220130-1
ΙΧΘΥΣ イクスス(魚)
イエスス(イエス)クリストス(キリスト)、セオス(神)、ヒュオス(子)、ソテル(救い主)
聖書で聖書を読む
サマリヤ人歓迎せず(ルカ9:51−56)
2022年 2月 6日 高橋照男
塚本訳 ルカ 9:51-56
9:51 イエスは(いよいよ)昇天の日が迫ったので、決然としてその顔をエルサレムへ向けて進み、
9:52 (まず行くさきざきに)使を先発させられた。ところが、彼らが行ってイエスのために宿の用意をしようとしてサマリヤ人の村に入ると、
9:53 村人たちはイエスが顔をエルサレムへ向けて進んでおられるので、承知しなかった。
9:54 弟子のヤコブとヨハネとはそれを見て(憤慨して)言った、「主よ、(エリヤのように)“天から火を”呼び“下して、”あの奴らを“焼き殺してしまい”ましょうか。」
9:55 イエスは振り返って二人を叱り、
9:56 みなとほかの村へ行かれた。
●まず、ルカ9章51-53節。邦語100年間の各種翻訳並読。
聖書協会共同訳2018
ルカ 9:51 天に上げられる日が満ちたので、イエスはエルサレムに向かうことを決意された。
ルカ 9:52 それで、先に使いの者たちをお遣わしになった。彼らは出かけて行って、イエスのために準備を整えようと、サマリア人の村に入った。
ルカ 9:53 しかし、サマリア人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムに向かって進んでおられたからである。
フランシスコ会訳2013
051さて、天に上げられる時が近づ いたので、イエスは、エルサレムに向かって旅立とうと決心された。
052そこで、使いの者を先に遣わさ れた。彼らは出かけていき、イエスのために準備しようと、サマリア人のある村に入った。
053しかし、サマリア人はイエスを 受け入れなかった。イエスがエルサレムに向かっておられたからである。
岩波翻訳委員会訳1995
420951さて、イエスが〔天に〕取り上げられる日々が満ちた時、彼は自らその面(おもて)をエルサレ ムに向けて〔決然と〕進もうとした。
420952そして自分の〔赴く〕先々に使者たちを遣わした。そこで彼らは〔先だつて〕行き、彼のために 備えようと、サマリア人たちのある村に入った。
420953しかし彼らは彼を受け入れなかった。彼の面がエルサレムに向かっていたからである。
新共同訳1987
9:51 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。
9:52 そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。
9:53 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。
前田訳1978
9:51 昇天の日が迫ったので、彼は顔を毅然とエルサレムへ向けて進み、
9:52 使いたちを先発させられた。彼らが行って宿の用意にとサマリア人の村に入ると、
9:53 人々は彼を受け入れなかった。顔をエルサレムへ向けて進んでおられたからである。
新改訳1970
9:51 さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、
9:52 ご自分の前に使いを出された。彼らは行って、サマリヤ人の町にはいり、イエスのために準備した。
9:53
しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。
塚本訳1963
9:51 イエスは(いよいよ)昇天の日が迫ったので、決然としてその顔をエルサレムへ向けて進み、
9:52 (まず行くさきざきに)使を先発させられた。ところが、彼らが行ってイエスのために宿の用意をしようとしてサマリヤ人の村に入ると、
9:53 村人たちはイエスが顔をエルサレムへ向けて進んでおられるので、承知しなかった。
口語訳1955
9:51 さて、イエスが天に上げられる日が近づいたので、エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ、
9:52 自分に先立って使者たちをおつかわしになった。そして彼らがサマリヤ人の村へはいって行き、イエスのために準備をしようとしたところ、
9:53 村人は、エルサレムへむかって進んで行かれるというので、イエスを歓迎しようとはしなかった。
文語訳1917
"420951"," イエス天に擧げらるる時滿ちんとしたれば、御顔を堅くエルサレムに向けて進まんとし、"
"420952"," 己に先だちて使を遣したまふ。彼ら往きてイエスの爲に備をなさんとて、サマリヤ人の或村に入りしに、"
"420953","
村人そのエルサレムに向ひて往き給ふさまなるが故に、イエスを受けず、"
●次に、ルカ9章51ー53節。ルター以後500年間の主要国聖書の引照で心に響くものを抜粋。拙ホームページ利用
(独)NESTLE-ALAND NOVUM TESTAMENTUM GRAECE 27版1993 の引照
新 共同 Tテモ3:16
3:16 信心の秘められた真理 は確かに偉大です。すなわち、/キリストは肉において現れ、/"霊"において義とされ、/天使たちに見られ、/異邦人の間で宣べ伝え られ、/世界中で信じられ、/栄光のうちに上げられた。
●次に、ルカ9章51ー53節。「聖書知識の宝庫 TSK」(口語訳対応)を読み、心に響くものをピックアップ。拙ホームページ利用。
John 13:1 1過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。
John 16:5 5けれども今わたしは、わたしをつかわされたかたのところに行こうとしている。しかし、あなたがたのうち、だれも『どこへ行くのか』と尋ねる者はない。
John 16:28 28わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである」。 Luke12:50 50しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう。 Philippians3:14 14目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。 1 Peter 4:1 1このように、キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである。
●結論
人の歩む道と時とは神に決められている。我々は、神の所から来て、神の所に帰るのだ。「死ぬ」のではなく造り主の所に行くのだ。肉体が壊れるのは「召される」兆候だ。十字架だ。イエスに倣って、「決然」と顔を天に向けなければならない。