建築人生を顧みて

             高橋照男

 

     建築人生を顧みて17年前(55才)の時に執筆した

下記の本のあとがきをここに掲げる。

 

「建築決断のコスト 芸術・工学・コスト」著者 黒田隆・高橋照男   (建設物価調査会 1999年、平成1111月刊)

               

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あとがきにかえて

プロジェクトマネジャーへの目覚め

 

 

 わが国における建築生産の技術は,この40年間に長足の進歩を遂げた。これに伴い,コストプランニングやプロジェクトマネジメントの技術も段階的に発展してきた。このあとがきではその事情を筆者の遭遇した出来事を通して明らかにする。それは筆者一個人の技術的苦悩が先駆者の努力によって徐々に解放されていくプロセスでもある。先駆者の努力を偲び,その功績を記憶に留める意味を込めてここに記録する。

                                  高橋照男

 

 

 

先駆者の土台

 

 私は昭和391964)年,島藤建設工業鰍ノ入社した。入社後,最初は現場(高崎,久喜,掲巣,川越),次いで工務部(事実上積算部)に配属された。その頃の数量算出はもっばらソロバンと計算尺,またあのパスカルが発明した手回しの計算機であった。したがって,しばしば違算があり常にそれが心配の種であった。また「積算基準」が整備されていなかったので,官公庁や設計事務所と「数量ネゴ」という数量のつけ合わせがあり,それに多大の時間がとられた。今日と比較すれば積算の時間が50%以上長くかかっていたのではないかと思われる。そのためによく残業や土日の出勤をしたものである。しかし,積算の悩みはただ数量算出の苦労だけではなかった,もっと深い悩み,それは今日の問題でもあるのだが,作業結果の無意味性である。せっかく苦労して自信をもって見積った金額も,営業部長や社長の手に渡るといとも簡単に大幅に値切られて決められてくる。それならばそんなに精度良く積算しなくてもよいのではないかと思うことがしばしばであった。それから積算した物件がすべて受注できるというわけではなく,当時の受注率は長嶋選手の打率と同じ33分程度であった。そうすると,残りの67分の仕事は何なのだろう,自分の一生は今後67分が無駄な人生になるのではないのか,そう考えると居ても立ってもいられず,一級建築士をとったらすぐこの世界から脱出しようと毎日考えていた。それは昭和451970)年,27歳の頃のことであった。その頃は数量積算の電算化が大いに研究され,ずっと後に私も東芝と組んで小型電算機での躯体積算プログラムの開発を試みた。これは商品化には到らなかったが,この頃から多くの先駆者達が積算の電算化を手がけ,4半世紀経た今日ではパソコンでの積算が常識になっている。これは後で述べる官民合同の積算研究会が,積算はパソコンの時代になることを念頭において数量基準を作成したからである。

 

部分別方式のこと

 

 その頃積算の方式に「部分別方式」というものが提唱されはじめた。私はそれに非常に興味をもって内訳書の形式が指定されない物件は「部分別方式」でまとめるようにした。ところが「部分別」は設計者には便利かもしれないが施工会社では実務として実行不可能と判断され,嫌われ敬遠された。それは施工の段階では「工種別」に変換しなければならず,2度手間になるためである。これに対し「部分別」推進の先駆者たちはコンピュータが安くなれば転換は楽になるのにと残念がり,普及の見込みを将来に託していた。

 さて,27歳のときに一級建築士はとったものの,次第に積算部で中堅となり,情報データが私の頭にかなり溜まってきていて重宝がられ積算部をすぐには辞められなくなってきた。その頃こういうことがあった。私はデータを多く集めるとある傾向が見えてくることが面白くて,積算データをその都度パンチカードというB5用紙の半分の大きさのものに,一工事一枚ずっこつこつと集積していった。このパンチカードというものは周囲に穴があいていて各種条件を太い針金で刺すと,目的のデータがパラパラと落ちてくるものである。これが実に面白かった。データづくりなどは暇なときに行うものと考えられていたが,積算部に暇なときなどなかったので決心してどんなに忙しくても毎朝30分はそのカードづくりに専念した。あるとき積算部長から「高橋!こんな忙しいときにそんなことはするな」と言われたが,私はひそかに黙々と続けていた。ある日,その積算部長が役員会かなにかで窮地に追い詰められたとき,私の作成していたパンチカードが部長を救ったのである。それ以来部長は何も言わなくなった。後年その会社を辞するときはそのカードづくりに専念した。あるとき積算部長から「高橋!こんな忙しいときにそんなことはするな」と言われたが,私はひそかに黙々と続けていた。ある日,その積算部長が役員会かなにかで窮地に追い詰められたとき,私の作成していたパンチカードが部長を救ったのである。それ以来部長は何も言わなくなった。後年その会社を辞するときはそのカードは1600枚にもなり,その後の私の執筆活動に役に立った。設計部からも営業部からも私のそのカードが重宝がられ,私が針金(正式にはソ一夕ーという)を何本も刺してデータを検索するので,それを「焼き鳥コンピュータ」とあだ名された。当時,概算見積りは皆にいやがられるものであったが,「部分別方式」でデータを蓄積していた私は「概算」が得意分野になっていた。設計部からも営業部からも目の前に図面をばっと広げられて「これいくらかかる?」と聞かれることがしばしばであった。私は積算部と設計部と営業部を常に行き来していたので「廊下とんび」と言われ,3つの分野を横断して歩くことがこの頃からの私の仕事の傾向となっていった。

 

数量積算基準の完成

 

 さて,昭和471972)年,29歳の頃のことだったと思うが,官民合同の「積算研究会」

に呼ばれた。それは私が部分別方式に熱心でそのデータもかなり蓄積していることが知られたからである。この研究会はその頃から数量積算基準の「仕上の部」を作成するときだったので部分別論者の私の存在は研究会としては都合がよかったのである。その研究会に協力して今日で27年になる。初期の頃のメンバーの多くはすでに亡くなられた。欲得損得なしに「国のためと思って」全員が熱心に討議したことが今となっては懐かしい思い出である。数量積算基準作成のメンバーは皆が積算に苦労して泣いた人ばかりである。したがって今日の「数量積算基準」は数量拾いの苦労から人々を解放しようとする「解放の基準」になっているのである。これでいいのかと思うはど簡潔によくできている。この基準がその後全国津々浦々に広まった原因はそこにある。これがわが国の建築生産の合理化に役立った効果は計り知れないものがあり,建築学会賞の3つや4つ分以上の価値はあると考えている。

 昭和521977)年,私が34歳のときに数量積算の「仕上の基準」と「土工・地業の基

準」が完成した。それ以前に完成していた「躯体の基準」にこれらの基準が加わったことにより,先に述べた「数量ネゴ」はなくなり,数量は理論的に一つとの概念が定着した。これは「単価」の基準を決めることにも役立った。さらにこの研究会では「内訳書標準書式」の改訂も行ったが,私はこの改訂にも前後2度に携わった。この研究会を通して多くの先駆者達の指導を受けることになり,特に益田垂華,黒田隆の両氏には今日まで深い交わりをいただいている。

 

概算方法の定着と「建築主の代理」の経験

 

 30歳になったら足を洗おうと思っていた積算であるが,「官民合同積算研究会」の委員として働くことが続行し,ますます積算の世界から足を抜くことができなくなっていった。30歳を過ぎてからは「概算」「コストプランニング」が私の主要な仕事になっていった。先駆者たちがこれからの積算は「工種別」では設計段階のコストプランニングには役に立たないと感じて「部分別(機能別)」を打ち出したのであるが,私たちの年代はその理論を用いてそれを実行に移したのである。「部分別方式」は施工会社のなかでは敬遠されたが(実際「工種別」に比べて「部分別」は見積書の厚さが3倍近くにもなる),基本設計段階のコストプランニングには有効に働くことが確かめられた。その後「内訳書標準書式」にも公式に入れられ,今日「概算」と言えばこの「部分別方式」がスタンダードなものとしてわが国に定着したのである。旧嚼ン物価調査会はいち早くこれに注目し,部分別の単価を書籍(現在は「建築コスト情報」)で発表し今日に及んでいる。

 昭和511976)年,33歳になったとき,弁護士の藤林益三先生から,「最高裁判所の判事に任命されたので官舎に移らなければならない,その間に家を新築したいので協力してもらいたい」と言われた。私は程度の高いものでなければいけないと思い,夫人が間接的に知っておられた某有名建築家(当時建築科の学生が人気投票すると常に一位であった)を推薦したが,夫人はその建築家の作品を知っていてあまり気に入らず「高橋さんに頼んだはうがよい」とのことで一切を私が取り仕切ることになった。私は友人が勤務する住宅設計を得意とする「連合設計社市谷建築事務所」を推薦し,私は今日でいうところのプロジェクトマネジャーの役割をすることになった。ところが,基本設計中に先生が最高裁判所長官になられたので設計打ち合わせが頻繁にできず,私が「建築主の代理」として設計事務所と建築主の間に立っようになった。完成したとき長官から「設計もよかった,費用も予定通りであった。施工もよかった」と感謝された。この一言が私に建築主の満足は「設計,費用,施工」の3拍子が揃うことであることを知った。そしてまた,このときから「建築主の代理」として働くプロジェクトマネジャーという立場にも深く興味を持つようになり,「芸術(設計)と経済(費用)と技術(施工)」のバランスおよび統合を司る人物,それがプロジェクトマネジャーの姿であることを学んだのである。J

 

設計段階のコストプランニングと事業収支企画

 

 藤林邸が完成するのを待って,連合設計社市谷建築事務所から招きの話があった。それは,わたしが藤林邸の企画,設計者選定,基本設計,実施設計,施工者選定,積算書査定,施工中の設計変更処理を通じてずっとコスト面でリードかつサポートしていたその働きを見られたのである。招きの理由は連合設計社市谷建築事務所のなかにコスト認識を注入してデザインとコストのバランスを取りたいというものであった。私はその頃課長に成りたてであったのですぐには辞めるわけにはいかず,また強く慰留されたこともあって約10ヵ月間考え抜いたが,昭和531978)年,35歳のときその設計事務所に転身した。

 設計事務所に移ってからは不思議に私に仕事を頼んでくる人が多くなった。そのほとんどが事業収支企画からの相談であった。これは私にとって光栄であると同時に,実にしんどいものであった。なぜなら,全財産の管理をしてそれをなくさないようにしなければならなかったからである。しかし,それまでに蓄えたコストプランニングの技術が大きく役立った。仕事はどんなにつまらないものでも辛抱して我慢してやっていればそれが必ず次のステップで役に立つものである。昭和551980)年,37歳のときに積算協会のヨーロッパ旅行に参加してRICSRoyalInstitute ofChartered Surveyors 公認積算士協会)を訪問し,その高尚なスピリットに触れた。後年RICSの会長が来日されたとき,私がフロアから「RICSの本質は何か」と質問したことがある。それに対しての会長の答え,「建築主の財産を保護することにある」との単純明快かつ高尚な姿勢に私はうなったものである。後にプロジェクトマネジャー養成のコストスクール開設に参画するようになるが,その動機はこのときのこの会長の言葉が胸の底にあったからである。なお,このヨーロッパ旅行のとき,一日皆と別れスイスのベルンへ行き,高校生のときから読みつづけていた「幸福論」の著者カールヒルティの墓に言旨でた。私は「建築労働者の幸福」とは何であるかを常に課題としていたからである。その頃,事業収支の計算手法の解説書は皆無であった。建築主にとっては基本設計の前にこの計算が必要であった。しかし,誰も教えてぐれる人がなく困っていたのである。そこで,実務を通じて独学で学び,その結果を昭和561981)年,38歳のときに『建築知識』誌に「コストプランニングの手順」と題して61ページ執筆した。これはコストプランニングの手法と事業収支計算の手法を解説したものである。翌年には同じ雑誌に「木造住宅のコストプランニング」を56ページ執筆した。これは基本設計中に最終コストを確定しないと建築主は不安で前に進めないという現実の悩みから独白の手法を編み出したものである。この2篇の論考はその後の私の著作の土台となった。2篇とも設計現場の苦労から生み出されたものであり,今でも多くの人に役立っていることは嬉しいことである。

 

マネジメント業務の社会的認知

 

 昭和591984)年41才のときのことである。中国地方のあるゴルフクラブの設計をしたとき,竹中工務店が「部分別」と「工種別」の両方を同時に提出してくれた。キー操作ひとつでどちらにも転換でき,それで苦もなく両方を提出してきたのである。私は夢を見ているようであった。部分別方式を生み出した先駆者たちがはるか望んでいたパソコンでの転換技術が現実のものとなったのである。設計事務所での私の主要な仕事は企画,それも事業収支企画からコストプランニング,実施設計中のコストスタディと常にコストがらみのものであった。特に私のチャンネルで受けた仕事はそれが顕著であった。そのような仕事が多くなった理由は,私が資本を抱えた企業から離れたからであると説明してくれた建築主がいた。また,ある建築主からはデザインと事業収支企画のバランスを取ることができるからだと言われた。この二人の言葉は,今後プロジェクトマネジャーはどのような立場また職能であるべきかを考察する上で重要であると思う。

 平成21990)年,47歳のとき私の論考を読んで企画と設計を依頼してきた建築主の第2棟目の建築設計が始まった。これは建築工事費45億円,総プロジェクトコスト55億円の,私にとってはビッグプロジェクトであった。このとき設計監理料のはかに企画マネジメント費用として建築工事費の15%を契約した。この頃からマネジメントというのは設計とは違うものだという認識が世の中に定着しはじめたと考える。このプロジェクトはバブルの最中に完成し,バブル崩壊後にテナント募集という猛烈に厳しいものであった。このプロジェクトをはじめ,事業企画から建築主の代理となって働いた体験が,その後のコストスクール・プロジェクトマネジャーコースの開設に役立った。これらのプロジェクトにおいては,設計事務所の所員は私のことを建築主の代理と認めてくれ,建築主は私のことを設計事務所の窓口として扱ってくれた。これがプロジェクトマネジャーのあるべき姿であることは先進諸国のプロジェクトマネジメントの指導書にも書かれていることであり,私はそのことを実地で体験することができた。

 その前年,平成1年(1989年)7月,46歳のときのことである。建築費国際比較の国際

会議のため,建設省と建設物価調査会の要請で,建築の専門家代表としてパリのOECD

本部に行った。その会議の休憩時間に,米国代表のコンサルタント会社ハンスコムのボーエン社長が「君の国はガラスの単価が高いことを知っているか」と話かけてきた。これがわたしにこれからは世界的な視野からコストを認識しなければならないことを理解させた。その後,米国からガラスが輸入されるようになり,日本のガラスメーカーは,そろって大幅にコストダウンしたのは間もなくのことであったと記憶している。後年輸入住宅の仕事に着手したときに,太平洋を渡るコンテナでの運搬費は,日本の港から現場までの陸送運賃とあまり変わらないことを知って,世界は狭くなったと感じたのである。

 

プロジェクトマネジャー養成のコストスクール設立

 

 平成71995)年,52歳のとき,積算協会20周年記念大会は,「建築プロジェクトの新しいマネジメント手法」というテーマでPMFMCMの代表者を招いてシンポジウム

                    

を行い,私はコーディネーターを勤めた。これはこの3分野に共通するM,すなわちマネ

ジメントはその中心にコストということがあり,コストということになれば積算協会の分野であることからテーマとしてとりあげたのである。プロジェクトを成立させる糸はコストであるという認識に積算協会が立ったことは各界の有識者から注目され,これが土台となって長倉康彦会長の指導でコストスクール・プロジェクトマネジャーコースが超スピードの半年の準備期間で開校した。コストスクールの講師選定に当たっては,官,学,民の幅広い分野から第一線で活躍されている当代一流の方々にお願いしたところ,趣旨をよくご理解くださり二つ返事で引き受けていただいた。次に受講生を募集したところ殺到して募集開始一時間で定員になり,翌年に回ってもらう人が続出した。受講生のなかには熊本,大阪,名古屋から毎週水曜日のスクールの日に飛行機や新幹線で通う人もいた。いま考えれば奇跡であったが,それというのも世の中が「プロジェクトマネジャー」という人物の登場を待っていたからである。このことは英国のRICSを手本として歩んできた積算協会の先駆者たちの永年の夢でもあった。

 

プロジェクトマネジャーの誕生

 

 今日,建築界は暗いニュースが多い。建築創造は本来楽しいものであるはずなのに,建築主はコストに深刻な不安をもち,建築労働者は不満顔をして現場で働いている。J・ラスキンは「建築の七燈」で「良い建築とはその建築に携わった労働者が,あの建築をしているときは幸福であった」という,そのような建築がよい建築なのであると言っている。その言葉から現代の建築界を見てみると,皆が皆「不幸,不満」な顔をしていて,そこに幸福感はない。特にコストをめぐる疑JL暗鬼の深さはどうしようもない。建築業界はこの暗い状態から抜け出ようと努力すること久しいが,いまだ決定的な道は見い出せないでいる。このようなとき世界の動きは,この混迷から抜け出る道は人格識見の備わった優秀なプロジェクトマネジャーの誕生・出現であるという認識に傾きつつある。これは発注者・受注者双方の見解であり,21世紀の建築生産はプロジェクトマネジャーの存在抜きには考えられなくなった。それはマネジメント技術の確立でなく,マネジャーという個の人格の確立である。その人格は建築主からも建築チームからも同じように信頼される中立的な存在である。この中立性ということが自由主義経済において大切なことであり,英国などはそれを非常に重んじているのである。そのような人物を育成しようとする積算協会BSIコストスクールの使命は重大である。かつてバウハウスは芸術と技術の統合をめざしたが,コストスクールがめざすプロジェクトマネジャーは「芸術と技術と経済」を一人格の中で統合することなのである。

 平成101998)年,55歳のとき縁あって財団法人建設物価調査会に転身することになった。この財団とは長い付き合いがあり,それまでの19年間に講習会86回,著作を4冊行っていた。ある時期に話があったものの踏ん切りがつかずにいたが,55歳になり頃合とみて転身することになった。建設省所管の公益法人であり,民間で育ってきた私にとっては耳新しいことがたくさんあった。公益法人は赤字になってはいけないが利益の追求を主目的としてはいけないのである。これが私の水に合っていた。特にプロジェクトマネジャーというのは中立性・第三者性が必要であり,その研究を進めていくうえでこの財団法人の精神はそれと一致するものである。残る生涯はこの機関において,わが国のプロジェクトマネジャーの職能確立とそれをサポートする資料の作成に邁進したく思っている。折しも建設省は,公共工事にプロジェクトマネジメント手法を導入すべく2004年度を目途に準備を開始したところである。そして官公庁の建物も次第に企画発想の段階からその作業が民間に委譲されていくであろう。それにはどうしてもプロジェクトマネジャーという人物が必要なのである。

 先日,建築会館で建築家の清家清先生にお会いしたとき,外国ではオーナーの財産を預かってその支払いの執行を任された人を「マネジャー」と呼んでいるという貴重なお話を伺った。人から財産を預けられること,これ人間として最も生きがいのある幸福の道である。

 

終わりに・新しい職能の出現

 

 今日まで縦割りであった建築の諸技術は,プロジェクトマネジャーという横糸の出現で初めてプロジェクト全体がコントロール可能となる。そのコントロールのためには,マネジャーはまずコストに強くなければならない。それを踏まえた上で,芸術とエ学と環境の精神性を深く理解し,これらを統合して人格的に「建築決断」する使命を負っている。マネジャーは,真珠の首飾りの糸である。表面には出ないが重要な役割を果たす。ますます細分化されていく21世紀の建築生産体制において,これは確実に必要な新しい職能である。建築プロジェクトの成否もまたわが国の建築文化の発展も,このマネジャーの力量と資質にかかっている。

1999年 1110日)

 

追記 

これを執筆した翌年2000年、57歳の時に家屋全焼、その3か月後に脳内出血で意識不明、死線をさまよったが幸い助かって今日73才まで生きてこらられた。感謝。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                               
 

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