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さかなまーく ΙΧΘΥΣ イクスス()    

イエスス(イエス)クリス(キリスト)、セオス()、ヒュオス()、ソテル(救い主)

聖書で聖書を読む 

本当の礼拝者

・・・一人で神に対座することが本質・・・

2020年 8月 2日 東京聖書読者会 高橋照男

 

●キリスト者の皆様お早うございます。この5か月間 多くの教会も無教会集会も礼拝が休会になっている。これは「礼拝とは何か」を考える良い機会である。そこで今朝は「本当の礼拝者・・・一人で神に対座することが本質」と題して「聖書で聖書を読む」方法で黙想してみよう。 思いつくまま、順不同、神学的整合性なし。

口語訳   8:20-21
8:20
ノアは主に祭壇を築いて、すべての清い獣と、すべての清い鳥とのうちから取って、燔祭を祭壇の上にささげた。
8:21
主はその香ばしいかおりをかいで、心に言われた、「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない。

 (感話)人間が神に対座した最初の礼拝。これで神の怒りは止んだ。新型コロナウィルスも人類全体が本当の礼拝をすれば止む。

口語訳   28:18-22
28:18
ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで、
28:19
その所の名をベテルと名づけた。その町の名は初めはルズといった。
28:20
ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、
28:21
安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。
28:22
またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。

 (感話)信仰は天の神に向かう一人旅。いつか妻とも子供達とも別れる日が来る。しかし神が最後まで同行してくださる。

口語訳 ヨブ 1:21
1:21
そして言った、/「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。
1:22 すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。

 (感話)人間は裸で生まれ、財産は総て取り上げられて裸で神のもとに帰る。
  「人間は神に向かうように創造されているから、神の懐に憩うまでは安らぎを得ない。 」(アウグスチヌス)」

塚本訳 ヨハ 4:-21

4:20 (それでお尋ねしたいのですが、)わたし達の先祖はこの(ゲリジム)山で(神を)礼拝したのに、あなた達(ユダヤの人)は、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。(どういう訳でしょうか。)」

4:21 イエスが言われる、「女の人、わたし(の言葉)を信じなさい。(間もなく)あなた達が、この山でもエルサレムでもなく(どこででも、)父上を礼拝する時が来る。

 (感話)教会(集会)が堕落しても、一人でも神と対座して礼拝すれば「神に良しとされる」時代が来た。 沖縄の路上生活者が、スマートホンで私のホームページの「聖書で聖書を読む」のサイトを読んでいる。彼にとっては路上のダンボールの上が大聖堂である。


塚本訳 ヨハ 4:23-26
4:23
しかし(ユダヤ人もサマリヤ人もなく、)本当の礼拝が霊と真理とをもって父上を礼拝する時が来る。いや、今もうきている。父上もこんな礼拝者を求めておられるのである。
4:24
神は霊である。だから礼拝者も霊と真理とをもって礼拝せねばならない。」
4:25
女が言う、「キリストと言われる救世主が来ることは知っています。救世主が来れば、わたし達に何もかも知らせてくださるでしょう。」
4:26
イエスは言われる、「あなたと話しているわたしが、それだ。」

(感話)本当の礼拝者とは、聖霊によって神と神の子キリストを一人で礼拝する行為。職業宗教家による典礼(カトリック教会)でも、牧師による説教(プロテスタント教会)を聞くことでもなく、先生を崇拝したり、勉強した知識を披瀝(無教会集会)することでもない。

塚本訳 ルカ 2:49
2:49
彼らに答えられた、「なぜおさがしになったのです。わたしが(天の)お父さまの家に居るのは当り前でしょう。御存知なかったのですか。」

(感話)主は神殿を神の家と思っていた。無教会主義ではなかった。

「無教会主義が真理ならば、キリストが肉体をとってこの世に降らなくてもよかった。」(岩下壮一)

塚本訳 マタ 18:16
18:16
しかし(どうしても)聞かないなら、ほかに一人か二人、一しょに連れてゆくがよい。”すべてのことは、二人もしくは三人の証言によって定められる(というモーセの掟に従う)ためである。

(感話)尊敬する複数の人、または両親が共にキリストを信じていれば、人や子供はキリストに心が引かれていつかは救われる

塚本訳 マタ 18:20
18:20
二人、三人、わたしの名によって集まっている所には、わたしがいつもその真中にいるのだから。」

(感話)キリストの名によって集まらない、趣味の集団、この世的人脈、左翼的風潮の集団は 看板はキリストでも中身は「この世」。御心ではないから時間と共に自然消滅する。神は見ている。


塚本訳 マタ 26:13

26:13 アーメン、わたしは言う、世界中どこでも(今後)この福音の説かれる所では、この婦人のしたことも、その記念のために一しょに語りつたえられるであろう。」

 

(感話)教会(集会)は罪の赦しの福音が説かれる所。人間の記念をするところではない。福音は集客ではなく、発信。

塚本訳 ロマ 12:1
12:1
(このように、神は偉大な計画によって人類を一人のこらず救おうとしておられるのであって、救いは確かである。)だから、兄弟たちよ、わたしは神のこの慈悲を指してあなた達に勧める。あなた達の体を(感謝のしるしとして神に)捧げよ。この生きた聖なる犠牲こそ、神のお気に入るものであり、(霊なる神を拝むにふさわしい、)あなた達の霊的な礼拝である。(あなた達の礼拝は動物を供えるような不合理なものでなく、全心全霊をささげる合理的な礼拝でなければならならない)

 (感話)聖職者にならず、キリスト教の教師にならず、キリストの冠のつく仕事に就かず、この世の普通の仕事に就くことが 真の実質的礼拝。バッハのカンタータ147番「心と口と行いで」は無教会者の歌だが、最も厳しい道だ。

塚本訳   21:22-23
21:22 都の中には宮を見なかった。全能者たる主なる神と仔羊とがその宮であるからである。
21:23 また都はそれを照らすのに太陽をも月をも必要としない。神の栄光がそれを照らし、仔羊がその燈火であるからである。

 (感話)来世では物理的教会はない。神とキリストの霊が教会、集会、神殿、エクレシヤの本質である。

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