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塚本虎二イエス伝研究 第191講 

捕 縛

――ユダの接吻――

     マルコ14章43−46節

(マタイ26:47−50 ルカ22:47−48 ヨハネ18:3−9)

         2021年2月14日  高橋トミ子

 

塚本訳 マコ 14:43-46

14:43 イエスの言葉がまだ終らぬうちに、早くも十二人の一人のユダがあらわれる。大祭司連、聖書学者、長老のところから派遣された一群の人が、剣や棍棒を持ってついて来た。

14:44 イエスを売る者は、「わたしが接吻するのがその人だ。それを捕えて、手ぬかりなく引いてゆけ」と、(あらかじめ)合図をきめておいた。

14:45 そこで、来るや否やイエスに近寄って、「先生」と言って接吻した。

14:46 人々がイエスに手をかけて捕えた。

 

塚本訳 マタ 26:50a

26:50a イエスはユダに言われた、「友よ、そのために来たのではあるまいが!」

 

塚本訳 ルカ 22:48

22:48 イエスが言われた、「ユダ、接吻で人の子を売るのか。」

 

●ユダの接吻に対するイエスの言葉(マタイ2650a ルカ2248)に神の無限の愛が現れていると塚本先生は言う。その解説を抜き書きする。

 

〇 イエスの態度の何と堂々たるものであろう!彼は驚かず、わざとらしさも誇張もなく、いつものように極めて穏やかな態度を持って不逞の弟子に対された、「ユダの奸策を見抜きながらも。

 

〇 とにかく言い難き悲しみと怒りの裡(うち)に不逞の弟子に対する深い同情と愛を湛(たた)えていることは、何人(なんびと)にも看取出来る。

 

〇 もし今でもユダが「主よ」と言ってイエスの足下に身を投げその罪を悔いるならば、その場で彼を赦されるであろうことは少しも疑いの余地がない。イエスはこの言をもってユダに最後の救いの網を投げられたのであるが、それはついに無駄であった。

 

〇 彼がすべてを棄てて自分を神の手に委ねられた時、神の力が彼を占領して彼は無限の強者になられたのである。ユダに対するイエスの態度は無限の愛の力を有(も)つ人間の態度である。

 

〇 この夕、イエスは自分の死期の近きを予感されて、弟子たちと夕餐を共にされた。「この世で愛された弟子たちを最後の瞬間まで愛しぬかれた」と聖書はいう(ヨハネ13:1)。しかも、彼に愛せられし弟子の一人のユダの心に、悪魔は毒を注ぎ込んだのである。彼は銀三十枚をもって自分の愛する先生を敵に売った。彼は今、折からの月明に乗じて、勝手を知れる先生の隠れ場に、敵を案内して来たのである。

 

〇 かかる愛の呼びかけをもって、叛逆者ユダを呼ぶことは、神の子ならぬ何人にも不可能である。しかして、この愛の一語をもってするも、なお解けざりし、氷の如く冷たきユダの心は、悪魔の心でなければならぬ。

 

〇 そこにユダの悪むべき態度と、イエスの神々しきまでに高き態度との著しき対照を見る。一は悪魔の態度であり、一は神の子の態度である。一の卑屈にして、奸佞(かんねい)にして唾棄すべき偽善なるに対し、他の何と堂々として男らしく、しかも無限の愛をもって、この最後の瞬間に至るまでその不逞の弟子を悔い改めに導こうとされたことであるか!

 

〇 わたしはユダの叛逆の動機をもって、イエスに対する失望とみたい。(イエス伝177講)

 

〇 何故君は、主の足下に伏して詫びなかったか。まだ遅くはなかったのである。否、いつまでも遅くはないのである。主はそれを君に促しもとめられたのである。七度を七十倍するまで兄弟を赦すべく教えられた彼、放蕩息子の譬を語られた彼。

 

〇 十字架上に敵のために祈られた彼は、きっと他の十一の弟子に勝って君の改心を喜ばれたであろう。君がこれをせずして、ついに自ら縊(くびくく)ったことにおいて、君の罪は極まった。

 

〇 しかし、ユダよ、友よ、まだ遅くはないであろう。主は今日もなお、君の帰還を待っておられるであろう。

 

 

 

●感想(高橋トミ子)

 ユダと自分をどうしても重ねてしまう。塚本先生のお言葉のように、主は今日もなお、君の帰還を待っておられるであろう との言葉を信じて、ただただ真心をもって、歩んで参りたいと思います。

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