって歩けばそれができる)か。肉による者[生まれながらの人]は肉のことを追い求めるが、霊による者[キリストを信ずる者]は霊のことを追い求めるからである

 

○前述の第二コリント2章14節の塚本訳「(御霊をもたない)生まれながらの人間」は他の訳では次のようになっている。

自然の人・・・新共同、

性来のままなる人、・・・口語

自然的な人間・・・岩波佐藤

○だから、われわれが、身内から非難攻撃されたら、それは「性来の自然の人」の当然の姿勢だと思うべきである。この世的!と批判しては的外れである。

 

塚本訳Tコリ2:12
2:12
しかしわたし達はこの世の霊でなく、神から来るその霊を戴いた。それは、神から恩恵として賜わったもの(の何であるか)が、わかるためである

 

塚本訳 Tヨハ2:27
2:27
しかしあなた達は、キリストから戴いた油(すなわち聖霊)が留っているのだから、だれからも教えてもらう必要はない。彼の油が万事についてあなた達に教えるように、またそれはまことであって、嘘ではない。そしてその油があなた達に教えたとおり、(つねに)キリストに留っておれ。

 

○私たちの救いは「絶対恩恵の無条件の罪の赦し」で奇跡的に「戴いたもの」だから、自分の救いを自慢できない。自分の教養や頭脳を自慢できない。それは的外れな考えである。

 

 

●私たち信者としてのこの永遠の苦悩と涙は決して無駄に終わらない。

 

塚本訳Tコリ15:58
15:58
だから、わたしの愛する兄弟たちよ、しっかりしておれ、動かずにおれ、いつも主の仕事にぬきんでよ。骨折りが主にあってむだにならないことを、あなた達は知っているのだから。

 

○逆に言えば私たちの人生は「骨折り」であるときに初めて無駄にならないということ。

 

 塚本訳Tテサ3:3
3:3
(斯くして)この(大なる)患難の際に(君達の中の)誰一人も揺すぶられることの無いためである。──私達(キリストを信ずる者)が斯く運命づけられていることは、君達自身が(よく)承知しているはずだ。

 

塚本訳Tペテ4:12

4:12 愛する者よ、試練のため君達に起こった烈火の苦難を(何か)異常なことが臨んだかのように(驚き)異しむな

 

○私たちの信者の人生は、艱難にあうことが「運命」。宿命。

○「運命」と訳されたケイメサは英語でto be set 。つまり我々の人生には苦難艱難悲しみの人生があらかじめセットされているというのだ。あー。

 

 塚本訳 ピリ 2:16
2:16
かくて私の走ったことが無駄にならず、』苦労したことが無駄に』ならずに、キリストの日に名誉が私に帰するであろう

 

塚本訳マタ 5:5

5:5 ああ幸いだ、『(踏みつけられて)じっと我慢している人たち、』、『(約束の)地(なる御国)を相続する』のはその人たちだから。

 

塚本訳 ルカ 18:28-30
18:28
ペテロが(イエスに)言った、「でも、わたし達はこの通り、自分の持ち物をすててあなたの弟子になりました。」
18:29
彼らに言われた、「アーメン、わたしは言う、神の国のために家や妻や兄弟や親や子を捨てた者で、
18:30
この世でその幾倍を、また来るべき世では永遠の命を受けない者は一人もない。」

 

文語訳ロマ 8:18

8:18 われ思うに、今の時の苦難(くるしみ)は、われらの上に顯れんとする榮光にくらぶるに足らず。

 

塚本訳Uコリ1:6

1:6 (すなわち)わたし達が苦しめられるにしても、それはあなた達の慰めとなり救いとなるためであり、わたし達が慰めていただくにしても、それはあなた達の慰めとなるためであって、その慰めが働いて、わたし達がうけるのと同じ苦しみをあなた達は耐え忍ぶことが出来るのである。

 

○ではクリスチャンのこの世での人生は「いいことない」のではないだろうか。来世で報いられると言うが、それも「行ってみなければわからない」ことだ。それがあるかどうかは五分五分だ。

○しかしそれがありそうであることは、生きているうちに戴く、霊の喜び、「ホットする」信者の交わり。このことを使徒信条では「聖徒の交わりを・・・信ず」という。

 

●被造物はうめいている。信者はうめいている。我々の悩みは霊のうめきで世の救いに意味がある。涙の、うめきの、つぶやきの一つも無駄に終わらない。

 

塚本訳 ロマ 8:22-23
8:22
わたし達が知っているように、全創造物は(かの日から)今まで、一しょになって呻き、一しょになって産みの苦しみをしている。(父なる神がこの  呻きに耳を傾けられないことがあろうか。)
8:23
しかし(苦しんでいるのは)創造物だけではない。わたし達自身も、(神の子にされた証拠として)御霊なる初穂を持っているので、このわたし達自身も、自分(のみじめな姿)をかえりみて、呻きながら、(正式に神の)子にされること、すなわちわたし達のこの(罪の)体があがなわれ(て、朽ちることのない栄光の体にされ)ることを、待っているのである

 

塚本訳 ロマ 8:28

8:28 そればかりではない。(わたし達の救いは次のことからも確かである。)わたし達が知っているように、神を愛する者、すなわち(神の)計画に応じて召された者には、すべてのことが救いに役立つのである

 

塚本訳 Uコリ12:10

12:10 それゆえわたしは弱いことを、虐待、艱難、また迫害と苦悩をうけることを、キリストの故に喜ぶ。わたしは弱い時には、(彼の力によってかえって)強いのであるから。

 

塚本訳ピリ 1:29
1:29
君達はキリストのために──ただ彼を信ずるばかりでなく、また彼のために苦しむことをも恵まれたからである

 

塚本訳 コロ 1:24
1:24
今私は君達のために苦しむことを喜びとし、またキリスト・イエスの体なる教会のために私の体でキリストの患難の不足を補っている

 

○私たちの苦しみは「霊の呻き」。それは救いというものがある証拠。来世に体の贖いと、霊による有体的復活があるということの証拠。

 

●憎まれ嫌われたらチャンス到来と思おう。「何のこれしき」と思い、相手を赦すことで天国に宝を積めるのだと思おう。この苦しみは自分だけではなく同じような目にあった先輩が大勢いたのだと思おう。そして相手の救いを祈ろう。

 

塚本訳 マタ 5:11-12

5:11 わたしゆえに罵られたり、迫害されたり、あらん限りの根も葉もない悪口を言われたりする時、あなた達は幸いである

5:12 小躍りして喜びなさい、褒美がどっさり天であなた達を待っているのだから。あなた達より前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

 

塚本訳 ルカ 6:37

6:37 (人を)裁くな、そうすれば(神に)裁かれない。(人を)罪に落すな、そうすれば罪に落されない。赦してやれ、きっと(神に)赦される

 

塚本訳ガラ 6:1
6:1
兄弟たち、もし何か過ちを犯した人があったら、あなた達霊の人は、柔和な心でこんな人を正しい道に引戻さねばならない。(ただ)あなたも(一緒に)誘惑されないように、自分に注意せよ。

 

塚本訳 Tペテ4:15

4:15 君達のうち誰も人殺し、あるいは泥坊、あるいは悪者として、あるいはおせっかい屋として受難してはならない。

 

塚本訳コロ 3:13

3:13 互いに我慢して、たとい誰かに対して不平があっても、互いに赦し合え。主が君達を赦し給うたように、君達も赦せ。

 

塚本訳Tコリ13:4-7

13:4 愛はじっと辛抱する、愛は親切である。妬まない、愛は自慢しない、得意にならない。

13:5 無作法をしない、自分勝手をしない。激昂しない、『(人の)悪いことを根にもたない』。

13:6 偽りを見て喜ばない、むしろ真理を喜ぶ。

13:7 すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐え忍ぶ

 

○塚本訳の「じっと」という訳が目立つ。マタイ5章5節、1コリント13章4節。神の力を深く信じている人の翻訳。

 

 

 

●クラウス著「ダンテ」の結語

 

ダンテは常に謎の人であった。しかし彼の何であるかに気づいた少数の者には、天国への道を彼は開いた。

 

○これ、大熊さんご夫妻のことを指しているように思える。

○大熊好子さんの思い出。

○1969年(昭和44年)、私が25歳のときのこと。国際文化会館のロビーで、大熊好子さんから一通の縁談の手紙を渡された。大熊さんは私に「この人と結婚しなさい」と膝詰めの権威ある姿勢であった。推薦文に「信仰が立派」という言葉があった。私はその言葉を信じて、相手に会うことなく、また妻も私に会うことなく結婚を決めた。後年妻は私に「あのときあなたに会っていたら結婚を決意したかどうかわからなかった」と言った。「見ずして信ずるは幸いなり」だ。(ヨハネ20:29)。(笑い)

○私の子供の多くが大熊好子さんの「骨折り」の恩恵にあずかっている。

○いろいろな事情で集会に顔出しできなくなった人の「友」となって分け隔てなくお付き合いをされた。

○昨年はじめ、ご自分の余命の短いことを悟られたのか、御郷里の「いわき市」のお寺に一雄さんのお墓を建立した。私たち夫婦は、2006.7.31に墓参に行った。墓碑銘は塚本先生の筆跡を拡大してあった。

○人間の真価は棺桶の蓋を閉じてからわかるといわれます。3月6日に召されたときから、いわき市のそのお墓にお参りをしたいので場所を教えて欲しいという人が何と今日まで6名にも上っている。私の経験では異例である。イエスの墓を訪ねたというあの女性達の心を思った。

 

塚本訳 マコ 15:47〜 16:1-2

15:47 マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、なきがらの納められた所を見ていた。

16:1 (翌日、日が暮れて)安息日が終ると、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエス(の体)に油を塗りに行くために、(油にまぜる)香料を買いととのえた。

16:2 そして(あくる朝、すなわち)週の初めの日[日曜日]の朝、ごく早く、日が出ると墓場に行く。

 

結語

○大熊さんご夫妻はご身内の方々からは必ずしも良く理解されたとは言いがたいダンテの言う「謎の人」でありましたが、私たち家族も含めて「少数の者」を天国に導いてくださいました。復活の朝、必ずやお会いできますことを固く信じます。さようなら大熊さん「また会う日まで」。それはそんなに「遠い日」ではありません。「死は一時の眠り」。眠っているときは時間を感じません。眠りから覚めるとき、それは復活の時です。有体的に霊の体での復活です。その日の再会を期待します。それがあることを信じます。

 

 

 

       ありし日の大熊好子さんの写真は、名前をクリック。

 

 

塚本訳 ルカ 8:52

8:52 (集まった)人々が皆泣いて、女の子のために悲しんでいた。イエスが言われた、「泣くな。死んだのではない、眠っているのだ。」

 

 

塚本訳 Tコリ15:3-5

15:3 まえにわたしが(福音の)一番大切な事としてあなた達に伝えたのは、わたし自身(エルサレム集会から)受けついだのであるが、キリストが聖書(の預言)どおりにわたし達の罪のために死なれたこと、

15:4 葬られたこと、聖書どおりに三日目に復活しておられること、

15:5 またケパに、それから十二人(の弟子)に、御自分を現わされたことである。

 

塚本訳 Tコリ15:20

15:20 しかしながら今、キリストは死人の中から復活しておられる、眠った者の(復活の)最初として

inserted by FC2 system