平安な死を迎えるには
・・・「胃ガン疑惑」の恩恵と摂理・・・
東京聖書読者会 高橋照男 2008.2.3
2007年12月26日、私の身に突然「胃ガン疑惑」が生じた。2008年1月17日になって、それは「悪性」でなく、開腹手術はしないことになり一安心した。この嵐のような23日間において与えられた恩恵と摂理を記す。
1・死の恐怖の考察 (2007.12.26)
●痛み・・・・癌の肉体的苦痛はあと数年もすると和らげられるという。医学の進歩に感謝 。イエスも苦痛を和らげる葡萄酒を飲まれた(ただし、マルコとマタイでは飲まなかったとある)
塚本訳 ヨハ 19:29-30
19:29 酸っぱい葡萄酒の一ぱい入った器がそこに置いてあった。人々はその[酸っぱい葡萄酒を]一ぱい含ませた海綿をヒソプの(茎の先)につけて、イエス(の口許)に差し出した。
19:30 イエスは酸っぱい葡萄酒を受けると、「(すべて)すんだ」と言って、首を垂れて霊を(神に)渡された。
●滅却、滅び、虚無・・・・滅び失せるということへの本能的恐怖
塚本訳マコ 1:23-24
1:23 そのとき、その礼拝堂に汚れた霊につかれた一人の人がいたが、たちまち声をあげて叫んで
1:24 言った、「ナザレのイエス様、『放っておいてください。』わたしどもを滅ぼしに来られたにちがいない。あなたがだれだか、わたしにはわかっています。神の聖者(救世主)です。」
●忘れられる淋しさ・・・・・・身内でも3代も先になると「高橋照男なんていう祖父がいたのか」と忘れられる。しかし神は忘れない。然り、終末の日まで忘れない。
塚本訳 ルカ 12:6-7
12:6 雀は五羽二アサリオン(六十円)で売っているではないか。しかしその一羽でも、神に忘れられてはいないのである。
12:7 それどころかあなた達は、髪の毛までも一本一本数えられている。恐れることはない、あなた達は多くの雀よりも大切である。
塚本訳 マタ 18:10
18:10 この小さな者を一人でも軽んじることのないように注意せよ。わたしは言う、(わたしの父上は片時も彼らをお忘れにならない。)あの者たちの(守り)天使は、天でいつもわたしの天の父上にお目にかかっているのだから。
●別れの悲しさ……妻、子供、孫、この美しい景色。もうあの山々と大空を見ることができない。大好きなクラシック音楽が聴けない。
このうち最大の悲しみは子供に先立たれること。
塚本訳 マタ 2:18
2:18 『声がラマに聞えた、──(ラケルの)』はげしい『わめきと、なげきの声である。ラケルはその子らのために泣くばかりで、慰められようとしない、子らがもういないので。』
塚本訳 ルカ 7:12
7:12 町の門の近くに来られると、ちょうど、ある独り息子が死んで、(棺が)舁き出されるところであった。母は寡婦であった。町の人が大勢その母に付添っていた。
2・平安への模索 (2007.12.27〜2008.1.7)
●諦念・・・・人間は誰でもいつかは死ぬのだ。ゲーテの文学は諦念の文学といわれている。仏教の輪廻転生(葉っぱのフレディ)。しかしそこに復活の喜びがない。
新共同 詩 90:6-10
90:6 朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい/夕べにはしおれ、枯れて行きます。
90:7 あなたの怒りにわたしたちは絶え入り/あなたの憤りに恐れます。
90:8 あなたはわたしたちの罪を御前に/隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。
90:9 わたしたちの生涯は御怒りに消え去り/人生はため息のように消えうせます。
90:10 人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
●受容・・・・何らかの思想哲学による。「死の哲学」「無常感」。しかし大体は「やせがまん」であって喜びというものがない。
口語訳 ヨブ 1:21-22
1:21 そして言った、/「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。
1:22 すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。
●医学的知識・・・・胃ガンは切れば直る。検診の際のグレーはまずシロになる。胃なんかなくても生きていける。しかし肉体の健康や財産は「永遠の生命」獲得の足しにはならない。
塚本訳 ルカ 12:15
12:15 人々に言われた、「一切の貪欲に注意し、用心せよ。いかに物があり余っていても、財産は命の足しにはならないのだから。」
●激励・・・・絶対に癌ではない。シロだ。胃を切られるかもしれないから今のうちたくさん食べておけばよい。「胃ガン疑惑」ぐらいで何をクヨクヨするのかみっともない。しかし健康、長寿、財産、年金、資産は「永遠の生命」獲得の役に立たない。
塚本訳ルカ 12:18-19
12:18 やがて言った、『よし、こうしよう。倉をみなとりこわして大きいのを建て、そこに穀物と財産をみなしまいこんでおいて、
12:19 それからわたしの魂に言おう。──おい魂、お前には長年分の財産が沢山しまってある。(もう大丈夫。)さあ休んで、食べて、飲んで、楽しみなさい、と。』
塚本訳 ルカ 12:20-21
12:20 しかし神はその人に、『愚か者、今夜お前の魂は取り上げられるのだ。するとお前が準備したものは、だれのものになるのか』と言われた。
12:21 自分のために(地上に)宝を積んで、神のところで富んでいない者はみな、このとおりである。」
新共同 ヤコ 4:13-14
4:13 よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、
4:14 あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。
●歴史的知識 ・・・・「空虚な墓と復活」を史実だと知識として信じても心は安らがない。その使徒伝承を耳で聞いて胸が熱くならなければ真に「信ずる」ことができない。歴史と信仰を峻別する荒井献先生から私の有体的復活の信仰を支持するとのお手紙を頂いたことがある。(1999.2.23 1999.12.1)。同様な支持は佐藤研氏からも頂いた(1999.2.6)
塚本訳ヨハ 20:8-9
20:8 すると先に墓に着いたもう一人の弟子も入ってきて、見て、信じた。
20:9 イエスは死人の中から復活されねばならないという聖書の言葉が、(この時まで)まだ彼らにわかっていなかったのである。
●信仰・・・・・人間の側からの信仰(信じ込む力)では心から安らげない。 行って見てきた人がいないので信じられない。
塚本訳 ヨハ 3:3-5
3:3 イエスが答えて言われた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、(徴を見て信じたのではいけない。)人は新しく生まれなおさなければ、神の国にはいることは出来ない。」
3:4 ニコデモがイエスに言う、「(このように)年を取った者が、どうして生まれなおすことが出来ましょう。まさかもう一度母の胎内に入って、生まれなおすわけにゆかないではありませんか。」
3:5 イエスは答えられた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、人は霊によって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない。
塚本訳ヨハ 20:25
20:25 そこでほかの弟子達が、「わたし達は主にお目にかかった」と言うと、彼らに言った、「わたしはその手に釘の跡を見なければ、わたしの指をその釘の場所に差し込まなければ、手をその脇腹に差し込まなければ、決して信じない。」
3・「全く思いもよらぬ平安」が来る
●祈りの雨・・・・私がHPのブログで「胃ガン疑惑」を公表すると、「矢のような祈り」「断食祈祷」「早朝祈祷」の知らせが多数来た。「早朝FAX」も来た。映画「戦場のメリークリスマス」の場面さながらであった。それは日本軍に生き埋めという残酷な方法で処刑されゆく英国兵、彼の信仰が失われないようにと見ているだけで何もできない仲間が鉄条網の外から讃美歌を歌って励ます場面。年賀状には「何もできませんが祈っています」というのも頂いた。
塚本訳 ピリ 4:6-7
4:6 何事についても心配せず、君達の求めは感謝を添えた祈りと願いとにより、大小となく神に知らせよ。
4:7 そうすれば全く思いもよらぬ神の平安が君達の心と考えをキリスト・イエスにおいて守るであろう。
塚本訳 使 12:5
12:5 それでペテロは(厳粛に)見張りをさせて牢におり、集会からは彼のため祈りが熱心に神にささげられていた。
塚本訳 ロマ 12:11-12
12:11 熱心で倦まず、(神の)霊に燃え、主に仕えよ。
12:12 希望をもって喜び、苦難に耐え、たゆまず祈れ。
●不思議な平安・・・・暖かいものに囲まれた。大きな手に支えられ、大きな心に包まれた感じの「体験」。これ理性の安息でなく、霊魂安息の実感。
無上の喜び。
塚本訳 ヨハ 14:27
14:27 (今別れにのぞんで)平安をあなた達にのこしておく。わたしの平安をあなた達に与える。わたしが与える平安は、この世の人が『平安あれ』といのるような(言葉だけの)ものではない。(だから)心騒がせるな、気を落すな。
塚本訳 ロマ 15:13
15:13 希望の源である神が、(彼を)信ずることにおいて来る無上の喜びと平安とであなた達を満たし、聖霊の力によって(豊かな)希望に溢れさせられんことを。
塚本訳 ガラ 1:3
1:3 わたし達の父なる神と主イエス・キリストからの恩恵と平安、あなた達にあらんことを。
●神に知られているという平安・・・・私以外の外の人に祈られているということで、神に知られているという安心感と平安が与えられた。
塚本訳 ヤコ 5:14-15
5:14 君達の中に病んでいる者があるのか、その人は教会の長老を呼び、長老たちは主の名により油を塗って、その人のことを祈ったがよかろう。
5:15 信仰(による真)の祈りは病人を癒し、主は彼を立たせ給うであろう。そしてもし罪を犯して居るならば、赦されるであろう。
●神のもとに行ける・・・・神に抱き抱えられたという不思議な実感。安らぎ。死の時もこの安らぎがあれば「楽だなー」と思えた。これが聖霊の臨在というのか。
楽になれた。
塚本訳 Tヨハ4:18
4:18 完全な愛は(平安で、すべての)恐れを追い払う。というのは、恐れは(つねに最後の裁きの日)の刑罰と関係があるのであって、恐れる者は(まだその)愛において完全になっていないのである。
塚本訳使 7:59-60
7:59 ステパノは打ち殺されながら、イエスの名を呼んで、「主イエス様、わたしの霊をお受けください」と祈り、
7:60 それからひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞこの罪をこの人たちに負わせないでください!」こう言って、彼は眠りについた。
4・他者の祈りの効果
● 2−3人が心を合わせる祈り。(福島、シドニーから)
塚本訳 マタ 18:19-20
18:19 なお、アーメン、わたしは言う、何事によらず、もしあなた達のうちの二人が心を一つにして地上で祈るならば、わたしの天の父上は(きっとその願いを)かなえてくださるだろう。
18:20 二人、三人、わたしの名によって集まっている所には、わたしがいつもその真中にいるのだから。」
●義人の祈り(真剣な祈り、熱祈)
新共同 ヤコ 5:16-17
5:16 だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。
5:17 エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。
塚本訳ロマ 8:26-27
8:26 しかし(創造物やわたし達神の子が苦しんでいると)同じように、御霊も、弱いわたし達を助けてくださる。すなわち、(神のみ心にかなうには)どう何を祈るべきかわからないので、御霊自身が、無言の呻きをもって(わたし達の祈りを神に)執り成してくださるのである。
8:27 しかし(人の)心を見抜くお方[神]は、御霊が何を求めているか、すなわち、御霊が神の御心にかなうように聖徒たちのために執り成しておられることを、(もちろん)御存じである。
●隠れた祈り(ひそかなる祈り)
塚本訳 マタ 6:6
6:6 あなたが祈る時には、『奥座敷に入り、部屋をしめきった上で、』隠れた所においでになるあなたの父上に『祈れ。』そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父上は、褒美をくださるであろう。
●「御心をなしたまえ」という祈り
文語訳 マタ 26:42
26:42 また二度ゆき祈りて言ひ給ふ『わが父よ、この酒杯もし我飲までは過ぎ去りがたくば、御意のままに成し給へ』
塚本訳 マタ 6:10
6:10 お国が来ますように。お心が行われますように、天と同じに、地の上でも。
6:10 お国が来ますように。お心が行われますように、天と同じに、地の上でも。
●「信徒の交わり」の真の意味。三位一体の現実。神秘性、Tヨハ1:3に出てくる「交わり」の原語は「コイノニア」。
塚本訳 Tヨハ1:3
1:3 わたし達が見たもの。、また聞いたものを、あなた達にも告げる。あなた達もわたし達と(霊の)交わりを持つためである。しかしわたし達のこの交わりは、(他方においては)父(なる神)とその子イエス・キリストとの交わりである。
5・なぜ今「胃ガン疑惑」であったか。その恩恵と摂理
●「胃ガン疑惑の恩恵と摂理」について。昨年から「藤林益三」という本を編集中である。その中で塚本虎二先生の言葉に次のようなものがあったということを津上毅一氏の「所感とあとがき」から知った。以下塚本先生の言葉。1951(昭和26)年頃のこと。
「聖霊の問題は、無教会において究明すべき残された重要な問題である。関根(正雄)先生のような方が手島郁郎氏達の動きに一時着目されたこと自体は、単純に『誤まり』と言い切れない意味がある。その意味で関根君には同情するが、手島氏の解釈は聖霊の正しい受容ではない。もしあの運動を放置して無教会がそれに巻き込まれてしまうと、無教会は壊滅する危険さえある。それを防ぐために、私は必死の思いでこれに対決しているのだ」。
以上塚本先生の言葉。
●この「無教会のこれからの課題」に対して、私(高橋)としては苦しい「胃ガン疑惑」の嵐を通して道を示された感じがする。4点ある。
第1は他者から熱心に祈られて胸が熱くなり不思議に心が楽になったこと。
これにより「死の時もこのようであれば楽だなー」と思ったこと。
第2はこのことを通して聖書が盛んに言う「霊の交わり」とは何であるかを知ったこと。信仰の交わりは「思想信条」の一致ではなく「霊の実在」による交わりとそこに祈りの効果があるということ。
第3は「三位一体の信仰」は各自が生きている今のこの時に、大にせよ小にせよ何らかの「宗教体験(聖霊体験)によって初めてわかることであること。私は「胃ガン疑惑」を通じて「心が温かくなり楽になって」どうしてもわからなかった三位一体の第三位の「聖霊」の意味がわかった。この体験がない時「三位一体」は大脳皮質の究明となってアウグスチヌスがいう通り、永久にわからない。
第4は「他者との祈り合いの効果」である。これが塚本先生の言われる「無教会において究明すべき残された重要な問題」を解決する燭光である。