190518-4                          さかなまーく ΙΧΘΥΣ イクスス()    

イエ(イエス)、クリス(キリスト)、セ()、ヒュ()、ソ(救い主)

聖書で聖書を読む 

教会(エクレシヤ)の土台は十字架と復活

聖書の 使信と無教会の立場。正統信仰は神の祝福で教会史に接続する

 

2019年5月19日 東京聖書読者会 高橋照男


@聖書の使信・・・教会(エクレシヤ)の土台は十字架と復活

 

@−1)塚本訳 マタ 16:16-18

16:16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたは救世主(キリスト)、生ける神の子であります!

16:17 するとイエスは(喜んで)ペテロに答えられた、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。これをあなたに示したのは血肉([人間]の知恵)でなく、わたしの天の父上だから。

16:18 それでわたしもあなたに言おう。──あなたはペテロ[岩]わたしはこの岩の上に、わたしの集会(エクレシヤ)を建てる。黄泉の門[死の力]もこれに勝つことはできない

@−2)塚本訳 マタ 21:42

21:42 イエスは彼らに言われた、「あなた達は聖書で(この句を)まだ読んだことがないのか。──“大工たちが(役に立たぬと)捨てた、それが隅の土台石になった。これは主のなされたことで、われわれの目には不思議である。”

 

@−3)塚本訳 使  4:10-11

4:10 あなた方御一同はもとより、イスラエル国民全体も、このことを知ってほしい。ナザレ人イエス・キリスト──あなた方が十字架につけ、神が死人の中から復活させられた方──その名で、この人がよくなって、あなた方の前に立っているのです。

4:11 この方は、(聖書にある)『大工の』あなた方から』投げ捨てられ、隅の土台石になった』です。

 

@−4)塚本訳 Tコリ3:10-13

3:10 わたしは戴いた神の(特別の)恩恵によって、熟練した棟梁として土台をすえた。他の人がその上に建ててゆく。だが建て方は、その人その人が気をつけるべきである。

3:11 なぜなら、(すでに)置かれている(ただ一つの)もののほか、他の土台をだれもすえることは出来ないのだから。──この土台はイエス・キリストである。──

3:12 ある人がこの土台の上に金、銀、宝石、(あるいは)木、草、藁で建てれば、

3:13 それぞれの仕事(が金か藁か)は、かならず明らかになる。(最後の裁きの)かの日がそれを明らかにするのである、その日は火で現われるから。そしてそれぞれの仕事がどんなであるかを、その火が試験して証明する。


@−5)塚本訳 ヨハ 2:19-21

2:19 イエスは答えられた、「このお宮をこわせ、三日で造ってみせるから。

2:20 ユダヤ人が言った、「このお宮を建てるには四十六年もかかったのに、あなたは三日で造るというのか。」

2:21 しかしイエスは自分の体のことを宮と言われたのであった
2:22
だから
死人の中から復活された時、弟子たちはこう言われたことを思い出して、聖書とイエスの言われた言葉と(が本当であること)を信じた。


@−6)塚本訳 Tコリ15:3-5

15:3 まえにわたしが(福音の)一番大切な事としてあなた達に伝えたのは、わたし自身(エルサレム集会から)受けついだのであるが、キリストが聖書(の預言)どおりにわたし達の罪のために死なれたこと

15:4 葬られたこと、聖書どおりに三日目に復活しておられること

15:5 またケパに、それから十二人(の弟子)に、御自分を現わされたことである。

 

@−7)塚本訳 ヨハ 20:23

20:23 人の罪は、あなた達が赦してやれば赦されて消え、赦してやらねば赦されずに残る。」

 

@−8)塚本訳 ヨハ 4: 38

4:38 (すなわち)わたしはあなた達をやって、あなた達が自分で苦労しなかったものを刈り取らせる。ほかの人々が苦労し、あなた達はその苦労(の実)を取り入れるのである。(あなた達はわたしがまいたものを、ただ取り入れるだけでよいのだ。)

 

@−9)塚本訳 マタ 26:11-13

26:11 貧乏な人はいつもあなた達と一しょにいるが、わたしはいつも(一しょに)いるわけではない。

26:12 この婦人がわたしの体に香油をかけてくれたのは、わたしを葬るためである

26:13 アーメン、わたしは言う、世界中どこでも(今後)この福音の説かれる所では、この婦人のしたことも、その記念のために一しょに語りつたえられるであろう。」

 

@−10)塚本訳 Tコリ11:25-26

11:25 食事の後、杯を同じように(感謝)して(分けて、)言われた、「この杯はわたしの『血』の犠牲を払った『新しい約束』である。(今から後、)飲むたびごとに、わたしを記念するためにこのことを行ないなさい」。

11:26 すなわち、主が(ふたたび)来られるまで、あなた達はこのパンを食べこの杯を飲むたびごとに、主の死(の意味)を、(このことを行なうことによって)宣べ伝えるのである。

 

A 無教会の立場・・・キリスト信者は神が生む

 

A−1)塚本訳 ヨハ 3:7-8

3:7 『あなた達は新しく生まれなおさねばならない』と言ったからとて、すこしも不思議がることはない。

3:8 風[プニューマ]は心のままに吹く。その音は聞えるが、どこから来てどこに行くか、あなたは知らない。霊[プニューマ]によって生れる者も皆、そのとおりである。」


A−2)塚本訳 ヨハ 4:21-26
4:21
イエスが言われる、「女の人、わたし(の言葉)を信じなさい。(間もなく)あなた達が、この山でもエルサレムでもなく(どこででも、)父上を礼拝する時が来る。
4:22
ただ(同じ神を、)あなた達は知らずに礼拝し、わたし達は知って礼拝している。救いはユダヤ人から出る(のでわたし達だけに神が示された)からである。
4:23
しかし(ユダヤ人もサマリヤ人もなく、)本当の礼拝者が霊と真理とをもって父上を礼拝する時が来る。いや、今もうきている。父上もこんな礼拝者を求めておられるのである。
4:24 神は霊である。だから礼拝者も霊と真理とをもって礼拝せねばならない。

A−3)塚本訳 ヨハ 6:63

6:63 霊が命を与える。肉はなんの役にも立たない。いまわたしがあなた達に話した言葉は、霊である。だから、命である。

 

A−4)塚本訳 マタ 18:18-20

18:18 アーメン、わたしは言う、あなた達が地上で結ぶことはみな天でも結ばれ、地上で解くことはみな天でも解かれるであろう。

18:19 なお、アーメン、わたしは言う、何事によらず、もしあなた達のうちの二人が心を一つにして地上で祈るならば、わたしの天の父上は(きっとその願いを)かなえてくださるだろう。

18:20 二人、三人、わたしの名によって集まっている所には、わたしがいつもその真中にいるのだから。」

 

 

Bキリスト信者の使命。 十字架と復活を信じて喜びのうちに「花と散れ」

 

B−1)塚本訳 ルカ 8:38-39
8:38 (帰ろうとされる時に、)悪鬼を追い出された男がお供をしたいと願ったが、(許さず、)こう言ってお帰しになった、
8:39 家に帰って、神がどんなにえらいことをしてくださったかを、(みんなに)話してきかせなさい。」すると彼は行って、イエスがどんなにえらいことを自分にされたかを、町中に言いふらした。

B−2)塚本訳 ヨハ 9:25
9:25 彼が答えた、「罪人かどうか知りません。ただ(もと)盲であったわたしが、いまは見えるという、この一つのことだけ知っています。」

B−3)塚本訳 ルカ 9:23
9:23 それから今度は皆に話された、「だれでも、わたしについて来ようと思う者は(まず)己れをすてて、毎日自分の十字架を負い、それからわたしに従え。

B−4)塚本訳 ヨハ 12:24
12:24
アーメン、アーメン、わたしは言う、一粒の麦は、地に落ちて死なねば、いつまでもただの一粒である。しかし死ねば、多くの実を結ぶ。(だからわたしは命をすてる。)

 

B−5)塚本訳 使  13:46

13:46 そこでパウロとバルナバとは公然こう宣言した、「神の言葉は(お約束どおり)まず第一に、君たち(ユダヤ人)に語られねばならなかった。(だから、そうしたのだ。)しかし君たちがそれをはねつけ、自分で自分を永遠の命にふさわしからぬ者とするので、それでは、よし、異教人(の伝道)へ方向をかえる。

B−6)塚本訳 ルカ 5:4

5:4 話がすむと、シモンに言われた、「沖に漕ぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい。」


B−7)塚本訳 ヨハ 4:35

4:35 あなた達のあいだでは『刈入れの時の来るにはまだ四月』と言うではないか。しかしわたしは言う、目をあげて畑を見てごらん。(麦畑の間を押し寄せてくるあのスカルの人たちを!)畑は黄ばんで刈入れを待っている。

 

B−8)塚本訳 マタ 9:36-38

9:36 そして“羊飼いのいない羊が”疲れきって、(地に)倒れている“ような”群衆を見られて、かわいそうに思われた。

9:37 そこで弟子たちに言われる、「刈入れは多いが、働き手は少ない。

9:38 だから刈入れの主人に、刈入れのため(多くの)働き手を送られるよう、お願いしなさい。

 

B−9)塚本訳 マコ 3:21
3:21
身内の者たちが(イエスの様子を)聞いて(ナザレからカペナウムへ)取りおさえに出てきた。「気が狂っている」と思ったのである。

 

B−10)塚本訳 ルカ 9:62
9:62
しかしイエスは言われた、「鋤に手をかけたあとで後を見る者は、神の国の役に立たない。

 

B−11)塚本訳 使  5:39

5:38 だから今のところ、わたしは諸君に言う。あの人たちから手を引いて、(そっと)放っておきなさい。それは、もしあの企てやすることが人間(の考え)から出たものならば、(手を下すまでもなくひとりでに)ほろびるであろうし

5:39 神から出たものなら、(どんなにしても)彼らをほろぼすことは出来ないのだから。そうでないと、諸君は神に手向かう者にならぬとはかぎらない。」そこで彼らはその勧告に従って、

 

B−12)塚本訳 使  20:24

20:24 しかしわたしは、自分の走るべき道を走りおえて、主イエスから託された、神の恩恵をつたえる福音を証しする役目をはたすためなら、自分の命のことなど口にする値打もないと思う。

 

B−13)塚本訳 ピリ 3:13-14

3:13 兄弟達よ、私はまだ自分で(それを)捉えたなどとは考えていない。しかし(ただ)一つの事──後ろのものを忘れ、前のものを追い求めながら、

3:14 (或る)目標に向かって、すなわち神がキリスト・イエスにおいて天上に招き給う褒美に向かって(ひた走りに)走っているのである。

 

B−14)塚本訳 マタ 10:26-28

10:26 だから彼らを恐れるな、(すべてはじきに明らかになるであろう。)覆われているものであらわされないものはなく、隠れているもので(人に)知られないものはないからである。

10:27 わたしが暗闇で(こっそり)話すことを、(大胆に)明るみで言え。耳うちされたことを屋根の上で宣伝せよ。

10:28 体を殺しても、魂を殺すことの出来ない者を恐れることはない。ただ、魂も体も地獄で滅ぼすことの出来るお方を恐れよ。

 

 

C正統信仰は神の祝福で教会史に接続する。塚本虎二の見解

 

C−1)聖書知識284号(昭和28年12月)P2

 

初代教会がこの信仰(高橋註・・・イエスの復活)に重点を置き、基督教自体も復活なしには立ち得ないのである

 

C−2)聖書知識308号(昭和30年5月)雑感雑録11月13日

東京の真中に、30年来
処女懐胎から復活再臨までの正統信仰を文字通り説き続けているコチコチの日曜集会があること、その会場の半数近くがギリシャ語を知っていることを、伝えてもらいたいと話した。

 

C−3)聖書知識321号(昭和32年1月)雑感雑録11月25日


丸の内は「正統信仰の証明」(第一ヨハネ5・5−12)。聖霊によって神の子が肉体で来られたことを信ずる信仰、そしてこの信仰により神の子にある永遠の生命を持つこと、これが正統信仰の証明であると語った。

 

C−4)聖書知識231号(昭和24年7月)「有体的復活」P5-7


復活のイエスは・・・・大体生前と同じような顔附や,丈の高さ、体の格好であり、手足の疵まで依然としてもとのようであるらしい。しかも生前と異り、彼は肉体の存在がうける時間空間等の凡ての制約を受けず自由に行動し、またその形態の変更が出来るらしい。彼はただ認めさせようと思う時だけ認められ、去来を悟られることなく、あるいは消えあるいは現れる。これはツァーンの註解に言う所であるが、大体当たっているように思われる。

ちかごろの人は一も二もなく、」こんなことは科学の進歩した今日、到底信じられないという。しかし何も今日に限らず、既にパウロの時に於いても彼が復活を説くと、みんなから嘲笑された。

 

塚本訳 使  17:32

    17:32 死人の復活と聞くと、嘲る者もあり、「そのことはまたいつかあなたに聞こう」と言う者もあった。

 

C−5)聖書知識231号(昭和24年7月)「有体的復活」P8


体的復活を信じなければクリスチャンならずということは出来ない。しかし単なる霊的の復活は聖書の説かないところであり、また実際問題としてかかる信仰は極めて力に乏しい。今日基督教に力がないのは、初代教会に於けるような体的復活と体的再臨の信仰がぼけて来たからである。私達は初代教会の信仰を嘲る前に、科学の進歩を誇る現代クリスチャンの信仰の何とラオデキヤ的であるかを省る必要があろう。

 

C−6)聖書知識197号(昭和21年9月)「教会の成長」P11


初代教会史の権威であるハルナック教授はある所で次のように言った。

―――初代教会の驚くべき成長の原因はその使徒達、護教者達、あるいは殉教者達にはなくして、普通一般クリスチャンの忠実なる日々の生活にあった。

また教会法の権威であるゾーム博士は、その名著『教会史概論』において次のように言っている

―――〔初代〕教会が勝ったのはクリスチャンの力ではなく、それとは関係なしに、福音の力である。

この二人の権威者の意見は一見矛盾する。一は人の力であると言い、他は福音の力であると言うからである。しかし結局は同じである。福音の力なくしては立派なクリスチャンがいても教会は伸びず、いかに大なる福音の力といえどもクリスチャンなくしては働き得な からである。ただ一つ確かなことは、福音は、使徒殉教者によらず一平信徒の日常生活を以て働くことである。然り、クリスチャンらしく生きまた死ぬることが最も有力な伝道である。

 

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