「身体のよみがえり」、「陰府(よみ)」を信ず
・・・神の霊に触れることよって信じられるようになること・・・
安達太良聖書研究会 2007.9.2 高橋照男
【身体のよみがえり】
「身体のよみがえり」とはどういうことなのか
● 十字架とイエスの復活は信じられても自分の死後の「身体のよみがえり」は信じ難い
● しかし、古来からキリスト教の正統信仰には「身体のよみがえり」の信条が必ずある
● 日本人には死後霊肉分離の思想が濃厚で「身体のよみがえり」の信仰はなじめない
使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架に付けられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来りて生ける者と死ねる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン。
● 讃美歌566番は使徒信条。霊肉分離のグノーシス思想に対抗してできた可能性大
● 正統信仰が使徒伝承の連鎖反応になる。これが2000年の教会史の本質。
● 内村鑑三「私は古き古き十字架教だ」
古代教会からある「身体のよみがえりを信ず」という信仰箇条
●古代の信条は下記が通例(参考。渡辺信夫「古代教会の信仰告白」新教出版社P7など)
使徒信条*(最も古く、最も基本的でエキュメニカルなもの。原型は2世紀のローマ信条に遡り、8世紀には今日の形に固まる)、ニカイア・コンスタンティノポリス信条*、アタナシウス信条*、(以上が三大信条)ニカイア信条、カルケドン信条。
●これらのうち*印に「身体のよみがえり」の信条が含まれる。
パウロの「言葉」からでは信じにくい「身体のよみがえり」
口語訳
ピリ 3:20-21
3:20 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。
3:21 彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。
口語訳
Tコリ15:51-52
15:51 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。
15:52 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。
塚本訳 ロマ 8:11
8:11 しかしイエスを死人の中から復活させたお方の御霊があなた達の中に住んでおられるなら、キリスト・イエスを死人の中から復活させたそのお方は、あなた達の中に住んでおられるその御霊によって、あなた達の死ぬべき体をも生かしてくださるであろう。
「身体のよみがえり」は理性ではどうしても信じ難い。素朴な疑問が噴出
塚本訳Tコリ15:35
15:35 しかし、ある人は言うかも知れない、(かりに復活があるとしても、)どんな風にして死人が復活するのか、どんな体で来るのかと。
●コリント教会の人たちの最もな疑問。自分たちの死後の復活はどういう身体になるのか
●聖書には来世の姿や消息が書かれてないのはなぜか。そこが今日の我々には不満不安。
●一度来世に行って(三途の川を渡って)戻って来た人はいないから聞けない。
●皆がよみがえったら天国は満員になってしまう
●不信者がよみがえることはできないとしたら、私の身内はどうなるのか。
●最後の審判で裁かれる人はその後の「身体のよみがえり」はないのか
●来世では誰であるか分かるのか。夫婦はまた夫婦か
●先に逝った人と必ず会えるのか。
●不信者のままで死んだ人が来世にいないとしたら淋しいことである。
私が「身体のよみがえり」を信じられるようになったいきさつ
イエスの言葉が胸に突然に響いて、疑問氷解。意外な方面から疑問が解決
我は復活(よみがへり)なり、生命なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん
ヨハネ11章25節
新改訳1970
11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
11:24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
信仰上の百千の疑問は神の霊に触れると一瞬に氷解するわけ。信仰的安息とは。
●地図に道が書いてないときの山登りは案内人に従っていけば安心なのと同じ。
●この場合は、案内人という人格の存在を信じて安心する。あきる野市での体験。
●道がわからなくても人格を信じれば安心できる。信仰的安息の具体例。不思議なこと
●建築設計図が分からずとも建築士を信じて任せるのと同じ。建築士を信じない人もいる。
●マルタの前にイエスという人格が現われたことでマルタは安心して疑問が氷解した
文語訳
ヨハ 14:6
14:6 イエス彼に言ひ給ふ『われは道なり、眞理(まこと)なり、生命(いのち)なり、我に由(よ)らでは誰にても父の御許(みもと)にいたる者なし。
●頭の満足を求めて大脳皮質に理性の安息を求めようとしても、安息は訪れない。任せられる人格、神の霊の出現で安心する
●信仰的安息は神の霊に触れる時に実現する。なぜかその理由はわからない。不思議なこと。
●復活の様態の研究解明では安心しない。人間は知の満足で安心を得ようとしても無理。
口語訳
Tコリ1:21a
1:21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった
塚本訳 Tコリ1:21
1:21 なぜなら、(この)世(の人)が自分の知恵により(判断し)、神の知恵(の現われである御業)において神を認めることをしないので、神は馬鹿な(ことと見える十字架の)説教によって信ずる者(だけ)を救おうと、お決めになったからである。
●「身体のよみがえり」は復活の様態が頭で理解できるから信じられるようになるのではなく、イエスを復活させた神の霊に触れることによって信じることができて安心する。
●その時「身体のよみがえり」に関しての百千の疑問が氷解。それは神の霊に触れるから
塚本訳 ヨハ 6:63
6:63 霊が命を与える。肉はなんの役にも立たない。いまわたしがあなた達に話した言葉は、霊である。だから、命である。
塚本訳ヨハ 16:13
16:13 真理の霊が来る時、彼があなた達を導いていっさいの真理を悟らせるであろう。(いっさいの真理というのは、わたしと同じく、)彼は自分勝手に話すのではなく、(父上から)聞いたことを話すからである。また将来起るべき(世の終りの)ことをあなた達に知らせるであろう。
塚本訳 Tコリ2:13
2:13 またその(賜物の)ことをわたし達が話すにも、人間的な知恵に教えられた言葉によらず、御霊に教えられた言葉による。霊のことに霊のことを当てはめ(て解しようとす)るのである。
●人は使徒伝承という外部情報を受け入れ、ある時聖霊を頂くことによって胸が熱く❤なり、それによって心の目が開き、使徒伝承を信じることができる。それは瞬間の出会いである。するとその人は次の世への使徒伝承の担い手になる。誰もが光の使徒になる。
●自分の身に起こったことを世に広めたくなる。言わざるを得なくなる。これが使徒伝承。
●使徒伝承を受け入れることが救いの道。世に使徒伝承が絶対に必要な理由はここにある
塚本訳 ルカ
24:32-34
24:32
二人は語り合うのであった、「(そう言えば、)道々わたし達に話をされたり、聖書を説き明かされたりした時に、胸の中が熱くなったではないか」と。
24:33
時を移さず二人は立ち上がってエルサレムに引き返して見ると、十一人とその仲間とが集まっていて、
24:34
「ほんとうに主は復活して、シモン(・ペテロ)に御自分を現わされた」と話してくれた。
塚本訳 ルカ
8:39
8:39
「家に帰って、神がどんなにえらいことをしてくださったかを、(みんなに)話してきかせなさい。」すると彼は行って、イエスがどんなにえらいことを自分にされたかを、町中に言いふらした。
塚本訳 マタ
5:14-15
5:14
あなた達は世の光である。山の上にある町は隠れていることは出来ない。
塚本訳 ロマ
10:14
10:14
ところで、(呼ぶだけで救われると言うが、)信じたことのない者を、どうして呼ぶことができようか。聞いたことのない者を、どうして信ずることができようか。説く者がなくて、どうして聞くことができようか。
10:15
(神に)遣わされなければ、どうして説くことができようか。(しかし説く者はある。それはわたし達である。)『善いこと[福音]を伝える人たちの足の、なんと美しいことよ!』と書いてあるとおりである。
●教会史の本質は使徒伝承の連鎖反応。人間からの「使徒伝承」という水平情報が大脳皮質に入っていて、ある時神から聖霊が下ると胸が熱くなり、心の目が明いて使徒伝承が見える。聖書や使徒伝承が信じられるようになる。それを模式図に描くと次のようになる。
聖 霊 聖 霊 聖 霊 聖 霊
↓ ↓ ↓ ↓
→使徒伝承→胸熱→使徒伝承→胸熱→使徒伝承→胸熱→使徒伝承→胸熱→使徒伝承→
●この図において、使徒伝承と聖霊という垂直情報がぶつかったところで胸が熱くなる。
●水平情報だけであると、胸が熱くならず、逆に垂直情報だけであると歴史から遊離する。
●人が霊によって新しく生まれると、水平情報の源(親、先生)から離れていく宿命がある。
塚本訳 Tコリ15:3
15:3 まえにわたしが(福音の)一番大切な事としてあなた達に伝えたのは、わたし自身(エルサレム集会から)受けついだのであるが、キリストが聖書(の預言)どおりにわたし達の罪のために死なれたこと、
15:4 葬られたこと、聖書どおりに三日目に復活しておられること、
15:5 またケパに、それから十二人(の弟子)に、御自分を現わされたことである。
塚本訳 ヨハ 13:20
13:20 アーメン、アーメン、わたしは言う、わたしが遣わす者を受けいれる者は、わたしを受けいれるのであり、わたしを受けいれる者は、わたしを遣わされた方を受けいれるのである。」
塚本訳 ルカ 10:16
10:16 (七十二人の者に言っておく。──)あなた達の言うことを聞く者は、わたしの言うことを聞くのであり、あなた達を排斥する者は、わたしを排斥するのである。わたしを排斥する者は、わたしを遣わされた方を排斥するのである。」
●使徒伝承の「型」は自由形でよい。福音の光は本物であればどんな形でも漏れ出るから。
●茶道、花道、俳諧に流派、植物に種類があるように、キリスト教には教派がある。あった方がよい。 人には「向き向き」ということがあるから。人は様々。福音の受容排斥の型も様々。●しかし神は生きておられ、福音を排斥している者もいつの日にかは捕まえて全員を救ってくださると私は信じる。●イエスを復活させた「お方」、その神の能力を信ずるということが信仰の本質。復活の様態の知的理解ではない。
●第一コリント15章4節の復活は「起こす」という意味で、「起こしたもう」という神の行為に重心がある。
エゲイロー・・・・(眠りから)起こす、(死から)生き返らせる、(席から)立ち上がらせる、立てる(第一コリント15章4節)
アナスタシス・・・復活(ヨハネ11章23、25節)
●岩波版佐藤訳の第一コリント15章4節は他の訳が「復活」とあるのに「起こされ」となっている。それは復活信仰の本質を捉えている。イエスを復活させたお方(神)の動作、その能力に注目している翻訳である。
新共同訳1987
15:4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと
岩波翻訳委員会訳1995
461504そして埋葬されたこと、そして聖書に従って、三日目に〔死者たちの中から〕起こされていること、
●復活は神が起こしたもうという行為そのもの。その不思議な能力を信ずるというそこに信仰の重点がある。
●我々も神の主権の能力で「起こされる」のであって、死んだら自動的に復活するのではない。「身体のよみがえり」はあくまで神の主権の行為。そこにこの私も含めて誰でも救われる希望がある
●だから信仰なくして死んだ者にも望みがある。神の主権の発動があれば救われる。
岩波版佐藤訳 ロマ 10:9
451009なぜならば、もしもあなたがあなたの口で主イエスを告白し、あなたの心のうちで、神はイエスを死者たち〔の中〕から起こした、と信じるなら、あなたは救われるであろうから。
口語訳
ロマ 1:4
1:4 聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。
岩波版佐藤訳 ロマ
4:17
450417次のように書かれている。すなわち、私は多くの民の父として、あなたを立てた、と。この方を彼は信じたのであり、その方は死者たちを生かし、そして無なるものを有なるものとして呼び出される神である。
塚本訳 Uコリ4:14
4:14 というのは、主イエスを生きかえらせたお方は、イエスと一体としてわたし達をも生きかえらせ、あなた達と一所にその(御座の)前に立たせてくださることを知っているからである。
神が働かられるとき、その不思議さに人間は驚く。
●落ちたものが挙がる。捨てられた人が引き上げられる。
●だめだと思われた人生や家庭が。価値ある人生や家庭になる。
●死人が復活する(ラザロなど)
●罪人が赦されることも「不思議」中の「不思議」。それはこの身に起こった。
塚本訳 マタ
21:42
21:42
イエスは彼らに言われた、「あなた達は聖書で(この句を)まだ読んだことがないのか。──『大工たちが(役に立たぬと)捨てた石、それが隅の土台石になった。これは主のなされたことで、われわれの目には不思議である。』
主の語られたことは実現すると信じられるようになった人は幸いである。
人はその生涯のうちでいつか信じられる日が訪れる。トマスの例に学ぶ
新改訳
ルカ 1:45
1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
塚本訳 ヨハ
20:27-29
20:27
それから(すぐ)トマスに言われる、「指をここに持ってきて、わたしの手(の釘の跡)をよく見てごらん。手を持ってきて、わたしの脇腹に差し込んでみなさい。不信仰をやめて、信ずる者らしくしなさい。」
20:28
トマスがイエスに答えて言った、「わたしの主よ!わたしの神よ!」
20:29
イエスは言われる、「わたしを見たので、信じたのか。幸いなのは、見ないで信ずる人たちである。」
口語訳
ヘブ 11:13
11:13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
【陰府(よみ)にくだり】
クリスチャンの最大の悩みは信仰なき身内の救い。信者特有の悩み、心配事。
●聖書の告げるところによれば、どんなに善良で親切で人間的にすばらしい人であっても、そのままでは救われない。天国には行けない。残酷ではあるがいたし方がない。このことを知っていないと「絶対恩恵による無条件の罪の赦し」というキリスト教の本質はわからない。
塚本訳 ロマ
3:10-11
3:10
(聖書に)こう書いてある。──『正しい人がいない、一人もいない、
3:11
物のわかる人がいない、神をさがし求める人がいない。
●親が、また両親が熱心なクリスチャンでも子供はクリスチャンではない例がほとんど。子供がクリスチャンでも親兄弟がクリスチャンではない例がほとんど。主人がクリスチャンでも妻はさっぱり。夫人がクリスチャンでも夫はさっぱり。それが普通で一般。こういう場合のクリスチャンの悩みは深い。「一体アノ人はどうなってしまうのだろう」という疑問に陥る。この悩みは深刻である。これはクリスチャンたるものの特有の悩み。十字架。
そのとき陰府(よみ)、黄泉(よみ)の存在は慰め。そこは救いの場所
●ユダヤ人に死んだらどこへ行くのかと尋ねるとシェオール(ヘブライ語)=陰府(よみ)、黄泉(よみ)と答えるという。●日本語の辞書では黄泉は「死者の魂が行くところ」となっている。「黄泉帰り」とはここからくる。原語はシェオール(ヘブライ語)、ハデス(ギリシャ語)。新共同訳は陰府(よみ)、塚本訳は黄泉(よみ)。●ただしに日本における陰府の概念と聖書のシェオールないしハデスの概念はぴたり同じではない●新共同訳で陰府(よみ)は旧約聖書に68回、新約聖書に10回出てくるので、キリスト信者としてはなじみ深い言葉。讃美歌にもたくさん出てくる。代表例としてはルターの267番「神はわがやぐら」に「よみのおさ」という言葉がある。●陰府とは神を信じないで死んだ者が終末の時まで居るところ。いわば卒業保留状態。落第としての地獄ではない。追試の期間。教師というのはデキの悪い生徒を何とか追試で救おうと思う。追試は一般にやさしい問題が出る。●旧約で代表的な「陰府」の箇所
新共同
詩 139:8
139:8
天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。
●生きているうちに神を信じキリストの十字架による救いを頂いた人の霊魂は、死ぬと神の懐に安らうことができるとあるが、信じないで死んだ人は陰府に行って、そこでまた救いの機会(チャンス)を与えられる。これが聖書的、かつ「使徒信条」の伝えるところである。●陰府の存在は人間の願望から生まれた自己満足の慰めの教理ではなさそうだ。なぜか。イエス自身の頭の中に陰府の概念がある。●イエス自身、陰府と地獄は違う概念。
塚本訳ルカ
16:23-24
16:23
金持は黄泉で苦しみながら、(ふと)目をあげると、はるか向こうにアブラハムとその懐にいるラザロとが見えたので、
●パウロの思想は次の通り。イエスもパウロも死は眠りであるとの考えであった。
塚本訳 ロマ
14:9
14:9
キリストが死んで生き返られたのは、死んだ者と生きている者との主になるためであるから。
塚本訳Tテサ4:14
4:14
私達が信ずるようにもしイエスが死んで復活し給うたならば、神はイエスによって眠った者をも同様にイエスと共に連れ来たり給うであろうから。
●キリストも一度は陰府に下ってそこから神の力によって復活させられた。これはわれわれの慰めである。キリストさえも一度は陰府にまで下られた。
塚本訳
Tペテ3:18-19
3:18
というのはキリスト(御自身)すら罪の(贖いの)ために、義しい人でありながら義しからぬ人々のために、ただ一度死に給うたのである。これは君達を神に連れ行くためで、彼は肉では殺され給うたが、霊では活かされ、
3:19 且つ霊で行って、(陰府の)獄に閉じ込められていた(悪)霊達に(救いの福音を)宣べ給うた。
●初代キリスト教徒は詩篇16篇の10節をキリストが陰府から引き上げられたことを歌っているものだと読み込んだ。
口語 詩篇16:10
16:10 あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。
塚本訳 使 2:31
2:31
これは救世主の復活のことであると前から知っていて、こう語ったのです、『彼は黄泉に捨ておかれもせず、』彼の肉体の『朽ち果てることもない』と。
●神は死んだ人へも救いの手を伸べるというのがキリスト教の思想。使徒信条。生きているうちに不幸にも福音を信ずるに至らなかった人にもチャンスがきっとある。●99匹の健常な羊を残してでも迷い出た一匹を救う神、健康な者には医者はいらない、病人(罪人)を救いに来たという神。そういう父なる神は陰府にいる人間を救う。いつの日にか必ず捕らえて救う。●死んでも救われるチャンスはある。救いにラストチャンスというものはない。なぜか。神は全能だから。使徒信条の冒頭は「全能の父なる神を信ず」である。●塚本虎二先生とある夫人との対話。(出典失念、記憶) 夫人「先生、私の息子は神を信じないんですが、今のままで死んだらあの子はどうなるんでしょうか」。塚本「親としてどういう気持ち?」。夫人「あの子が滅びては困ります」。塚本「じゃー、大丈夫じゃないのかなー」
【結 論】
●「身体のよみがえり」も「陰府にくだり」も物理的、空間的、様態的にこれを大脳皮質でわかろうとしてもわからない。矛盾だらけ。●それは神の霊に触れることによって信じることができる。●これはキリスト教の本質である「三位一体」を信じるということについても同じ●子供の一人「お父さんの話を聞いてもさっぱり胸が熱くならない」●では神の霊にはどうしたら触れることができるか。「祈り求めれば」与えられる。
塚本訳 ルカ
11:13
11:13
してみると、あなた達は悪い人間でありながらも、自分の子に善い物をやることを知っている。まして天の父上が、求める者に聖霊(という善いもの)を下さらないことがあるだろうか。」
●だから我々の使命は人が「神の霊」を求める者となるように祈り続けることである。