「私はモーだめでしょうか」「贖罪の道がある」(再掲)
ある新しい通信回線の勧誘宣伝の電話の女性との対話。2001.4.4
女性「さらに詳しいことは日曜日にお電話してもよろしいでしょうか」
私 「日曜日は聖書の勉強の集まりに出かけるかだめだ」
女性「あのオ――― ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか。わたし過去に好きな人と関係したことがるのですが、私はモーだめでしょうか」
私 「そんなことはない、イエス様が罪の身の身代わりになって死んでくださったからそれで新しく生まれ変わることができる。」
女性「ああ、なるほど」
女性「教会は私のようなものでも行ってよいのでしょうか」
私 「初心者向きの入門講座がウィークデーの夜にでもあるはずです」
女性「ここは神戸ですが、こちらにもありますか」
わたしはこれで多くのことを学んだ。この女性には「私はモーだめか」という過去の過ちという汚れの意識が厳然としてある。人間はどんなに堕落してもこのこの汚れの身を何とかしたいという意識があるのだ。
この悩みは、パウロの悩みであり、全人類の悩みでもあるのだ。
「私はモーだめか」という絶望の意識は正しい。なぜか、過ぎ去った過去は取り戻せないからである。汚点である。汚れである。人生のしみである。消せない。これだけはどうしようもないのである。
これに対する私の言葉。「イエス様が身代わりになって死んでくださった。それで新しく生まれ変わることができる。」という「情報」は神学的に言えば物足りず不備があるかもしれないが、この女性には感覚的にその意味が分ったらしい。その答えが、すかさず
「ああ、なるほど」で返ってきた。
わたしはびっくりした。これだけでわかったのか。福音は、これを受け入れる人にはどんなにまずい説明でも伝わるのだ。
「ああ、なるほど」・・・実に手ごたえのある返事であった。全宇宙に木霊(こだま)した。
「教会は私のようなものでも行ってよいのでしょうか」・・・日本の教会は敷居が高いのか。このように思われているのであったら大変だ。
生活に忙しく日曜日も働かなければならない人がいて、その人は「教会にもいけない」そんな人がかなりいることを知っている。教会はいつでも誰にでも接することができるように開かれていなければならないのだが、・・・・・敷居が高いらしい。
「教会」という概念はこのようなときに「救いの手」「見える手」として必要なものである。それが「無」であったらどうであろう。救いを求めているこのような女性はどこへ行ったらよいのであろうか。現代の「無」教会は「見えず」、見えても「教会」よりさらに敷居が高いのではないだろうか。イエスは教会を作ろうとされず、福音を拒否する人々を避けてこのような女性の中に入っていかれたのだ。
彼女の上に主の導きと恩恵あれ。彼女が行くかもしれない神戸の教会は彼女を受け入れ導いてほしい。期待する。彼女とはきっと来世で会えるであろう。いや会えなくても良い。救いの事実の知らせだけあれば。
高橋照男