エクレシアが記念すべきこと

「ナルドの香油」に学ぶ

ヨハネ121-11

 

東京聖書読者会 高橋照男 2010.7.4

 

●並行記事はマタ(266-13)マル(143-11)ルカ(736-50)。全福音書

●この物語が心に残るのは絵画的印象を与えるから。福音書記者は物語作者

 

12:1 イエスは過越の祭の六日前に(また)ベタニヤに行かれた。ここにはイエスが死人の中から生きかえらせたラザロがいた。

 

●福音書の読者はイエスが殺されるのは過越の祭だから、あと数日だと緊張。

塚本訳マタ 26:2

26:2 「知っているとおり、あさっては過越の祭である。(その日)人の子(わたし)は十字架につけられるために(敵の手に)引き渡される。

 

●ベタニヤはエルサレムまで僅か3kmの場所、イエスはここを死の前の一時の安息の地とした。ここを拠点にいよいよ殺されるエルサレムに向かう。

●ラザロは前の11章でイエスによって復活させられたあのラザロ。ラザロは確かに生きている。

 

12:2 するとそこでイエスのために宴会が催され、マルタは給仕をし、ラザロは相伴客の一人であった。

 

●大祭司や律法学者たちの妬みからイエスはすでにお尋ね者になっていた。

塚本訳 ヨハ 11:57

11:57 大祭司連とパリサイ人たちは、イエスの居所を知っている者は届け出るようにと、命令を出していた。イエスを捕えるためであった。

 

●宴会を催す人は決死の覚悟。イエスの弟子であれば礼拝堂追放になる。

塚本訳ヨハ 9:22

9:22 両親がこう言ったのは、ユダヤ人を恐れたのである。ユダヤ人は、イエスを公然救世主と認める者があれば、礼拝堂追放にすることを、すでに決議していたからである。

 

●「ラザロが相伴客の一人であった」というのは、ラザロは確かに生き返ったのだと言う事が強調されている。ラザロ事件がイエスが殺される原因となった。

塚本訳 ヨハ 11:47-48

11:47 そこで大祭司連とパリサイ人は最高法院を召集して言った、「どうすればよいだろう、あの男はたくさん徴[奇蹟]をしているのだが。

11:48 もしこのまま放っておけば、皆があれを信じ(て王に祭り上げ)るであろう。すると騒動が起り、ローマ人が来て、われわれから(エルサレムの)都も国民も、取ってしまうにちがいない。」

 

12:3 そのときマリヤは混ぜ物のない、非常に高価なナルドの香油一リトラ(三百二十八グラム)をイエスの足に塗り、髪の毛でそれをふいた。香油の薫が家に満ちた。

 

●このマリヤとは誰か。福音書の4人のマリヤの整理。イエスの母を除く。

 ➀ルカ10章のマリヤ (もてなしをしなかったゆっくり行動のマリア)

 Aヨハネ11章のマリヤ(ラザロの兄弟のマリヤ。イエスを迎えに行かない)

 Bナルドの香油の「女」(4福音書全部に出てくるが学者の推測は次の通り)

  BA マルコ・マタイの「女」とヨハネのマリヤは同一人物で且=@A

  BB ルカの「罪の女」はBAとは別人物で且=Cのマグダラのマリヤ          

 Cヨハネ20章のマリヤ(墓で泣くマグダラのマリヤ。ヨハネ201,18

 

@とAはおそらく同一人物。その理由は病気だったためか行動が「ゆっくり」である。Bのナルドの香油の女は二人に分かれる。BAのマタイ・マルコの「女」とBAヨハネのマリヤは@Aのマリヤと同一人物らしい。その根拠は次の個所。

 

塚本訳ヨハ 11:1-2

11:1 さて、ラザロというひとりの病人があった。マリヤとその姉妹マルタとの村、ベタニヤの人である。

11:2 このマリヤは主に香油を塗り、髪の毛で御足をふいた女であるが、病気であったラザロはその兄弟であった

 

一方BBのルカ(737)の「罪の女」とCのマグダラのマリヤはおそらく同一人物。その理由は「罪の女」のイメージがあるから(ルカ82 ヨハネ201,18)。

 

塚本訳ルカ 8:2

8:2 また悪霊や病気をなおしていただいた数名の女たち、すなわち、七つの悪鬼を追い出されたマグダラの女と呼ばれたマリヤと、

 

塚本訳ヨハ 20:1

20:1 (翌々日、すなわち)週の初めの日(日曜日)の朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に来てみると、墓(の入口)から石がのけてあった。

 

●しかし福音書のマリヤは何人であってもマリヤは「病気がち罪人」のイメージ。イエスはこういう悲しく惨めな人間に「接近した」ことは間違いない。

 

●客の体に香油を塗るというのは、ユダヤ人が大切な客をもてなす時の習慣。

塚本訳 ルカ 7:46

7:46 あなたは(普通の)油をすら頭に塗ってくれないのに、この婦人は(高価な)香油を足に塗ってくれた

 

●しかし同時に香油は死体を埋葬するときに、遺体に塗るためにも使われた。

塚本訳マコ 16:1

16:1 (翌日、日が暮れて)安息日が終ると、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエス(の体)に油を塗りに行くために、(油にまぜる)香料を買いととのえた

 

12:4 弟子の一人で、イエスを売るイスカリオテのユダが言う、

12:5 「なぜこの香油を三百デナリ(十五万円)に売って、貧乏な人に施さないのだろうか。」

 

●ユダがイエスを売るようになった原因はこの「ナルドの香油事件」でイエスに叱責されたからである。

●三百デナリというのは当時労働者の一日の賃金が一デナリ(マタイ20:2)であったので、三百日分、つまり年収であった。塚本訳の十五万円は現在では三百万円。

●罪で失敗の人生を受け入れて罪を赦してくれたイエスに対する「女」の感謝の気持ちは年収分のナルドの香油を注いでもなお足りないものであった。

●ユダにとっては、この「女」の感謝の気持ちからの行為を理解できなかった。

 

12:6 ユダがこう言ったのは、貧乏な人のためを考えたのではなく、(会計係であった)彼は泥坊で、あずかっている金箱の中に入るものをごまかしていたからであった。

 

●「女」の行為を見て憤慨したのは、マタイでは「弟子たち」、マルコでは「数人のもの」となっており、名前は特定されていない。しかしこれはユダであると同定して実名を付けたのは後代のヨハネ福音書。後代になるほど名前が付く。

●ヨハネ福音書がユダを「泥坊」と決めつけているのは、時代が進むにつれて、次第にユダのことを悪くようになってきたことの現れらしい。

●ユダの心の内は多分次のようであったのだろう。

「この女はつまらないことをしでかしたものだ。もしあの香油を会計係の私が預かっておいたら、金に換えてそれを私が自由に使うことができたのだが・・・」

 

12:7 イエスは言われた、「構わずに、わたしの埋葬の日のためにそうさせておきなさい。

 

●この節の訳は大きく分けて二種類に分かれる。

 

第一の訳は、シナイ、バチカン、ベザの写本に基づくもので、ここを命令文として「葬りの日のためにその香油をとっておかせなさい」と訳す。

英訳(NEB、REB、RSV、RV、NIV,RNT、モファット、バークレーV)。和訳(岩隈、前田、鶴田)

●この訳であると、注いだ香油がまだ残っているから、それを葬りの日に再び使えるのでとっておかせなさいということになり、ユダの非難に対するイエスの答えとしてはどこかピントが外れた発言になってしまう。

 

●第二の訳はアレキサンドリア写本にもとづくものでさらに(イ)と(ロ)の二通りに分かれる。

(イ)「彼女はこの香油を葬りの日のために取っておいたのだ」の意味に訳す。

   英訳(JB、KJV、TEV、NRSV、フィリップス、)

   和訳(口語、新共同、フランシスコ会、新改訳、共同、文語・大正改

      訳、明治訳、永井、ラゲ、バルバロ)

   独訳(ルター訳、ドイツ聖書協会訳)

 

   この訳であると、では葬りの日はいつであるかがボケている。そこで次               の(ロ)はこれを一歩進めてはっきり言い切る訳にしている。

 

(ロ)「いま行っているこの婦人の行為、これは私の葬りの儀式なのだ」との 

   意味に訳す。これは最近の傾向である。

   英訳(LB、ER)

   独訳(NTD)

   和訳(塚本、八木、田川、小林、キリスト新聞、現代訳)

 

  塚本虎二訳

  構わずに、わたしの埋葬の日のためにそうさせておきなさい。

 

    これは並行記事のマルコと同じ意味にしている。

    塚本訳マコ 14:8

    14:8 この婦人はできるかぎりのことをした。──前もってわたしの体 

    に油をぬって、葬る準備をしてくれたのである。

 

  八木誠一訳

  その婦人のしたいようにさせておきなさい。この婦人は私の屍に香油を塗

  ったことになるのだ。

 

  田川建三訳(マタイ26:12)

  彼女がこの香油を私の身体に注いでくれたのは、私を葬るためにしてくれ

  たのである。

 

  小林稔訳

  彼女のしたいようにさせてあげなさい。私の葬りの日のためにそれを取っ

  ておいたことになるためである。

 

  つまり、今行っているこの婦人の香油注ぎの行為、これは私の埋葬のため

  の儀式なのだという実に意味が深い訳になっている。

 

●「女」は自分の罪を赦してくれたイエスに感謝を込めて香油を塗った。しかし一方イエスは自分の死があと数日後であると予感していたので、今自分に香油が塗られているのは、自分の埋葬のための神による儀式なのだと感じた。

●なぜそう感じたのか。イエスは今後自分の埋葬の時にはもう誰も自分の体に香油を手厚く塗ってくれる人は現れそうにないと実感していた。

●「自分の死の意味」は今の世の誰も理解してくれないのだと感じていた。であるからイエスとしては、神は今まさにこの「女」を通じてのみ自分の葬りの儀式を始められたのだと思った。

●しかし、当のマリヤはイエスが間もなく死ぬなどとは全然知らなかった。

●その後、歴史的事実としてイエスの埋葬はどうなったか。イエスの遺体を手厚く葬ったのはアリマタヤのヨセフとニコデモだけだった(ヨハネ19:40)。人類の救い主はかくも惨めに捨てられた形で埋葬された。

●イエスは、この段階ですでに自分が惨めな葬り方をされることを予感していたのであろう。だから自分の足に香油を塗ってくれている「女」の行為を見ながら、「これは私の葬りのための香油塗りの儀式なのだ。神自身が私に今そうしてくれているのだ」と感じたのも無理からぬことであった。「構わずに、そうさせておきなさい」と言われたイエスの悲壮なる孤独感がひしひしと伝わってくる。イエスはこの時非常に淋しかったのである。

●「あなたの罪は赦された」というイエスの罪の赦し(マルコ2:5、ヨハネ5:14、7:47、8:11)は口先だけの事だけではなかった。イエスはこの「女」の罪の清算のためにこれから「死の旅路」に赴こうとしている。マリヤは自分の犯した罪の清算のためにイエスが死に赴くなどとは知らなかった。罪の赦しというのは死による代償無くしてはありえない。イエスはそれを自覚していた。

●結局、イエスの生きているうちは、イエスの死の意味はこの世の誰にも理解できなかった。イエスが「構わず、そうさせておきなさい」と言うのはイエスの独白、小声でのつぶやきであったのではないか。イザヤの次の言葉を思う。

口語訳 イザ 53:8

53:8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。

 

口語訳 イザ 53:4-5

53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ

 

12:8 貧乏な人はいつもあなた達と一しょにいるが、わたしはいつも一しょにいるわけではないのだから。」

 

●この意味は、今後社会現象としてあなた達の周りには貧乏な人が集まって来る可能性がある。だから「施し」はいつでも出来るであろう。しかし今この「女」がしている油塗りの儀式は今を逃したら機会はないのだから「構わず」にそのままにさせておきなさいというのである。

●ところがイエスのこの謎の言葉をユダは自分が咎められたと思ってしまった。ユダとしては「貧乏人」への施しは「良いことだ」と思って言ったのにイエスは「女」の方をかばって自分を咎めたと受け取り、イエスに失望し、躓いた。このときユダの心にサタンが入った。

 

12:9 するとイエスがそこに来ておられることを知って、大勢のユダヤ人があつまって来た。それはイエスのためばかりでなく、イエスが死人の中から生きかえらせたラザロをも見ようとしたのであった。

 

●ユダヤ人としては、先日生き返ったというラザロはどういう顔をしているのか、一目見たいと集まった。これはイエスの評判や人気がますます高まっていた証拠である。大祭司連達はこの人気が脅威であり恐怖であり妬みであった。

●宗教家の仕事が人気商売に堕落すると自分より人気の出る人間を激しく妬む。

 

12:10 そこで大祭司連はラザロをも殺す決意をした。

12:11 彼のことで多くのユダヤ人がだんだん離れていって、イエスを信じたからである。

 

であるから、大祭司連はイエスの人気が上がるようになった主たる原因である「ラザロ」本人を殺して、イエスの人気が高まった原因を消してしまおうとした。宗教家や信者の妬みは昔も今も変わらない。

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結論

 

●並行記事のマルコ(=マタイ)には次の言葉がある、

塚本訳マコ 14:9

14:9 アーメン、わたしは言う、世界中どこででも(今後)福音の説かれる所では、この婦人のしたことも、その記念のために(一しょに)語りつたえられるであろう。

 

●ナルドの香油のこの物語は後の人がイエスの死の意味を伝承するときに、必ず記念として添えて語り続けられるであろうという。「こういう気の毒な婦人がいたけれども、彼女が知らずに感謝の気持ちから行った香油塗り、それは彼女自身はその意味を知らなかった(ヨハネ1151のカヤパと類似)が、図らずも『神による人類救済の死を指し示す記念をした』偉業になっていたのだ」と。

塚本訳ヨハ 11:50-51

11:50 また、一人の人が民(全体)に代って死んで全国民が滅びない方が、諸君にとって得であることも考えておられない。」

11:51 しかしこれは、カヤパが自分から言ったのではない。その年の大祭司であった彼は、イエスが国民のために死なねばならぬことを、(自分ではそれと気付かずに、神の預言者として)預言したのである。

 

●この「女」の行った行為は図らずもイエスの死の意味を指向していた。今後エクレシアとしては「女」が知らずして行ったこの行為の意味と内容をよく理解して記念し続けるべきだいうのである。

●「エクレシアはイエスの死の意味を記念せよ!。有体的復活を伝承せよ!」。どんなに優れた人物であったとしてもエクレシアは人間を記念していてはいけない。それは人間偶像崇拝であるから神の祝福は受けられなくなり衰退する。

●エクレシアが終末まで「記念」すべきことをパウロは次の通りに言う。

 

塚本訳Tコリ11:24-25

11:24 (神に)感謝して裂いて、言われた、「これはあなた達のためにわたすわたしの体である。わたしを記念するためにこのことを行ないなさい」。

11:25 食事の後、杯を同じように(感謝)して(分けて、)言われた、「この杯はわたしの『血』の犠牲を払った『新しい約束』である。(今から後、)飲むたびごとに、わたしを記念するためにこのことを行ないなさい」。

 

●復活のイエスは弟子たちよりも先にマグダラのマリヤに有体的に姿を現し「女の人、なぜ泣くのか」と呼びかけた。これは人間として「死別の悲しみ」が癒される究極の状態である。イエスは極度の悲しみに陥っている人に進んで出かけて行って声をかけて生かした。・・・娘を失った礼拝堂の役人に(マタ918-26)、一人息子を失った母に(ルカ712-14)、ラザロの兄弟のマルタ・マリヤに(ヨハネ117-11)、結婚に失敗して悲しむサマリヤの女に(ヨハネ44-7)、期待していたイエスが死んで悲しむエマオの二人に(ルカ2415-18)、・・・・

これらによると「死は眠り!」。人間は肉体は死んだとしても信仰の有無にかかわらず誰も神の前では生き続けていることが分かる。神の力は死後にまで働く。

●ヨハネ福音書によれば、神がイエスの有体的復活の姿を現したのは罪の女のマグダラのマリヤ(ヨハネ201,18)。このマリヤが弟子たちにイエスの復活を告げに走った(マタ288)。この世的には落ち目の女が最初の使徒になった。

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