我が心の藤林益三先生

「信仰者、藤林益三先生を追悼する」

               東京聖書読者会 高橋照男 2007.5.6

はじめに

「東京聖書読者会」を発足された藤林益三先生は2007年4月24日に心不全のため99歳で、稲城市の病院で召された。各新聞は元最高裁判所長官だったということで大きく報道した。しかし先生には4つの面があった。第1は法律家、法曹界の人として面、第2は長らく銀行の顧問弁護士をされていたので経済界の人としての面、第3は藤林家における2男3女の父親としての面、第4は無教会のキリスト信者としての面。私たちは、この第4の信仰者としての面で交わらせていただいてきた。そこで私としては今日はお許しを頂いて5月24日の青山葬儀所での公式の告別式とは別にこのキリスト教の集会において第4の面の信仰者藤林益三先生について、個人的な思い出を通して追悼させていただく。内容は他の3面の方々には通じない信仰的なことであるので私個人としても大なる光栄であり、話すのにも楽である。このように先生を純信仰的に追悼させていただくことは藤林先生が最も喜んでくださることであろうと多くの方々が激励してくれた。

 

@  「君は特攻隊のようだねー」

 今から40年も前の私が22〜23歳の頃のことであった。私は集会の司会を会の責任者であられた藤林先生に志願した。その時先生が言われたのは「君は特攻隊のようだねー」であった。これが先生と初めて交わした言葉であった。しかし志願したというのは誤りで実はもう一人の責任者であられた大木重吉さんという方から「若い者は自ら進んで司会を申し出なければならない。君が都合の良い日を藤林先生に言いなさい」と裏で工作されたのであった。

A  若い者の面倒をよく見てくださった

次は23〜24歳頃のことである。その頃私は某建設会社の埼玉県の支店に勤務していた。私は東京に出て毎日曜日に集会に出席し、またギリシャ語のクラスに入って聖書の勉強をしたいと思うようになった。すると周囲の人が藤林先生に働きかけてくださり先生が顧問をされていた東京の某建設会社に転職が決まりかけた。しかし勤務先の慰留があってそのまま元の会社の東京の本社に転勤になり、先生の御意向には添えなかった。その後結婚の話が持ち上がり、婚約式も結婚式も司式をしてくださった。結婚式の式辞で忘れられないのは、「私は妻の寝顔を見ていると、よくこんな私のところに来てくれたものだなーと思う。こういう気持ちがあれば結婚生活は長続きするものだ」と。そして誓約の段になって「(間違いを犯してはいけない)いいな」と真剣な顔で私の眼をじっと見られた。とても怖い顔であった。これは私が26歳の時のことであった。長男の名前は先生がその頃最高裁判所の判事に任命され、ご自分の新しい出発でもあり、また私たちの初めての子でもあるというので、「新一」と命名してくださった。こういうわけで新一の年齢はその後も常によく覚えていてくださった。幼少の頃にお父上に先立たれ、家族五人離散の悲運という辛酸を舐められた先生には常に「若い人に苦労をかけまい」というお気持ちがあられた。

B  藤林邸の設計に関しての思い出

次は33歳のとき。その頃目黒の藤林邸を新しくすることになり、設計監理を依頼された。リューマチで悩んでおられた木の枝夫人に快適な環境を整えてほしいというのがご方針であった。木の枝夫人は自宅で葬式を行う時に便利なように設計して欲しいというご希望をされた。新居の設計中に先生は最高裁判所の長官にご就任になられ、御公務が忙しいので建築に関しては私が全権を委任された形になった。このとき私は「仕事というのは人を信用して全面的に相手に任せるもの」ということを学ばされ、この経験によって後に建築の「プロジェクトマネジメントの知識」や「コストプランニングの知識」という本など建築の本を10冊執筆することになった。特に鹿島出版会から出版したもののうちの2冊は技術書としては異例の20年間のロングセラーになっている。ロングセラーの秘密は、「仕事は心」ということを先生から学び、技術というよりも心を説いたものだからである。建築主としての先生は一度決定したことが後戻りしない理想的な建築主であった。そして、「私はどんな家でも与えられれば感謝だ」とも言われた。こう言われると建築する者は発奮するものである。不平や文句を言わないで生きること、これは食事でも、結婚相手でも、子供のことでも、自分の不運な人生についても同じである。何事も与えられたものに感謝の心をもって生きるべきことを学んだ。それから12年後に夫人は召され、先生から葬儀の司式を依頼された。前夜式は御希望通りにご自宅で執り行うことができたので木の枝夫人の約束を果たせた感じがした。欧米では医者、弁護士、牧師、建築家が4大プロフェッションと言われている。この職能に限らず仕事という仕事は他人の財産や命を預かってこれを守ることであることを学んだ。こういう認識を持つことができたのは先生が若輩の私を一人前のプロフェッショナルと認めてくださったからである。完成したとき、設計も費用も工期もよかったと喜んでいただき、ご満足いただけた。(藤林邸はHP主要建築作品の写真を参照)。藤林邸の完成に伴い、無教会者からの建築設計の依頼が増え、同時にその約三分の一の方々から告別式もやってほしいというご依頼があった。私としてはこの世の「見える住まい」と、来世の「見えない住まい」へのお見送りに関与させられたことは信仰的にも有益であった。しかし中には信仰とは全く無縁の御遺族とソリの合わないこともあったが、そういう時の対処の仕方も教えていただいた。信仰は一代限りだというお考えでもあられた。

C  無教会集会の性格を形作る

 現在の「東京聖書読者会」という無教会集会のそれ以前の名称は「丸の内聖知読者会」というものであった。これは当時発行されていた塚本虎二先生の「聖書知識」という雑誌の購読者の会という性格のものだった。ところが昭和48年に塚本先生が召天されると同時に雑誌も終刊した。その後、私の友人が集会に出席するようになり、「『聖書知識』という雑誌を購読すればよいのですね」と質問があった。しかしその時はすでに雑誌は終刊になっていたのである。そのことを藤林先生に申し上げるとしばらくして「会の名称を変更しよう」ということになり、集会の何人かに案を出してもらって最終的に先生が「東京聖書読者会」と命名された。つまり一人の先生の本を読む会ではなく、聖書そのものを読む会ということに方針を改められた。これは無教会主義集会の今後のあるべき姿を打ち出された画期的なことであった。つまり、聖書そのものを読んで、その感想を述べ合う会というのである。それは、昭和49年のことであった。それから9年後の昭和58年、私が40歳の時に先生から月に一回聖書の感話をするように命じられた。その時、次のように指導された。「聖書そのものを読んで来てその感想を話せばよい。他人の知識をかき集めるような勉強はしてこないこと。この集会は予習してくるような人間はいないから恐れることはない、大丈夫だ。」と躊躇する私を励ましてくださった。先生は常に「新約聖書は手紙だ。難しく読むことはない」と言っておられた。また各人の信仰の違いやズレに関しては「間違っていることは神ご自身が注意してくださる」とおっしゃられた。これは、今日全国に大小300程度あるといわれる無教会主義集会の今後の指標でもあると思う。

D  判決のバックボーンには聖書があった

 先生が最高裁判所の判事に任命されたときには、聖書一冊を抱えて初登庁された。そして昭和48年、尊属殺人事件の判決の時には私が30歳の時に妻の協力を得て編集した「聖書知識、新約知識、旧約知識、聖書索引」が判決に役立ったと感謝された。私はこのとき、聖書が最高裁判所に入ったと感じることができ、うれしかった。裁判官としての先生の精神的バックボーンは聖書であった。昭和52年、先生70歳の時の「津地鎮祭違憲訴訟」における最高裁判所長官としての追加反対意見はその後全国に起こる「政教分離事件」関連の裁判においてよく引用されるようになり、広く知られるようになった内容である。これは法律家としての先生の人生のハイライトでもあるのでそのいきさつを先生の文章をそのまま引用して詳しく書く。「この裁判は、三重県津市が市立体育館の起工式(地鎮祭)を神式で行ったことが発端になった。市議会議員の一人が、この起工式の費用を市が負担したのは政教分離を定めた憲法に違反するとして訴えを起こした。二審の名古屋高裁の裁判官は大変な勉強家で、内外の文献などをよく調べて、市の地鎮祭への費用支出は違憲だ、という画期的な判決を下した。私が最高裁に入ってから、一年ほどして事件が最高裁に上がってきた。私は、自分の関心のある信教の自由の原則にかかわる問題であったので、米国の判例や文献などに当たり、勉強していた。だが、まさか自分が長官として判決を下そうとは想像もしていなかった。判決は、この起工式は宗教活動に当たらないから、市の支出は合憲 ――という内容だった。十対五であった。私は違憲とする反対意見に加わったが、反対意見だけでは十分でないと思ったので、追加反対意見を書いた。私以外の四人の裁判官は特に信仰を持っているわけではなく、理論的な立場から違憲との判断に達したのだが、私は宗教に対する考え方がほかの人と違ったから、その部分を追加反対意見に書かせてもらった。私の意見を要約すればこうである。神職が四人も来て起工式を執り行ったのは、単なる余興ではなく、工事の無事安全を祈るためだ。人力以上のものを願って祈る行為を宗教的といわないで、一体何が宗教的活動にあたるのか。またこのような行為に違和感を覚える少数者がいるのに、その宗教や良心の自由を多数決で侵犯するのは許されない、ということである。・・・・中略・・・・私は、戦時中、宗教弾圧を身近に体験した。弁護士として弁護活動もした。だから公権力が宗教や良心の問題に介入してくるのに人一倍敏感なのである」。(藤林益三著作集G私の履歴書P83〜85)。最高裁判所大法廷の判決を取りまとめる長官の立場でありながら一人で追加反対意見を書くことは、大きな決断を要することであったろう。しかしながら、その後先生のこの追加反対意見が法曹界や学会において引用されることが多くなったと聞いている。私の職業領域の建築界においても、このとき以来公的な建築工事では神主を呼んでの地鎮祭行事はやらなくなった。これは先生の信仰が具体的にご自分の職業領域で発揮されたもので、信仰と仕事の関係を考える上で我々の指標となるものであった。とかく塚本門下は、「信仰のみ」であって社会問題に無関心と思われがちであるが、藤林先生のこの心血を注いだ「追加反対意見」を見ればそうではないことが分かる。「信仰のみ」に徹する方が逆にこの世に強い影響を与えるという宗教現象の歴史的証明でもある。日本はこれによって「宗教的弾圧」ということから解放される法的根拠が打ち出されたのである。ここに先生が短期間ではあったが最高裁判所の長官に選ばれたことに神の摂理を感じるものである。しかしこの追加反対意見の存在は信仰者でなければそのありがたさがわからないものであろう。

E  隠れた経済的支援

 先生はよく隠れた経済的支援をされた。それは「右の手のなすことを左の手に知らすな」(マタイ6章3節)で、周囲にはわからなかったが、薄々感じられた。その金額も半端なものではなかった。私が知っていることを並べ立ててもよいが、それは「右の手のなすことを左の手に知らす」ことになり、先生が天で神からの報酬を頂けなくなるので言うことは差し控える。また、先生が招かれたり、媒酌人をされた結婚式の回数は非常に多く、あるときそのデータを見せてくださったことがあるがそれは61回もあった。告別式も合わせれば先生が冠婚葬祭に出向かれたことは優に100回以上にもなるであろう。その中には天皇家の法事である皇室行事も含まれている。皇室行事は「天皇家の法事」とのお考えであられ、先生の常識人としての面が躍如としておられた。また90歳になられても礼状は必ず自筆で書いておられた。先生はどんな小さな人との交流にも骨惜しみをされなかった。

F  晩年の御苦難

 木の枝夫人の慢性関節リューマチは先生が最高裁の判事になられたころに出始め、昭和57年、先生が75歳の頃に重症になり、その激しい痛みはご家族の方々をも非常に苦しめた。そのころ私は藤林邸をバリアフリーに改築した。木の枝夫人が車椅子の生活でも便利なようにしたのである。浴槽には特殊な椅子を設置した。しかし先生はじめご家族の介護もむなしく、夫人は昭和63年6月に74歳で召された。先生はその時「(妻は)病苦から解放された」と言われた。ほっとされたのであった。先生はそのとき81歳、先生は深く奥さまを愛しておられた。夫人の本葬は東京青山葬儀所で行われたのであるが、司式を命じられた私が先生と二人でリハーサル行っていた時、先生は夫人のことを思い出されて急に絞り出すように号泣された。私は先生が泣きやまれるのをしばらく待っていたがそれはそれは長い時間であった。その1年後の平成元年、婦人之友社の発行する「明日の友」という雑誌に先生と私の対談記事が掲載された。題名は「現代の光と影・・・人生における苦難と救い・・・」であった。先生が対談の相手に社会的に無名の私を選ばれたのは、先生はこの世的に偉い人間が大嫌いであられたからである。先生はまたこの世的に偉い面を見て近づく人をも非常に嫌われた。先生は私が訪問すると大そう喜ばれるということをご家族の方からお手紙をいただいたことがある。その「明日の友」の対談記事の事前打ち合わせの時、「妻の家系では妻だけがあんなに苦しんだ。なぜだろう」と言って目を庭に転じられた。そのころ先生は集会で旧約聖書のヨブ記を読んでおられた。その対談記事には次のようにある。「私が何故そこで今、(集会で)ヨブ記について話をするかと言いますと、それはおっしゃるとおり家内の病気が原因でした。どんなに篤い信仰があっても、人は病気になると、大変な苦痛を味わうのは何故か、その疑問を究明したいという気がしたのです」(婦人之友社発行「明日の友1989年夏66号P12)。90歳を超えられてからも集会で聖書講義をされておられたが、千駄ヶ谷の駅からご一緒の時が何年か続いた。あるとき先生は歩きながら「母や妻から、早くこっちにいらっしゃいと呼ばれているような気がする」と語られたことがある。最晩年のある日、妻と病床の先生をお見舞いした。久し振りで私を見られた先生はベッドに寝たまま、「高橋君、頭がずいぶん白くなったねー、箴言の言葉にあったねー」と言ってくださった。私は先生に褒められた思いがして胸が熱くなった。その箴言の言葉というのは次の通りである。

新共同 箴  16:31
16:31
白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。

最近の先生は目も耳も足もご不自由になられ、ついに肉のお住まいは住みにくくなられた。そしてこのたび、その肉のお住まいの労苦から解放され、私としてはほっとした感じがする。真に休めるようになられたと思うからである。召された4月24日、私は妙に胸騒ぎがした。そして今や藤林先生は霊の体で我々の間に戻って来られた感じがしている。先生のご平安な最後を思うとき、黙示録の言葉を思い出す。

口語訳 黙  14:13
14:13
またわたしは、天からの声がこう言うのを聞いた、「書きしるせ、『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』」。御霊も言う、「しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく」。

この最後のところは新共同訳では次のようになっている。

「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」

この新共同訳のとおり先生は神に報われるのであるから、人間たるわれわれが、いかに先生を尊敬し、人間的に慕っても先生は報われないのである。このことをパウロは次のように言う。

塚本訳  Uコリ5:16
5:16
だからこのわたし達は、今からのちだれをも人間的に知ろうとはしない。たとい(以前は)キリストをも人間的に知っていたにせよ、今はもはや(そのように)知りはしない。

これによって同時にイエスの不思議な次の言葉もよく理解できる。

塚本訳  ルカ 9:59-60
9:59
またほかの一人に言われた、「わたしについて来なさい。」その人が言った、「その前に、父の葬式をしに行かせてください。」
9:60
その人に言われた、「死んだ者の葬式は死んだ者にまかせ、あなたは行って神の国を伝えなさい。」

G  新天新地の歌

 先生のご著書はたくさんあるが、先生がいかにしてキリストを信ずるようになったのか、その具体的な記録はない。しかしあるとき、「私は讃美歌355番が好きだ。自分の告別式のときにはこれを歌ってもらおう」とおっしゃられた。私はこれを伺い、先生の信仰告白の表明はこの讃美歌の歌詞に尽きると思った。この讃美歌355番は日本人の作詞作曲になる非常に古いもので、作られた時の歌詞の題は「新天新地の歌」というものであった。内容は罪からの救い、復活、永遠の生命、というキリスト教の中心的なことが簡潔に歌われている。これは信者である我々が先生をお見送りするのにふさわしい讃美歌と思われるので、最後にここにご列席の皆様とこれを心を合わせて歌いたいと思う。どこで歌うよりもこの集会この会場で信者の皆様に歌っていただくことが先生の一番お喜びになられることであると固く信じる。

来世での有体的復活は先に召された木の枝夫人の固く信ずるところであった。私も残る人生を有体的復活を信じてキリスト・イエスに向かって突入したい。イエスの言葉、「死んだ者の葬式は死んだ者にまかせ、あなたは行って神の国を伝えなさい」(ルカ9章60節)を心して生きたい。そして私としては復活の朝には先生からまた初めと同じ言葉をかけていただきたいと思う。「高橋君、君はやっぱり特攻隊だったねー」と。

讃美歌355番

1. 主を 仰ぎ 見れば  古き われは,

    うつし世と共に  速(と)く去りゆき,

   我ならぬわれの あらわれきて,

    見ずや天地(あめつち)ぞあらたまれる.

2. うつくしの 都(みやこ)  エルサレムは

    今こそくだりて われに来つれ.

   主ともに在(いま)せば つきぬさちは

    きよき河のごと 湧きてながる.

 3. うるわし慕(した)わし とこ世のくに,

    うららに恵みの 日かげ 照れば,

   生命(いのち)の木(こ)の 実(み)は  みのりしげく,

    とわに死の影も なやみもなし.

  4. つゆだに功(いさお)の  あらぬ 身をも

    潔(きよ)めてみくにの 世嗣(よつぎ)となし,

    黄金(こがね)のみとのに  住ませたもう

    わが主の愛こそ かぎりなけれ.

 

                         2007年5月6日 高橋照男 

inserted by FC2 system