故長谷川浩納骨式式辞
2006.8.27 多磨霊園
司式 高橋照男
口語訳
詩篇
90:3-6
90:3 あなたは人をちりに帰らせて言われます、「人の子よ、帰れ」と。
90:4
あなたの目の前には千年も/過ぎ去ればきのうのごとく、夜の間のひと時のようです。
90:5
あなたは人を大水のように流れ去らせられます。彼らはひと夜の夢のごとく、あしたにもえでる青草のようです。
90:6 あしたにもえでて、栄えるが、夕べには、しおれて枯れるのです。
●人生とは実に短くはかないもの
●この間、よい会社に入れたなーと羨ましく思っていた人も定年との話。
●長谷川家の納骨式はこれで3回目、1997年2003年、そして今回
口語訳
伝道の書
3:1-8
3:1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
3:2
生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
3:3 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、
3:4 泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、
3:5
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
3:6 捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、
3:7 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、
3:8 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。
●この世のことは「時」が解決するというのも真理。
●生まれるときは「時」が重要、予定日。死ぬときも「時」が重要、余命。
●「寿命だから仕方がない」という感情も真理。しかしそこに喜びはない
塚本訳 マタイ福音書 10:29
10:29
雀は二羽一アサリオン(三十円)で売っているではないか。しかしその一羽でも、あなた達の父上のお許しなしには地に落ちないのである。
●人生において死別は悲しいもの。子を失った母は「慰められようとしない」(マタイ2:18)
●
神は命を与えるが、「息を引き取る」事もする。すべて自在の御意志
●
死ぬときも神がご一緒で、神がご存知ということを知ると安らぐ
塚本訳 ヨハネ福音書 20:27-29
20:27
それから(すぐ)トマスに言われる、「指をここに持ってきて、わたしの手(の釘の跡)をよく見てごらん。手を持ってきて、わたしの脇腹に差し込んでみなさい。不信仰をやめて、信ずる者らしくしなさい。」
20:28 トマスがイエスに答えて言った、「わたしの主よ!わたしの神よ!」
20:29
イエスは言われる、「わたしを見たので、信じたのか。幸いなのは、見ないで信ずる人たちである。」
●神は「死後の復活、来世の実在」をイエスの復活で見せた。証明した。
●しかし人間は「見ても信じられない」こともある。トマスがそうであった
●しかし神は人生のいつの日にか不思議な方法で「来世の実在、復活」を信じられるようにして下さる。それによって死の恐怖を取り除いてくださる。
塚本訳 ロマ 3:23-24
3:23
なぜか。すべての人が罪を犯したため、いまだれ一人、(かつて持っていた)神の栄光をもたない。
3:24
(さりとて失った栄光を回復する力はないので、何一つ)代価を払わず、(ただ)神の恩恵によって、キリスト・イエスによるあがないの力で、(神に)義とされる(道が設けられた)のである。
●人間の側の行為である「悔い改め」や「信仰」や「信仰告白」で救われるのではない。神の側の一方的な絶対恩恵による無条件の罪の赦し出救われる。
● 私の母は、私の40年間の祈りも空しく、ついに昏睡状態の臨終に陥った時、無意識のうちに私の名前を4回呼んだ。これで私は神はその人に信仰が無くても救うのだと直感した。
●
新共同
テト 2:11
2:11 実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。
●信仰のあるなし。洗礼の有無、信仰告白のあるなし、悔い改めのあるなし、聖書を読んでいたかいないか、に関わらず神はすべての人を救う。
●キリスト教は「絶対恩恵による無条件の罪の赦し」がその本質
新改訳
Tペテ3:18-19
3:18
キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。
3:19
その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。
新改訳
使
10:42
10:42
イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。
●神は死者の神でもある。(マタイ22章23−33復活問答)
●生前、キリスト教や信仰や宗教ということに「縁」がなかった人にも神は死後でも尋ね、探し求める。(ルカ15章1−7いなくなった羊の譬)
●神は来世でも人の霊を救う。