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さかなまーく ΙΧΘΥΣ イクスス()    

イエスス(イエス)クリス(キリスト)、セオス()、ヒュオス()、ソテル(救い主)

聖書で聖書を読む 

「イエスの言葉」の力

・・・権威ある教え・・・

2020年 7月 5日 聖書読者会 高橋照男

 

●キリスト者の皆様お早うございます。去る6月21日の家庭礼拝では「『神の言葉』の力・・・『聖書で聖書を読む』人々からの応答」を話した。http://ej2ttkhs.web.fc2.com/denshou/200615.htm

これは同時にその日の「東京聖書読者会通信第18号。」にも載せた。しかし聖書聖書と言っても膨大である。キリスト教は「イエス」に特化集中する。岩波文庫が「福音書」は売れるが「使徒のはたらき」は絶版になったのは「御心」である。それだけイエスの言葉、主の言葉には不思議な権威がある。岩波文庫に塚本虎二訳の「福音書」が加わったことは画竜点睛であった。私のホームページの中でも「聖書で聖書を読むBbB」http://www.bbbible.com/にアクセスが集中するのはこれもまた「御心」である。平日2〜300人/日、土曜日3〜400人/日((おそらく牧師の説教準備のため)海外在留日本人からもある。牧師や伝道者だけではなく路上生活者からのアクセスがあることは衝撃である。その人にとっては「命綱」(某牧師の見解)なのである。これは聖書、特にイエスの言葉は神の言葉であることの証明である。また無教会主義の真理で福音が伝わることも知った。そこで今朝は「『イエスの言葉』の力・・・権威ある教え」と題して思いつく聖句を掲げ、感話を記そう。

塚本訳 マタ 7:28-29
7:28
イエスがこれらの話を終えられた時、一しょに聞いていた群衆はその教えに感心してしまった。
7:29
自分たちの聖書学者のようでなく、
権威を持つ者のように教えられたからである。

(感話)人間の話す言葉(パウロも!)は大脳皮質への説明であるから力がない。権威がない。

塚本訳 ルカ 8:24-25
8:24
弟子たちがそばに来て、「先生、先生、わたし達は溺れます」と言ってイエスを起した。イエスが目をさまして風と浪とを叱りつけられると、(たちどころに)静まって、凪になった。
8:25
彼らに言われた、「あなた達の信仰はどこにあるのか。」弟子たちは驚き恐れて、「
この方はいったいだれだろう、この方が命令されると、風も水も、その言うことを聞くのだが」と語り合った。

(感話)イエスの言動は世界史において「衝撃」であった。この人に生涯を賭けて悔いはない。

塚本訳 マタ 13:53-55
13:53
イエスはこれらの譬を終えると、そこを去り、
13:54
郷里(ナザレ)に行ってその礼拝堂で教えられた。すると人々が驚いて言った、「
この人はどこからこの知恵と、奇蹟とを覚えてきたのだろう。
13:55
これはあの大工の息子ではないか。母はマリヤで、兄弟はヤコブとヨセフとシモンとユダではないか。

(感話)真の権威は天からくる。有名大学(国内外)卒に権威なし。学校では真の権威が授けられない。学問は「薄めた酒」、原酒ではない。

塚本訳 ヨハ 7:15-17
7:15
ユダヤ人は驚いて言った、「
この人は学校に行ったこともないのに、どうして聖書を知っているのだろうか。」
7:16
イエスは答えて言われた、「わたしの教えはわたしの教えではない。わたしを遣わされた方の教えである。
7:17
その方の御心を行おうと決心する者には、わたしの教えが神から出たものか、それともわたしが自分で勝手に話しているかがわかるであろう。

(感話)塚本先生の「丸の内キリスト教講演会」が解散になると、多くの人は「聖書学者」に走った。すると先生は「心を掴む話がなされていない」と苦言を呈された(側聞)。「パンを求めているのに石をやっている」、「薄めた牛乳を飲ませている」、と言われるのだ。

塚本訳 ヨハ 3:34
3:34
神がお遣わしになった方は神の言葉を話される。神は(その方に)いくらでも霊をお与えになるからである。

(感話)言葉の本質は「霊」である。言葉の背後に霊が無ければ権威と力がない。

 

文語訳 ヨハ 1:1-3
1:1
太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。
1:2 この言は太初に神とともに在り、
1:3
萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。

(感話)少し学問をやった人は、人生も宇宙にも「見えざる手」があることを薄々感じるものだ。

塚本訳 ヨハ 6:63
6:63
霊が命を与える。肉はなんの役にも立たない。いま
わたしがあなた達に話した言葉は、霊である。だから、命である。

(感話)アウグスチヌス、キルケゴール、バルト、内村などの人間によるいわゆる「キリスト教弁証論」はこの一句に尽きる。

 

塚本訳 ヨハ 5:39-40

5:39 あなた達は聖書(旧約)をもっていることが永遠の命を持っていることのように思って、それを研究している。ところがこの聖書は、(永遠の命である)このわたしのことを証明しているのに、

5:40 あなた達はその命を得るためわたしの所に来ようとしない。


(感話)大脳皮質による「研究」で永遠の命は得られない

 

 

塚本訳 ヨハ 11:25-26

11:25 イエスがマルタに言われた、「わたしが復活だ、命だ。(だから)私を信じている者は、死んでも生きている。

11:26 また、だれでも生きて私を信じている者は、永遠に死なない。このことが信じられるか。」


(感話)人間の営みの動機は「死ぬまい、死ぬまい」と思うことである。しかし、それは「イエスを信じる」ことによって得られる。


塚本訳 ルカ 3:16
3:16
ヨハネがみんなに言った、「わたしは水で洗礼を授けているが、わたしよりも力のある方が(あとから)来られる。わたしはその方の靴の紐をとく値打もない者である
その方は聖霊と(裁きの)火とで洗礼をお授けになる。

(感話)クリスチャンの使命はイエスが神の子であることを身をもって指し示すことだ。

塚本訳 ヨハ 4:13-14
4:13
イエスは答えられた、「
この(井戸の)水を飲む者はだれでもまた渇くが、
4:14
わたしが与える水を飲む者は永遠に渇かない。そればかりでなく、わたしが与える水は、その人の中で(たえず)湧き出る水の泉となって、
永遠の命に至らせるであろう。」

(感話)いくら立派な神父や牧師や先生であってもそれは所詮「人間」。そのうち喉が渇いて飽きられてしまう。

塚本訳 ヨハ 6:68
6:68
シモン・ペテロが答えた、「主よ、(あなたを離れて)だれの所に行きましょう。
永遠の生命の言葉はあなただけがお持ちです(から)。

(感話)短い生涯。「イエスは神の子」と告白すればこの世的には失敗でも大成功の人生だ。

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