210502-2      

さかなまーく ΙΧΘΥΣ イクスス()    

イエスス(イエス)クリス(キリスト)、セオス()、ヒュオス()、ソテル(救い主)

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ペテロの告白と受難の予告第一(ルカ9:18―22)

2021年 5月 2日 家庭集会 高橋照男

 

塚本訳 ルカ 9:18-22

9:18 イエスがひとりで祈っておられた時のこと、弟子たち(だけ)が一しょにいると、こう言って尋ねられた、「人々はわたしのことをなんと言っているのか。」

9:19 彼らが答えて言った、「洗礼者ヨハネ。あるいはエリヤ、あるいは昔のある預言者が生き返ったのだ、と言う者があります。」

9:20 彼らに言われた、「では、あなた達はわたしのことをなんと言うのか。」ペテロが答えて言った、「神の(お約束の)救世主!」

9:21 イエスは弟子たちを戒めて、このことをだれにも言うなと命じられた。

9:22 そして、「人の子(わたし)は多くの苦しみをうけ、長老、大祭司連、聖書学者たちから排斥され、殺され、そして三日目に復活せねばならない。(神はこうお決めになっている)」と言われた。

 

主題 「イエスの宣教」。私(イエス)は神の子。神の子の私は受難して復活する。

 

●イエスは十二人を派遣した時、福音を説かせた。

 

塚本訳 ルカ 9:6

9:6 十二人は出かけていって、村から村へとあるき回りながら、到る所で福音を説き、また病気をなおした。

 

●その後、七十二人の派遣の時にもイエスは福音を説かせた。

 

塚本訳 ルカ 10:9

10:9 その町の病人をなおし、また(町の)人々に、『あなた達には神の国(の喜び)が近づいた』と言え。

 

●初代教会においては、イエスは復活したということが宣教の主眼であった。しかしその前にイエス自身が宣教した。弟子達にも宣教を命じた。では何を宣教するように命じたのか。それは二つある。イエスの宣教の第一はイエスは自分が神の子であること。第二はその神の子は受難して復活するということ。それが十二使徒の派遣(ルカ9:1−6)に続く本日のルカ9:18−22に書かれている。ルカの編集力のすごさである。十二使徒たちに命じられた宣教の二点について「イエスの宣教」の主眼は何であったのかを探ってみようう。

 

●「イエスの宣教」の第一。私(イエス)は神の子である。

 

塚本訳 ルカ 7:18-23

7:18 洗礼者ヨハネの弟子たちがこれら一切のことをヨハネに報告すると、彼は弟子を二人ほど呼びよせ、

7:19 主の所にやって、「来るべき方(救世主)はあなたですか、それともほかの人を待つべきでしょうか」とたずねさせた。

7:20 その人たちはイエスの所に来て言った、「洗礼者ヨハネから来ました。『来るべき方はあなたですか、それともほかの人を待つべきでしょうか』とおたずねするよう申しつけられました。」

7:21 その時、イエスは多くの人の病気と苦しみと悪霊につかれているのとをなおし、多くの盲人を見えるようにしてやっておられたが、

7:22 答えられた、「行って、(今ここで)見たこと聞いたことをヨハネに報告しなさい。──“盲人は見えるようになり、”足なえは歩きまわり、癩病人は清まり、聾は聞き、死人は生きかえり、貧しい人は福音を聞かされている”と。

7:23 わたしにつまずかぬ者は幸いである。」

 

塚本訳 マタ 16:13-17

16:13 ピリポ・カイザリヤ地方に行かれたとき、イエスはこう言って弟子たちに尋ねられた、「世間の人は人の子(わたし)のことをなんと言っているか。」

16:14 彼らが言った、「あるいは洗礼者ヨハネ、あるいは預言者エリヤ、あるいはエレミヤとか(昔の)普通の預言者とか言う者があります。」

16:15 彼らに言われる、「では、あなた達はわたしのことをなんと言うのか。」

16:16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたは救世主、生ける神の子であります!

16:17 するとイエスは(喜んで)ペテロに答えられた、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。これをあなたに示したのは血肉([人間]の知恵)でなく、わたしの天の父上だから。

 

塚本訳 ヨハ 6:67-68

6:67 するとイエスが十二人(の弟子)に言われた、「まさか、あなた達まで離れようと思っているのではあるまいね。」

6:68 シモン・ペテロが答えた、「主よ、(あなたを離れて)だれの所に行きましょう。永遠の生命の言葉はあなただけがお持ちです(から)。

 

 

●「イエスの宣教」の第二。神の子の私は受難して復活する。

 

塚本訳 ルカ 18:31-34

18:31 イエスは(また)十二人(の弟子だけ)をそばに呼んで、こう話された、「さあ、いよいよわたし達はエルサレムへ上るのだ。人の子(わたし)について預言者たちが(聖書に)書いてあることは、ことごとく成就する。

18:32 ──異教人に引き渡されて、なぶられ、いじめられ、唾をかけられ、

18:33 ついに鞭で打たれて殺されるのである。しかし三日目に復活する。

18:34 弟子たちはこのことが全くわからなかった。この言葉(の意味)が彼らに隠されていて、(イエスの)言われたことが呑み込めなかったのである。

 

塚本訳 ヨハ 4:38

4:38 (すなわち)わたしはあなた達をやって、あなた達が自分で苦労しなかったものを刈り取らせる。ほかの人々が苦労し、あなた達はその苦労(の実)を取り入れるのである。(あなた達はわたしがまいたものを、ただ取り入れるだけでよいのだ。)」

 

塚本訳 マコ 14:7-9

14:7 貧乏な人はいつもあなた達と一しょにいるから、したい時に慈善をすることが出来る。だがわたしはいつも一しょにいるわけではない。

14:8 この婦人はできるかぎりのことをした。──前もってわたしの体に油をぬって、葬る準備をしてくれたのである。

14:9 アーメン、わたしは言う、世界中どこででも(今後)福音の説かれる所では、この婦人のしたことも、その記念のために(一しょに)語りつたえられるであろう。

 

 

●結論

「イエスの宣教」は、自分(イエス)は神の子であること。その神の子(自分)は罪の赦しのために受難して復活すること。この二点である。これは「パウロの宣教」にも連鎖している。「イエスの宣教」とパウロの宣教」には連続性があって矛盾はしない。

 

塚本訳 Tコリ15:3-5

15:3 まえにわたしが(福音の)一番大切な事としてあなた達に伝えたのは、わたし自身(エルサレム集会から)受けついだのであるが、キリストが聖書(の預言)どおりにわたし達の罪のために死なれたこと、

15:4 葬られたこと、聖書どおりに三日目に復活しておられること、

15:5 またケパに、それから十二人(の弟子)に、御自分を現わされたことである。

 

●2千年後の我々。死の悲しみの克復。

神の子(イエス)の受難による罪の赦しと復活を頂いて永遠の命の希望に生きることが出来る。

 

塚本訳 ヨハ 11:26

11:26 また、だれでも生きて私を信じている者は、永遠に死なない。このことが信じられるか。」

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