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さかなまーく ΙΧΘΥΣ イクスス()    

イエスス(イエス)クリス(キリスト)、セオス()、ヒュオス()、ソテル(救い主)

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親の罪に悩む人

・・・イエスの犠牲の血により、親も子も救われる・・・

2021年 7月 18日  高橋照男

 

キリスト者の皆様お早うございます。一昨日、NHKクローズアップ現代「死刑囚の母と子」を妻と見た。(NHKはよくやってくれた)和歌山カレー毒物事件(1998年)の犯人林眞須美(現在服役中)の長女が親の罪をはかなんで子連れ無理心したことを取り上げた。こういう話を聞くとどうにもやりきれない気持ちが沸く。「気の毒な人」と言ってこれ以上の人はいない。親は死刑でもやむを得ないが、子供に罪はない。そんな時「キリストの流した血はどんな罪も赦され清められる」という福音は救いである。一条の光である。心の重荷が下りる。今朝は親の罪を悩んでいる人に向かって書く。俺は行く、電波よ飛んで行け。「親の罪に悩む子等よ泣くな! キリストの血はどんな罪も赦され清められる」。親の罪を背負って生まれた人はいかにして救われ幸福になれるか。この宇宙大の問題を神の子イエスに聞いてみよう。順不同。徒手空拳。

塚本訳 ヨハ 9:1-3

9:1 イエスは通りがかりに、生まれつきの盲人を見られた。

9:2 弟子たちが尋ねた、「先生、この人が盲で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか、両親ですか。

9:3 イエスは答えられた、「この人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。ただ神の御業がこの人に現われるためである。


塚本訳 ヨハ 9:5-7

9:5 世におる間、わたしは世の光である。」

9:6 こう言って地に唾をはき、唾で泥をつくり、その泥を盲人の目に塗って、

9:7 言われた、「行って、シロアム池で洗いなさい。」(シロアムは訳すると「遣わされた者」。)そこで盲人は行って、洗って、見えるようになって、かえって行った。


塚本訳 ルカ 5:12-13

5:12 ある町におられた時のこと、そこに体中癩病の人がいた。イエスを見ると、頭を地にすりつけ、「主よ、(清めてください。)お心さえあれば、お清めになれるのだから」と言って願った。

5:13 イエスは手をのばしてその人にさわり、「よろしい、清まれ」と言われると、たちまち癩病が消えうせた。

 

塚本訳 マコ 14:6-9

14:6 イエスは言われた、「構わずにおきなさい。なぜいじめるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。

14:7 貧乏な人はいつもあなた達と一しょにいるから、したい時に慈善をすることが出来る。だがわたしはいつも一しょにいるわけではない。

14:8 この婦人はできるかぎりのことをした。──前もってわたしの体に油をぬって、葬る準備をしてくれたのである。

14:9 アーメン、わたしは言う、世界中どこででも(今後)福音の説かれる所では、この婦人のしたことも、その記念のために(一しょに)語りつたえられるであろう。

塚本訳 マコ 14:22-24                   14:22 (ユダが立ち去ったあと、)彼らが食事をしているとき、イエスは(いつものように)パンを(手に)取り、(神を)讃美して裂き、弟子たちに渡して言われた、
「取りなさい、これはわたしの体である。」(皆がそれを受け取って食べた。)

14:23 また杯を取り、(神に)感謝したのち彼らに渡されると、皆がその杯から飲んだ。

14:24 彼らに言われた、「これは多くの人のために流す、わたしの約束の血である。


塚本訳 ヨハ 4:37-38

4:37 『まく人、刈る人、別の人』という諺は、そのままここに当てはまるからである。

4:38 (すなわち)わたしはあなた達をやって、あなた達が自分で苦労しなかったものを刈り取らせる。ほかの人々が苦労し、あなた達はその苦労(の実)を取り入れるのである。(あなた達はわたしがまいたものを、ただ取り入れるだけでよいのだ。)


塚本訳 マコ 10:45

10:45 人の子(わたし)が来たのも仕えさせるためではない。仕えるため、多くの人のあがない金としてその命を与えるためである。」

塚本訳 ルカ 9:22

9:22 そして、「人の子(わたし)は多くの苦しみをうけ、長老、大祭司連、聖書学者たちから排斥され、殺され、そして三日目に復活せねばならない。(神はこうお決めになっている)」と言われた。


塚本訳 ヨハ 12:24

12:24 アーメン、アーメン、わたしは言う、一粒の麦は、地に落ちて死なねば、いつまでもただの一粒である。しかし死ねば、多くの実を結ぶ。(だからわたしは命をすてる。)

 

塚本訳 マタ 11:28-30

11:28 さあ、疲れている者、重荷を負っている者はだれでも、わたしの所に来なさい、休ませてあげよう。

11:29 わたしは心がやさしく、高ぶらないから、わたしの軛を負ってわたしの弟子になりなさい、そうすれば“魂の休息が得られよう。”

11:30 わたしの軛は甘く、わたしの荷は軽い。」

 

塚本訳 マタ 12:22-23

12:22 そこに、悪鬼につかれた盲の唖をつれて来られたので、それをなおされると、唖が物を言い、目が見えるようになった。

12:23 群衆が皆呆気にとられて言った、「もしかしたらこの人は、ダビデの子ではなかろうか。」

 

塚本訳 ヨハ 13:7-8

13:7 イエスが答えて言われた、「わたしが何をしているのか、いまはあなたにわからない。(わたしがいなくなった)あとでさとるだろう。」

13:8 ペテロが言う、「わたしの足は、いつまでも絶対に洗わないでください。」イエスは答えられた、「わたしが(足を)洗ってやらないなら、あなたはわたしとなんの関係もない人だ。


塚本訳 ヨハ 13:14-15

13:14 してみると、主であり先生であるこのわたしが足を洗ってやったのだから、あなた達も互に足を洗う義務がある。

13:15 わたしがしてやったとおりあなた達もするようにと、手本を示したのである。


塚本訳 ルカ 9:23

9:23 それから今度は皆に話された、「だれでも、わたしについて来ようと思う者は、(まず)己れをすてて、毎日自分の十字架を負い、それからわたしに従え

 

塚本訳 Tコリ11:25-26

11:25 食事の後、杯を同じように(感謝)して(分けて、)言われた、「この杯はわたしのの犠牲を払った新しい約束である。(今から後、)飲むたびごとに、わたしを記念するためにこのことを行ないなさい」。

11:26 すなわち、主が(ふたたび)来られるまで、あなた達はこのパンを食べこの杯を飲むたびごとに、主の死(の意味)を、(このことを行なうことによって)宣べ伝えるのである。


●結論                            アーソーカ。親の罪は子の十字架。しかしイエスの犠牲の血により、親も子も救われる。人生の解き難き難問はここに救いの光がある。

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