200523-1

                

さかなまーく ΙΧΘΥΣ イクスス()    

イエスス(イエス)クリス(キリスト)、セオス()、ヒュオス()、ソテル(救い主)

聖書で聖書を読む 

ユダは救われるのか

ユダなくして十字架の救いはなかった。ユダは神の御手のうち。

2020年 6月 21日 東京聖書読者会 高橋照男

 

 ●キリスト者の皆様お早うございます。昨日は、祈りのうちにあるご婦人から、妻を介して「ユダは救われるのですか。その聖書的根拠は何処ですか」という難問が来た。祈りのうちにある人の質問はうれしい。祈りは聴かれる証拠だ。こういう場合、神父や牧師は自分の所属する教派の教義で答えるが、それは束縛だ。無教会の場合は聖書に根拠を求める。ここに聖書を自由に読んでよい自由の喜びがある。

@ユダの疑問は人間として当然であった

塚本訳 ヨハ 12:4-6
12:4
弟子の一人で、イエスを売るイスカリオテのユダが言う、
12:5
「なぜこの香油を三百デナリ(十五万円)に売って、貧乏な人に施さないのだろうか。」
12:6
ユダがこう言ったのは、貧乏な人のためを考えたのではなく、(会計係であった)彼は泥坊で、あずかっている金箱の中に入るものをごまかしていたからであった。


Aユダがイエスを売ろうとした悪だくみはユダ自身から出たのではなく、悪魔(サタン)にそそのかされたため。

塚本訳 ルカ 22:3-6
22:3
すると(その時)悪魔(サタン)が、十二人の(弟子の)数に入っていたイスカリオテと呼ばれるユダに入った。
22:4
彼は出かけていって、大祭司連、宮の守衛長たちとイエスを売る方法について話し合った。
22:5
彼は喜んで、金をやることに話をきめた。
22:6
ユダは承諾し、群衆の目をぬすんで彼らにイエスを引き渡すよい機会をねらっていた。


Bイエスは何とかしてユダの悪企みを翻(ひるがえ)そうと最後まで努力された。

塚本訳 マタ 26:20-25
26:20
夕方になると、イエスは十二人の弟子たちをつれて席につかれた。
26:21
彼らが食事をしているとき、言われた、「アーメン、わたしは言う、あなた達のうちの一人が、わたしを(敵に)売ろうとしている!
26:22
(これを聞くと)弟子たちはすっかり悲しくなって、「主よ、わたしではないでしょう!」(「わたしではないでしょう!」)と、ひとりびとりイエスに言い始めた。
26:23
イエスは答えられた、「わたしと一しょに同じ鉢から食べている者、それがわたしを売る。
26:24 人の子(わたし)は聖書に書いてあるとおりに死んでゆく。だが人の子を売るその人は、ああかわいそうだ!生まれなかった方がよっぽど仕合わせであった。
26:25
イエスを売るユダが口を出した、「先生、わたしではないでしょう。」彼に言われる、「いや、そうかも知れない。

塚本訳 マタ 26:47-50
26:47
イエスの言葉がまだ終らぬうちに、見よ、十二人の一人のユダが来た。大祭司連、国の長老から派遣された大勢の人の群が、剣や棍棒を持ってついて来た。
26:48
イエスを売る者は、「わたしが接吻するのがその人だ。それを捕えよ」と、(あらかじめ)合図をきめておいた。
26:49
そこでいきなりイエスに近寄って、「先生、御機嫌よう」と言って接吻した。
26:50
イエスはユダに言われた、「友よ、そのために来たのではあるまいが!」その時人々が進み寄って、イエスに手をかけて捕えた。


Cユダは自ら首を吊るまで深く悔いた。

塚本訳 ヨハ 13:27-30
13:27
ユダがそのパンを受け取(って食べ)ると、その時、悪魔がユダに入った。そこでイエスがユダに言われる、「しようとしていることをさっさとしたがよかろう。」
13:28
しかしなんのためにこう言われたのか、食卓につく者のだれにもわからなかった。
13:29
中には、ユダは金箱をあずかっているので、イエスは「祭に必要な物を買っておけ」とか、貧乏な人たちに何かやるように、とか言われるのだと思った者があった。
13:30
ユダはパンを食べると、すぐ出て行った。夜であった。──(そとは丸い月がかがやいていたが、ユダの心は真暗であった。)

塚本訳 マタ 27:3-5
27:3
その時イエスを売ったユダは、イエスの判決が決まったのを見て後悔し、(受け取ったシケル)銀貨三十枚を大祭司連、長老たちに返して、
27:4
「罪もない(人の)血を売って、悪いことをした」と言った。彼らが答えた、「われわれの知ったことではない。お前が自分で始末しろ!」
27:5
ユダは銀貨を宮に投げ込んで去り、行って首をくくった。


D神はユダの罪を赦すであろう。

塚本訳 マタ 18:21-22
18:21
その時ペテロが進み寄ってたずねた、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したとき、何度赦してやらねばなりませんか。七度まででしょうか。
18:22
イエスがこたえられた、「いや、あなたに言う、七度までどころか、七十七度まで

塚本訳 ヨハ 12:47
12:47
しかしわたしの言葉を聞いて守らぬものがあっても、わたしはその人を罰しない。なぜなら、わたしは世を罰するために来たのでなく、世を救うために来たのだから

塚本訳 マタ 22:-10
22:8
それから家来たちに言う、『宴会の用意はできているが、招いた人は(客たる)資格のない者(ばかり)だ。
22:9
だから町の出口の所に行って、出会った者をだれでもよいから宴会に呼んでこい。』
22:10
家来たちは道に出ていって、出会った者を悪人でも善人でも皆集めてきたので、宴会場は客で一ぱいになった。

塚本訳 マタ 20:15-16
20:15
わたしのものを、わたしがしたいようにしてはいけないのか。それとも、わたしが親切をしてやったのが羨ましいのか。』
20:16
このように、最後の者が一番になり、一番の者が最後になるであろう。

 

E 結論

ユダの疑問と反逆は神の手の内にあった。ユダのゆえに十字架の救いの経綸はこの世に成就した。ユダは救われる。

 

 

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