救世主(キリスト)はだれの子か

・・・イエスを神の子と告白する霊・・・

 

東京聖書読者会 2011.5.22 高橋照男

 

塚本訳マタ 22:41-46

22:41 イエスは(そこに)集まっているパリサイ人にお尋ねになった、

22:42 「あなた達は救世主のことをどう思うか。だれの子だろうか。」「ダビデの子」と答えると、

22:43 彼らに言われる、「ではダビデが御霊に感じて、救世主を主と呼んでいるのはどういう訳だろう。彼はこう言っている。──

22:44 『(神なる)主はわが主(救世主)に仰せられた、『わたしの右に坐りなさい、わたしがあなたの敵を(征服して)あなたの足の下に置くまで』と。』

22:45 だから、ダビデが(このように)救世主を主と呼んでいる以上、どういう訳で(その救世主が)ダビデの子であろうか。」

22:46 これにはだれ一人、一言も答えることが出来ず、またその日以後、もう問おうとする者もなかった。

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22:41 イエスは(そこに)集まっているパリサイ人にお尋ねになった、

 

 
 

 


*聖書問答でイエスが相手をじっと見て話しかけたのは見込みのありそうな人

 

塚本訳マコ 10:21-23

10:21 イエスは彼をじっと見て、かわいく思って言われた、「(よく守った。だが)一つ足りない。家に帰って、持っているものをみな売って、(その金を)貧乏な人に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことができる。それから来て、わたしの弟子になりなさい。」

10:22 彼はこの言葉に顔をくもらせ、悲しそうにして立ち去った。大資産家であったのである。

10:23 イエスは(うしろ姿を見送っておられたが、)やがて見まわして、弟子たちに言われる、「物持ちが神の国に入るのは、なんとむずかしいことだろう。」

 

塚本訳 ルカ 20:17-19

20:17 イエスは彼らをじっと見て言われた、では、こう(聖書に)書いてあるのはなんの意味であるか。──』大工たちが(役に立たぬと)捨てた石、それが隅の土台石になった。』

20:18 (救世主なる)その石の上に(つまづき)倒れる人は一人のこらず打ち砕かれ、(最後の裁きの日に)その石が倒れかかる人は、粉微塵になるであろう。」

20:19 この時聖書学者と大祭司連は、イエスが自分たちに当てつけてこの譬を言われたことを知ったので、(怒って)イエスに手をかけようと思ったが、人民(が騒ぎ出すの)を恐れた。

 

*今見込みのない人には「終末、再臨の時に分かる」と思って忍耐し黙秘し続けた

 

塚本訳ルカ 22:66-71

22:66 朝になると、国の元老院、すなわち大祭司連や、聖書学者たちが集まって、イエスを彼らの法院の議場に引いていって

22:67 言った、「お前が救世主なら、そうだとわれわれに言ってもらいたい。」彼らに答えられた、「言っても、とても信じまいし、

22:68 尋ねても、なかなか返事ができまい。

22:69 しかし今からのち、『人の子(わたし)は大能の神の右に坐って』いる。」

22:70 皆が言った、「ではお前が、神の子か。」彼らに言われた、「そうだと言われるなら、御意見にまかせる。」

22:71 すると彼らが言った、「これ以上、なんで証言の必要があろう。われわれが(直接)本人の口から聞いたのだから。」

 

塚本訳 Tコリ1:21-25

1:21 なぜなら、(この)世(の人)が自分の知恵により(判断し)、神の知恵(の現われである御業)において神を認めることをしないので、神は馬鹿な(ことと見える十字架の)説教によって信ずる者(だけ)を救おうと、お決めになったからである。

 

22:42 「あなた達は救世主(キリスト)のことをどう思うか。だれの子だろうか。」「ダビデの子」と答えると、

 

 
 

 

 

 


*ユダヤ人が期待していた救世主(キリスト)はダビデの子孫で地上王国の王。

 

新共同 イザ 9:5-6

9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。

9:6 ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

 

新共同 イザ 11:1-2

11:1エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち

11:2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。

 

新共同 エゼ 34:23-24

34:23 わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。

34:24 また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る。

 

*救世主(キリスト)はダビデの家系から生まれてイスラエルの国を救う政治的な王であるとう認識はイエスの時代にも引き継がれた。現在のユダヤ人も変わらない。

 

塚本訳 マタ 2:4-6

2:4 そこで王は国の大祭司連、聖書学者たちを全部集めて、救世主はどこで生まれるべきであるかとたずねた

2:5 彼らはこたえた、「ユダヤのベツレヘムで。預言者(ミカ)によって、こう書かれているからです。

2:6 『お前、』ユダの地なる『ベツレヘムよ、お前はユダの町々の中で、最も劣っているものでは』決してない。『一人の偉大なる支配者がお前の中から出て、わが民イスラエルを牧するのだから。』」

 

塚本訳 ヨハ 7:40-42

7:40 すると群衆のうちにこの言葉を聞いて、「確かにこの人は(世の終りに来る)あの預言者だ」と言う者があり、

7:41 「この人は救世主だ」と言う者もあり、また(反対して、)こう言う者もあった、「ガリラヤから救世主が出るとでも言うのか。

7:42 『救世主は〃ダビデの末〃から、ダビデの住んでいた村〃ベツレヘムから出る〃』と聖書が言っているではないか。」

 

塚本訳 ルカ 1:67-69

1:67 父ザカリヤはその時聖霊に満たされてこう預言した。──

1:68 『讃美すべきかな、イスラエルの神なる主!』『その民(イスラエル)を』心にかけて『あがないを』なし、

1:69 わたし達のために、僕『ダビデの』家に救いの(力強い)『角(なる救い主)をお立てになる』からである、

 

塚本訳 マタ 21:9

21:9 群衆は、イエスの前を行く者もあとについて行く者も、叫んで言った。──ダビデの子に『ホサナ!主の御名にて来られる方に祝福あれ。』いと高き所に『ホサナ!』

 

塚本訳 ヨハ 19:19-21

19:19 ピラトはまた捨札を書いて十字架の上に掲げさせた。ナザレ人イエス、ユダヤ人の王と書いてあった。

19:20 多くのユダヤ人がこの捨札を読んだ。イエスが十字架につけられた場所は、都に近かったからである。かつ捨札は、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書いてあった(ので、だれにでも読むことが出来た。こうしてピラトは、イエスが救世主であることを全世界に証ししたのであった。)

19:21 するとユダヤ人の大祭司連がピラトに抗議して言った、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この者は、ユダヤ人の王と自称した』と書き直してください。

 

*しかし神に霊の目を開けられた人は、救世主(キリスト)はこの世の王ではなく霊界の王なのであることがわかった。これがユダヤ教とキリスト校の分水嶺。

 

塚本訳 マタ 1:1

1:1 アブラハムの末のダビデの末のイエス・キリストの系図──

 

塚本訳ロマ 1:3-4

1:3 その御子、すなわち、人間としてはダビデの末から生まれ

1:4 聖なる霊としては死人の中から復活して力ある神の子と定められた方、わたし達の主イエス・キリストに関するものである。

 

22:43 彼らに言われる、「ではダビデが御霊に感じて、救世主(キリスト)を主と呼んでいるのはどういう訳だろう。彼はこう言っている。──

 

 
 

 

 


*イエスは聖書を聖霊に感じて読んだ。聖書は聖霊で読む時に本質読みができる。

塚本訳 Tヨハ2:27

2:27 しかしあなた達は、キリストから戴いた油(すなわち聖霊)が留っているのだから、だれからも教えてもらう必要はない。彼の油が万事についてあなた達に教えるように、またそれはまことであって、嘘ではない。そしてその油があなた達に教えたとおり、(つねに)キリストに留っておれ。

 

22:44(神なる)わが主(救世主)に仰せられた、『わたしの右に坐りなさい、わたしがあなたの敵を(征服して)あなたの足の下に置くまで』と。

 

 
  

 

 

 

 

*これは詩篇110篇1節の引用である。邦訳では「主」が並んでいるので分かりにくい。この詩の原初の姿は「ある王」(不明)の即位式に王の臣下である詩人が王を「わが主」と称えて歌ったもの。第一の「主」は神(ヤハウェ)で二番目のわが主は不明のある王のことであって同じ主でも別人格である。マルコ(マタイ)は70人訳詩篇(ギリシャ語)からそのまま引用しているのでそこでは両方とも「主」(キュリオス)という訳になっている。これが邦訳(口語、新共同訳)ではここの意味が分かりにくくなっている原因である。これは別人格であるということをはっきりと示すために、邦訳のうち第一の「主」を文語は「エホバ」、新改訳は「主」を太字、塚本訳は敷衍で区別している。また欽定訳(KJV)は「The LORDと太文字にしている。イエスの時代にはこの詩人はダビデで二番目の不明のある王はユダヤ人が理想の王として待望するメシヤだと認識されるに到りこの詩はメシヤ預言の詩となっていた。イエスも当時のこの解釈に立って、その理想のある王であるメシヤはこの私(イエス)自身のことを指しているのだと認識して発言した。この発言からイエスにはメシヤの自覚(尊厳意識)があったことがわかる。

 

口語訳 詩  110:1 ダビデの歌

110:1 わが主に言われる、「わたしがあなたのもろもろの敵を/あなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ」と。

 

新共同 詩  110:1

110:1 【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜ったの御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」

 

文語訳   110:1

エホバわが主にのたまふ 我なんぢの仇をなんぢの承足(しょうそく)とするまではわが右にざすべし

 

新改訳 詩  110:1

110:1 は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」

 

欽定訳(KJV)   110:1

1The LORD said unto my Lord, Sit thou at my right hand, until I make thine enemies thy footstool.

 

塚本訳 マコ 13:8

13:8 (世の終りが来る前に、)『民族は民族に、国は国に向かって(敵となって)立ち上がる』のだから。またここかしこに地震があり、飢饉がある。(だが)これは(まだ、新しい世界が生まれるための)陣痛の始めである

 

塚本訳 マコ 13:24-27

13:24 しかしそれらの日には、こんな苦難の後に、『日は暗く、月は光を放たず、』

13:25 『星は』天から『落ち、もろもろの天体が』震われるであろう。

13:26 するとその時、人々は『人の子(わたし)が』大いなる権力と栄光とをもって、『雲に乗って来るのを』見るであろう。

13:27 するとその時、人の子は天使たちをやって、地の『果てから天の果てまで』『四方から、』選ばれた人々を『集めるであろう。』

 

 

22:45 だから、ダビデが(このように)救世主を主と呼んでいる以上、どういう訳で(その救世主が)ダビデの子であろうか。」

 

 
 

 

 


*イエスには自分は神の子としての救世主(キリスト)であるという自覚(いわゆる尊厳意識)があった。しかしこの事が「目の開いていない」聖書学者や大祭司連、パリサイ人達にはわからなかった。キリスト信者の我々はイエスが霊界の王、(King of kings・・・ヘンデルのハレルヤコーラスは黙示録11:15の敷衍)を信じている

 

塚本訳 マタ 12:42

12:42 また、南の国(シバ)の女王がこの時代の人と一しょに(最後の)裁きの(法廷に)あらわれて、この人たちの罪が決まるであろう。というのは、彼女は地の果てからソロモン(王)の知恵を聞きに(エルサレムに)来たが、(この人たちは、)いまここにソロモンよりも大きい者がいる(のに、それに耳を傾けない)からである。

 

塚本訳 黙  11:15

11:15 (やがて)第七の御使いがラッパを吹いた。すると(沢山の)大きな声が天に起こってこう言うた──(今や)この世の王国は我らの主(なる神)とそのキリストの有となった。彼は永遠より永遠に王となり給うであろう

 

*イエスを神の子と告白する人は神に聖霊を付与された不思議な人。幸いな人。

 

塚本訳 マタ 16:15-17

16:15 彼らに言われる、「では、あなた達はわたしのことをなんと言うのか。」

16:16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたは救世主、生ける神の子であります!

16:17 するとイエスは(喜んで)ペテロに答えられた、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。これをあなたに示したのは血肉([人間]の知恵)でなく、わたしの天の父上だから。

 

塚本訳 Tコリ12:3

12:3 だから(霊の見分け方について、)あなた達に次のことを知らせる、神の霊に感じて語る者は、だれも 呪われよ、イエス!とは言わない、また聖霊に感じてでなければ、だれも、イエスは主と言うことは出来ない

 

塚本訳Tコリ2:12

2:12 しかしわたし達はこの世の霊でなく、神から来るその霊を戴いた。それは、神から恩恵として賜わったもの(の何であるか)が、わかるためである。

 

塚本訳 Tヨハ4:15

4:15 イエスが神の子であることを告白すれば、その人に神は留っておられ、その人も神に留っている

 

塚本訳 Tヨハ5:20

5:20 しかしわたし達は知っている、神の子が来て、(唯一の)まことの者(なる神)を知る知識力をわたし達に与えられたことを。そしてわたし達はこのまことの者の中に、(然り、)御子イエス・キリストの中に、あるのである。この方はまことの神であり、また永遠の命である。

 

塚本訳 Tテモ3:16

3:16 そして確かに(私達の)信仰の奥義は偉大である。(讃美歌にうたう通りである──)彼(キリスト)は肉にて顕され、霊にて義とされ、御使いたちに見られ、諸国の民に宣べ伝えられ、世に信ぜられ、挙げられて栄光に入り給うた。

 

塚本訳 ヨハ 1:13

1:13 この人たちは、人間の血や、肉の欲望や、男の欲望によらず、神(の力)によって生まれたのである。

 

塚本訳ヘブ 1:3

1:3 彼は神の栄光の放射であり、本質の像である。彼はまたその力ある言葉をもって万物を保たれる。彼は(この世に降り)、罪の潔めを成し(とげて、ふたたび)高き所にのぼり、(神の)御稜威の『右にお坐りになっている』

 

22:46 これにはだれ一人、一言も答えることが出来ず、またその日以後、もう問おうとする者もなかった。

 

 
 

 

 

 


*イエスという驚異の人物が実在し、その時代の人はその言動に驚愕したのは史実。

塚本訳 マタ 11:5

11:5 ──『盲人は見えるようになり、』足なえは歩きまわり、癩病人は清まり、聾は聞き、死人は生きかえり、『貧しい人は福音を聞かされている』と。

 

塚本訳 マタ 7:28-29

7:28 イエスがこれらの話を終えられた時、一しょに聞いていた群衆はその教えに感心してしまった

7:29 自分たちの聖書学者のようでなく、権威を持つ者のように教えられたからである。

 

塚本訳 マタ 11:25

11:25 その時イエスは声をはげまして言われた、「天地の主なるお父様、(神の国の秘密に関する)これらのことを(この世の)賢い人、知恵者に隠して、幼児(のような人たち)にあらわされたことを、讃美いたします。

 

塚本訳 ルカ 19:47-48

19:47 イエスは毎日宮で教えておられた。大祭司連、聖書学者たち、それに国の名士たちも、イエスを殺そうと思ったが、

19:48 どう仕様もなかった。だれもかれも皆イエスの話に聞きとれていたからである。

 

塚本訳ヨハ 7:46

7:46 下役らが答えた、「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」

 

*並行記事マルコ12:37bは次の「聖書学者、パリサイ人攻撃」の理解へ道を開く。

ネストレ、文語、塚本、口語などは段落を設けて次の部分への冒頭であることを示す。マタイ22:45-46を並行記事のマルコ12:37bと比較して見るとそこにはイエスの話しを喜んで聞いた「霊の目のあいている人」の存在があったことが分かる。これに次に続くマタイ23章はイエスが「学者、パリサイ人」を「目の見えない案内人」と批判するところである。マタイ23章のイエスの批判は宗教家の堕落生活そのものへの批判ではなく、22章の「キリストはだれの子か」に続くものでイエスを神の子と信じない人間の生活(特に宗教生活)はこうなるのだと言うのである。

 

塚本訳  マコ 12:37

12:37 (このように)ダビデ自身が救世主を主と言っているのに、どうして(その救世主が)ダビデの子であろうか。」 

  大勢の群衆は喜んでイエスの話を聞いていた。

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