建築人生を決定した本、塚本虎二著『放蕩息子とその父』

――その疑問と48年目の感話――

                   東京聖書読者会 2008.3.2 高橋照男

1・「放蕩息子の譬」との出会いは人生を変える。

塚本虎二先生が、ルカ15章の「放蕩息子の譬」に出会ったのは1905(明治38)年、先生20歳の時であった。そのとき先生は「何とは知らず、とめどなく涙が流れた。神様がありそうに思えてきた。」とある。「聖書知識2461950(昭和20)年10月」その塚本先生自身の「放蕩息子の譬」の註解は前後2回行われた。第1回目は1942(昭和17)年7月〜1943(昭和18)年8月、聖書知識誌に掲載された。塚本先生57歳。これは副題として「初心の人たちに語りしもの」とあるのでその時期と場所を探索中であるが未だ不明。ライブ版なので命がある。これは後に単行本「放蕩息子とその父」《1949(昭和24)年初版刊》として上梓された。第2回目は同じく聖書知識誌に1956(昭和31)年4月〜1956(昭和3112月に掲載された。第1回目が講演内容であったのに対し、これは本格的な聖書注解。塚本先生71歳。塚本先生はその聖書注解の水準の高さと信仰の深さにおいて当時の群を抜いていたことは万人の認めるところであるが、この注解もその評判に値するものである。●私は1959(昭和34)年16歳の時に、この頃すでに単行本になっていた上記「放蕩息子とその父」《1949(昭和24)年初版刊)に出会った。この中の特に次の2つの箇所が私の人生を決定した。まず第3章の最後「人生は神に戻ることを以て始まり、また終わる」。これが人生観を決定。次に第7章「救われた人の生涯」(ルカ16章、「不埒な番頭の譬」「富の利用について」の解説)が職業観を決定、これでキリスト教を職業としないで済んだ。他の出会いの一例。1986(昭和61)年の出来事。大島智夫先生(医師・海老名集会)のすぐ上の兄の大島武夫氏はシベリア抑留の過酷な生活(栄養失調の上での重労働)で「神がおられるなら、どうしてこれほどの国家悪と人間の悪徳を見過ごしにされるのだろうかとの深刻な疑問に落ち込み」、信仰も聖書も捨て、人間がすっかり変わってしまって帰国。最晩年に肺癌になって余命数カ月の時、大島智夫先生は「兄さん!・・・・正常な思考のできる僅かの時間に神の審判の前に立つ用意をしなさい」と迫った。そして「それにはこの本を読むのが最善です」と塚本虎二著「放蕩息子とその父」を読むことを薦められた。その数日後に大島智夫先生のもとに武夫氏から手紙が届いた。「塚本虎二の最劣等の弟子として、主のいさおしのゆえに天国に入れていただきたい」という内容。その後すぐに癌が脳に転移、意識を失って最期を迎えたのは間もなくのことであった。(大島智夫著「その日より、その日まで」P9091185)●このように「放蕩息子の譬」はそれ自身がもつ真理の力で多くの人間に深い影響を与える。生きとし生ける人間のすべてに「神の愛」、「救いの道」、そして「人生」を教える。これが「放蕩息子の譬」はイエスの譬の中でも最高の座を占めるものと言われる所以である。わずか22節の短さである。

 

2・放蕩息子の譬・・・1963(昭和38)年岩波文庫、塚本虎二「福音書」全文 

 初出1956(昭和31)年 口語新約聖書  (岩波文庫版は142532節で若干異なる。)

塚本訳 ルカ 15:11-32
15:11
また話された、「ある人に二人の息子があった。
15:12
『お父さん、財産の分け前を下さい』と弟が父に言った。父は身代を二人に分けてやった。
15:13
幾日もたたないうちに、弟は(分け前)全部をまとめて(金にかえ、)遠い国に行き、そこで放蕩に財産をまき散らした。
15:14
すべてを使いはたしたとき、その国にひどい飢饉があって、食べるにも困り出した。
15:15
そこでその国のある人のところに行ってすがりつくと、畑にやって、豚を飼わせた。
15:16
彼はせめて豚の食う蝗豆で腹をふくらしたいと思ったが、(それすら)呉れようとする人はなかった。
15:17
ここで(はじめて)本心に立ち返って言った。──お父さんのところでは、あんなに大勢の雇人に食べ物があり余っているのに、(息子の)このわたしは、ここで飢え死にしようとしている。・・・・
15:18
よし、お父さんの所にかえろう、そしてこう言おう、『お父さん、わたしは天(の神様)にも、あなたにも、罪を犯しました。
15:19
もうあなたの息子と言われる資格はありません。どうか雇人なみにしてください』と。
15:20
そして立ってその父の所へ出かけた。ところが、まだ遠く離れているのに、父は見つけて不憫に思い、駈けよって首に抱きついて接吻した。
15:21
息子は父に言った、『お父さん、わたしは天(の神様)にも、あなたにも、罪を犯しました。もうあなたの息子と言われる資格はありません。・・・・』
15:22
しかし父は(皆まで聞かず)召使たちに言った、『急いで、一番上等の着物をもって来て着せなさい。手に指輪を、足にお靴をはかせなさい。
15:23
それから肥えた小牛を引いてきて料理しなさい。みんなで食べてお祝いをしようではないか。
15:24
このわたしの息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』そこで祝賀会が始まった。
15:25
兄は畑にいたが、家の近くに来ると鳴り物や踊りの音が聞えるので、
15:26
ひとりの下男を呼んで、あれはいったい何ごとかとたずねた。
15:27
下男が言った、『弟さんがかえってこられました。無事に取り戻したというので、お父様が肥えた小牛を御馳走されたのです。』
15:28
兄はおこって、家に入ろうとしなかった。父が出てきていろいろ宥めると、
15:29
父に答えた、『わたしは何年も何年もあなたに仕え、一度としてお言い付けにそむいたことはないのに、わたしには友人と楽しむために、(小牛どころか)山羊一匹下さったことがただの一度もないではありませんか。
15:30
ところがあのあなたの息子、きたない女どもと一しょに、あなたの身代をくらいつぶしたあれがかえって来ると、肥えた小牛を御馳走されるのはどういうわけですか。』
15:31
父が言った、『まあまあ、坊や、お前はいつもわたしと一しょにいるではないか。わたしの物はみんなお前のものだ。
15:32
だが、喜び祝わずにはおられないではないか。このお前の弟は死んでいたのに生きかえり、いなくなっていたのに見つかったのだから。』」

 

3・「放蕩息子の譬」に関して抱いた疑問と人生48年目の「感話」

[疑問第1]・・・息子はなぜ父親に対して「罪を犯した」という気持ちになったのか。父親の金を盗んだわけではなく「正式」に財産分与を受けたのではないのか。●なぜここで「天の神と肉の父」との両方の名前が出てくるのか。

15:18 よし、お父さんの所にかえろう、そしてこう言おう、『お父さん、わたしは天(の神様)にも、あなたにも、罪を犯しました
15:19
もうあなたの息子と言われる資格はありません。どうか雇人なみにしてください』と。

48年目の「感話」。・・・・この息子は、人生が行き詰まった時に父親の真面目な生活と自分の自堕落な生活(13節)を否応なしに比較するようになって後ろめたさが湧いた。父親の真面目さが自分の姿を写す鏡になってしまった。神を信ずる真面目なる生活が、周囲への「無言の説教」になる。口で説教しなくてもよい。福音を口で説かなくてよい。相手に神の霊が働いて神ご自身が説教する。そこに効果がある。人間は人に対するなんとはなしの「後ろめたさ」を解決するために、心の安らぎを求めて自然に心が神に向く。ではなぜ父親に罪を犯したとまで言うのか。正式にもらった金ではないのかしかし何か倫理的な後ろめたさ、良心の痛みがあったらしい単なる商売の失敗なら父親への罪ではないはずだ。ヒルティは神を信じない者も「倫理的世界秩序」という厳然たる事実に支配されているという。これが人類全体に共通である良心の痛みという自然法である。●息子がこの時に父親だけでなく神にも目が向いたことは不思議なこと。超自然的な奇蹟、恩恵以外の何物でもない。もしこの父親が自堕落な人間であったら、この息子は「親父だって俺と同じことをやっている」と思って良心の痛みは感じかったであろう。罪の自覚が生じなかったであろう。

塚本訳 ルカ 18:13

18:13 しかし税金取りは(罪に責められ、)遠く(うしろ)の方に立ったまま、目を天に向け(て祈りをささげ)ようともせず、ただ胸をうって、『神様、どうぞこの罪人のわたしをお赦しください』と言った。

 

塚本訳 Tコリ15:9

15:9 ほんとうにわたしは、使徒の中で一番小さい者である、いや、わたしは使徒と言われる値打もない、神の集会を迫害したからである。

この息子は「きたない女(30節)」に引っ掛かって「放蕩に財産をまき散らし(13節)」、泣きっ面に蜂で「ひどい飢饉があって、食べるにも困り出し」(14節)、仕方なく「その国のある人のところに行ってすがりつくと、」畑にやられて、豚を飼うように冷遇された(15節)。しかし腹が減り「せめて豚の食う蝗豆(いなごまめ)で腹をふくらしたいと思ったがそれすらも呉れようとする人はなかった」(16節)とはずいぶん惨めな人生になったものだ。●蝗豆(いなごまめ)は一昨年のイスラエル旅行の折、ガリラヤ湖のほとりで見たが、ソラマメのようであった。見るからに美味しくなさそうであった。日本でいう「牛馬の飼料」というものだったのだろう。気の毒。

落ちぶれて袖に涙のかかるとき、人の心の奥ぞ知らるる。(内村鑑三「キリスト信徒の慰め」第五章「貧にせまりし時」・・・これは九州地方の民謡)

 ●人生「さめざめと泣く時」というのはその人の心がようやく神に向く時。讃美歌331番である。多くの場合、それは人生の長旅の苦労の果て。ずたずたボロボロ人生の果て。

讃美歌331番

1. 主にのみ十字架を 負わせまつり、

   われ知らずがおに あるべきかは、.

 ●人は人生のゴタゴタや失敗を通して絶対絶命になり、「なりふりかまわず」人間にすがりつく(14-16節)。しかし大抵は冷たくされる。その時の「悔し涙、悔いの涙、さめざめと流す涙」が尊いのだ。なぜか。心が砕けるから。その砕けの隙間から神の光が射してくる。人生、この時にようやく目が覚める。尊い瞬間。しかしそれには回り道の長旅が必要。親としては神を信じて「かわいい者には旅をさせる」ことは信仰的試練●失敗人生の者に対して周囲は軽蔑して避けるが、神は避けないハンカチなど持ってなくてそばにあるティッシュで「鼻水と涙」を拭う人生。これが尊い。私はこの48年の間にはそういう方々に遭遇させられたことがある。それで良いのだ。それで良いのだ。それが尊いことなのだ。人生の失敗はその尊い瞬間を迎えるためにあるのだ。●人生失敗のとき、「人には冷たくされるが」「神はそういう人をこそ喜んで迎えてくださる」。讃美歌512番2節である。

讃美歌512番

 2. 身のわずらいも  世のうれいも

   われとともにわかちつつ,

   いざなうものの ふかきたくみ  

やぶりたもううれしさよ.

   ひとは棄つれど きみはすてず

   みめぐみはいやまさら,

   きみは谷のゆり, あしたのほし、

   うつし世にたぐいもなし

新改訳 詩  23:4
23:4
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

●父の祈りは、むなしくは終わらなかった。ロングフェローの「The Arrow and the Song」を思う。父母の祈りは息子の胸に突き刺さっていたのだ。息子は気がつかなかったが。・・・●信仰者の世界では「親の祈りと冷や酒は後になって効いてくる」が真理。

 [疑問第2]・・・この譬話には聖書の創世記から黙示録まで、キリストの福音全部が含まれていると言われているが、あのパウロが必死になって説く「十字架による贖罪」の説明と解説が出てこないのはなぜか。

15:20 そして立ってその父の所へ出かけた。ところが、まだ遠く離れているのに、父は見つけて不憫に思い、駈けよって首に抱きついて接吻した。
15:21
息子は父に言った、『お父さん、わたしは天(の神様)にも、あなたにも、罪を犯しました。もうあなたの息子と言われる資格はありません。……
15:22
しかし父は(皆まで聞かず)召使たちに言った、『急いで、一番上等の着物をもって来て着せなさい。手に指輪を、足にお靴をはかせなさい。
15:23
それから肥えた小牛を引いてきて料理しなさい。みんなで食べてお祝いをしようではないか。
15:24
このわたしの息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』そこで祝賀会が始まった。

48年目の「感話」。・・・罪を赦す父親は子供に「赦す」という恩着せがましいことを言わない。皆まで聞かず22節)ただ、「もういい、もういい」と言って抱きしめる。組織教会は「罪の告白」と「正統信仰の告白」を皆完全に聞かなければ「罪の赦し」の印としての「洗礼」を授けない。そして求道者は洗礼を受けて初めてその組織教会の「正式信者」となれる。「会員となれる」。これが組織としての教会主義のレゾンデートル。こういう習慣は組織の維持継続からすればやむを得ないことなのだしかしこの父は息子の悔い改め、謝罪、懺悔、罪の告白(信仰告白)を「皆まで聞かず」に赦した(22節)息子のみすぼらしい姿を見てかわいそうになったのだ。父は見つけて不憫に思い、駈けよって首に抱きついて接吻した(20節)。救いが先で信仰はあと。まず神のDO、アクションがある。それで人は救われる。その結果として人間に信仰が生まれる。父は家を飛び出して行って息子の首に抱きついた。ここに神のキリストを通じての十字架の心がある。このことと、パウロの思想は内的に一致する。イエスは神の心を実行した。否、神に無理やり「神の心」を実行させられたのだ。これが解ったパウロはその神の愛を「説明した」。●神はイエスを通して十字架を「実行」し、その意味を悟ったパウロはその神の心を「説明・解説」した。「実行」と「説明・解説」とは異なる。だからイエス自身は「十字架の意味」の説明と解説をしなかった。恩着せがましいことは言わなかった。親心である。●親が子供に食べ物を与えるときはその意味を説明しない。ただ「急いで」(22節)実行する。気の毒に思う心の方が大きく、説明や解説をしている暇などない。

マルコ634-37 佐藤研訳(岩波新約聖書T)

410634さて、イエスは〔舟から〕出て来ると、多くの群衆を目にした。そこで、彼らに対して腸(はらわた)のちぎれる想いに駆られた。なぜならば、彼らは牧人のない羊のようだったからである。そこで彼は彼らに対して、さまざまに教え始めた。

410635さて、すでに時も遅くなった頃、彼の弟子たちが彼のもとにやって来て言った、「ここは荒涼としたところで、もはや時も遅くなっています。

410636彼らを解散させて下さい、そうすれば彼らはまわりの里や村々に行き、何か自分たちの食べ物を買ってくるでしよう」。

410637するとイエスは、彼らに答えて言った、「あなたたちの方で、彼らに食べ物を与えるのだ」。そこで彼らは彼に言う、「私たちの方が〔わざわざ〕行って、二百デナリオンも出してパンを買い、彼らに食べさせるというのですか」。

塚本訳  ロマ 5:8
5:8
しかしわたし達が(義人でも善人でもなく、)まだ罪人(神の敵)であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった。このことによって、神はわたし達に対する愛をお示しになったのである。

「放蕩息子の譬」を描いた名画の数々は、その父の顔にも手にも深い皺(しわ)がある。レンブラント「放蕩息子の帰郷」、ユージューヌ・ビュルナン「放蕩息子」なお、エルンスト・バルラハの傑作の彫刻「再会」(1926)は、疑うトマスのことを彫ったものだが、回心したトマスを抱きかかえるイエスの右の手には十字架の釘のあとがある。トマスはそれを知らない。わたしはこのトマスが「放蕩息子」のように見える。イエスは右の手のすることを左の手に知らせるなと言った。2006.4.28に東京藝術大学美術館でこの彫刻を鑑賞したとき、三度戻ってその釘後を見た。●この父親は次男のためにかなり出費(出血、苦労)したのだろうがそれを恩着せがましく言わない。それが親心。だからこの譬にはパウロのような「十字架の言葉」(それは説明あるいは解説)はない。

塚本訳マタ 6:3
6:3
あなたは施しをするときに、
右の手のすることを左に悟られてはならない

塚本訳 マタ 20:28

20:28 人の子(わたし)が来たのも仕えさせるためではない。仕えるため、多くの人のあがない金としてその命を与えるためである。

 [疑問第3]・・・この話の中に「母親」が出てこないのはなぜか。

48年目の「感話」・・・・父親はまだ息子が遠くにいるのを見つけて家を飛び出すとき、もし妻がいたとしたらら「オーイ、カーサン。息子が戻ってきたぞー」と奥の部屋に一声かけてから飛び出したに違いない。その場面がない。なぜか。わからない。以下は私の想像。母は息子の連絡や帰りを待ちつつ先に逝ったのではあるまいか。そして死ぬ時に次のように言ったのではないだろうか。「もしあの子が帰ってきたら新しい着物をタンスのここにしまっておきますから着せてくださいよ。決して怒らないでくださいよ。怒鳴らないでくださいよ。あんたは気が短いんだから」。そして窓の外に息子が見えたときその父は「オーイ、カーサン。息子が戻ってきたぞー」と言って奥の部屋に駆け込むと、そこには妻の笑顔の「遺影」があるのみ。父親はつぶやく「そーか、モーいなかったんだ」。そして妻の遺影から「怒らないでくださいよ」と言う声が聞こえて来た。その声を胸に抱いて息子に抱きつく。これ母親の姿ではないのか。普通、父親としてはそんなことはみっともなくてできない。せめて握手ぐらいだ。母の愛は死んでも生きていた。そして妻がいないので仕方なく召使に命じて(22節)妻が生前に用意しておいた上等な(洗濯しておいた、とも読めないか?)着物を着せた。以上は私の想像。●親たるもの、一度は子供の一人や二人に「家出」されるという経験を持たないとこの「放蕩息子の譬」の深いところは理解できない。共感できない。

15:22 しかし父は(皆まで聞かず)召使たちに言った、『急いで、一番上等の着物をもって来て着せなさい。手に指輪を、足にお靴をはかせなさい。

塚本訳マタ 22:11-13

22:11 王は客を見ようとして入ってきたが、そこに礼服を着けていない者が一人いるのを見て

22:12 その人に言った、『君、礼服も着ずに、なんでここに入ってきたのか。』その人が黙っていると、

22:13 王は家来たちに言った、『あの者の手足を縛って、外の真暗闇に放り出せ。そこでわめき、歯ぎしりするであろう。』

 

塚本訳 エペ 4:22-24

4:22 然り、君達は情欲に欺かれて破滅すべき、以前の生活に属する旧い人間を脱ぎ棄て、

4:23 君達の霊も心も(すっかり)新しくされ

4:24 真理の義と聖とにより神に肖(あやか)って創造られた新しい人間を着るべき(ことを教えられたの)である

 

讃美歌510番

                   

1. まぼろしの影を追いて

   うき世にさまよい、

   うつろ花にさそわれゆく

   汝(な)が身のはかなさ

  (おりかえし)

   春は軒の雨、秋は庭の露

   母はなみだ乾くまなく、

   祈ると知らずや、.

 

 4. 汝(な)がためにいのる母の

   いつまで世にあら

   とわに悔ゆる日のこぬまに、

   とく神にかえれ

 

●塚本先生がある夫人に「十字架は義として見るよりも愛として見た方がよく理解できる」と語られたそうだ。これは「特ダネ」として私の耳に残っていていつまでも消えない

 [疑問第4]・・・戻ってきた次男は怒った兄とその後うまくやっていけたか。どのような気持ちで生活したのか。兄とソリが合わずにまた家を出るはめになったのではないだろうか。兄に虐められても忍耐の人生を送れたか。兄も冷たい心を反省して弟と仲良くしたか。

48年目の「感想」・・・・兄が怒ったのは人間として当然、自然。このとき父親の心に次男は戻ってきたが、入れ違いに兄が去った。そこでこの父親は今度は怒って家に入ろうとしなかった兄のところに自ら家を出て行って「宥める」(28節)。「坊や」という言葉が父親の長男に対する愛を表している(31節)。この父親は一難去ってまた一難。

15:31 父が言った、『まあまあ、坊や、お前はいつもわたしと一しょにいるではないか。わたしの物はみんなお前のものだ。
15:32
だが、喜び祝わずにはおられないではないか。このお前の弟は死んでいたのに生きかえり、いなくなっていたのに見つかったのだから。』」

塚本訳エペ 2:1

2:1 君達も(私達と同様に)自分の咎と罪によって死んだ者であって

「わたしの物はみんなお前のものだ」という言葉からすると、「長男のお前には余計(2倍)に上げることになっているではないか。文句を言うな」という意味だろう。

口語訳 申  21:17

21:17 必ずその気にいらない者の産んだ子が長子であることを認め、自分の財産を分ける時には、これに二倍の分け前を与えなければならない。これは自分の力の初めであって、長子の特権を持っているからである。

●もしここで、この兄が父親の招きに素直に応じて宴会に加わったとしたらどうだろうか。父親が一番喜んだであろう。●しかし結局兄は「家に入ろうとしなかった」(28節)。ここが重要ポイントである。このことを暗示するのがマタイ2128-32にある。「二人の子の譬」である。この場合は長男の方が悔い改めたことになっている。いつの時代も兄弟間の個性や生き方の違いと争いはテーマである。人類の永遠の課題である。このマタイの「二人の子の譬」はルカの「放蕩息子の譬」の本質を解く鍵でもある。

塚本訳 マタ 21:28-32(二人の子の譬)

21:28 いったいあなた達はどう思うか。──ある人に二人の息子があった。長男の所に行って、『坊や、きょう葡萄畑に行って働いてくれ』と言うと、

21:29 長男は『いやです』と答えたが、あとで後悔して出かけた。

21:30 つぎに次男の所に行って同じように言うと、こちらは、『お父さん、承知しました』と答えたが、行かなかった。

21:31 この二人のうち、どちらが父の心を行ったのだろうか。」「もちろん長男」と彼らが答える。イエスが言われる、「アーメン、わたしは言う、税金取りや遊女たちは、あなた達よりも先に神の国に入るであろう

21:32 そのわけは、(洗礼者)ヨハネが義の道を示しに来たのに、あなた達は彼を信ぜず、税金取りや遊女の方がかえって信じたからだ。しかしあなた達は(あの人たちが悔改めるのを)見たあとでも、後悔して彼を信じようとしなかった。

●つまり、神の救いは「絶対恩恵による無条件の罪の赦し」。ここにこの「放蕩息子の譬」の本質がある。兄が怒って家に入らなかったことで兄は救いに漏れ、失敗人生の弟に救いが恩恵として与えられたというのである。●「放蕩息子の譬」はルカ15章1〜3節により、パリサイ人や聖書学者に向けて語られたものではあるが、それ以上にその奥には神による「絶対恩恵による無条件の罪の赦し」という土台があり、それがこの譬の基調になっている。さて、戻ってきた弟の残りの人生はどうであったか。それは次のルカ16113節から推測できる。塚本先生はその箇所「不埒な番頭の譬」(1618節)と「富の利用について」(16913節)は「救われた者の生涯」の「あるべき姿」がここに編集されているのだと非常に深い解説をしている。

塚本訳 ルカ 16:9-13

16:9 それでわたしもあなた達に言う、あなた達も(この番頭に見習い、今のうちにこの世の)不正な富を利用して、(天に)友人[神]をつくっておけ。そうすれば富がなくなる時、その友人が永遠の住居に迎えてくださるであろう。

16:10 ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。

16:11 だから、もし(この世の)不正な富に忠実でなかったならば、だれが(天の)まことの富をあなた達にまかせようか。

16:12 もし他人のもの[この世のこと]に忠実でなかったならば、だれがあなた達のもの[天のもの]をあなた達に与えようか。

16:13 しかし(この世のことはみな準備のためであるから、それに心を奪われてはならない。)いかなる僕も(同時に)二人の主人に仕えることは出来ない。こちらを憎んであちらを愛するか、こちらに親しんであちらを疎んじるか、どちらかである。あなた達は神と富とに仕えることは出来ない。」

●この次男は前半生のような失敗人生に懲りておそらくその後は「金の奴隷」にはならず、お金を正しく利用して天国行きの準備を喜びのうちにしたのではあるまいか。●そのうちにこの父親も死んだであろうが、小事である「農業」(1610節)を通して兄さんを喜んで助け、一所懸命働いたのではあるまいか。そして平安な死を迎え、今度は神により天国の「永遠の住居(すまい)169節)」に迎えられたのだろう。これが大成功の人生だ。

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