一番大切な事
信仰は史実の信仰伝承が土台
2006.4.23 東京聖書読者会 高橋照男
復活に関する最古の伝承 第一コリント15章3−5節
●これはパウロ以前からの「信仰告白伝承」。第一コリントは55年、マルコは60年代。
塚本訳 Tコリ15:3-5
15:3 まえにわたしが(福音の)一番大切な事としてあなた達に伝えたのは、わたし自身(エルサレム集会から)受けついだのであるが、キリストが聖書(の預言)どおりにわたし達の罪のために死なれたこと、
15:4 葬られたこと、聖書どおりに三日目に復活しておられること、
15:5 またケパに、それから十二人(の弟子)に、御自分を現わされたことである。
口語訳
Tコリ15:3-5
15:3 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、
15:4 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、
15:5 ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。
新改訳
Tコリ15:3-5
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
新共同
Tコリ15:3-5
15:3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
15:4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
15:5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
復活伝承はどこまでが史実か
●葬られたこと。三日目に遺体がなくなっていたこと。ここまでが歴史内の出来事。それ以後は歴史外のこと。佐藤研氏および荒井献氏との見解の一致。空の墓が有体的復活信仰の物理的条件。これは十分条件ではないが必要条件。復活の記事は墓が空であったことまでは四福音書で一致。それ以後のことはバラバラ。空の墓の記事を読んで胸が熱くなった経験。
●「胸が熱くなった」経験は個人の歴史としては完全に歴史内のこと。
●歴史的事実を霊の働きで認知し、胸が熱くなったときにこれを「伝承」すること。これが「一番大切な事」。史実の信仰解釈。あくまで史実が土台。その信仰伝承が一番大切。
●これのみが使徒伝承の本質。エクレシアの本質。ミサ曲やカンタータの本質。キリスト教芸術の本質。バッハのカンタータは喜びのリズムからなっている。
●しかしそのことは人に霊がくだり、「胸が熱く」ならなければ大脳皮質では十字架と復活の信仰は永久に謎。脳の努力では無理。ここが全員にはわからない「使徒伝承」の困難さ。福音は「説くという行為」では伝わらない難しさ。「伝承」を尽くして「天命」を待つ。
塚本訳 ルカ 24:31-32
24:31 (その時)二人の目が開けて、その方とはっきりわかった。すると(また)その姿が見えなくなった。
24:32 二人は語り合うのであった、「(そう言えば、)道々わたし達に話をされたり、聖書を説き明かされたりした時に、胸の中が熱くなったではないか」と。
それはなぜ一番大切な事なのか
ejn prwvtoi"(エン プロートイス)・・・・第一義的に、中心的な、最も主要な
●なぜ一番大切なことなのか。人間にとっての「究極の苦悩と悲しみ」を救うものだから。
究極の苦悩と悲しみとは
罪・・・罪の重荷は十字架の贖いで救われる。解放されて楽になる。医者では直せない
死・・・来世での身体のよみがえりを信じられるようになる。悲しみの突破。医者では無理
新共同
Tコリ1:18
1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
塚本訳 ロマ 1:16
1:16 わたしは(決して)福音を恥じない。福音は神の力で、これを信ずる者を一人のこらず、すなわち、まずユダヤ人、次に異教人を、救いに入れるからである。
イエスの復活とはどのようなことであったのか
●福音書の記事のとおりのことが起こったと信じればよい。とんでもないことが起こった。
●「身体をそなえた歴史的イエスが、地上的であって、同時に地上的でない仕方で12弟子の間に出現し、あるいはエマオで二人の弟子に出現」(NTD新約聖書註解コリント人への手紙ヴェントライトp292)マグダラのマリヤに(ヨハネ20:14-18)、弟子達に(ルカ24:36-49,ヨハネ20:19-23)、トマスに(ヨハネ20:24-29)など
●十字架から降ろされたイエスの遺体は、三日目に不思議な復活体で有体的によみがえった。
●マグダラのマリアに対しては、私に触るなと言い(ヨハネ20:17)、トマスには傷口に触ってみなさいと言われた(ヨハネ20:27)。手も足もあるので触って見なさいと言われた(ルカ24:39)。閉めてあるドアを通り抜けてこられた(ヨハネ20:19)。急に姿が見えなくなった(ルカ24:31)。とにかく地上的であり同時に地上的でない不思議な身体であった。これはこのまま信ずるより仕方がない。理性ではとても信じられないような超自然的な現象であった。
●復活信仰は霊魂不滅観や、泡が大海の一滴に戻るという人類の一般的死生観とは異なる。
●神の子イエスの不思議な身体での復活は、我々に来世での復活の希望を抱かせてくれる。
●神は「口約束」だけではなくイエスの歴史的事実を通して世に血判の保証印鑑を押された。
パウロの心配と怒り
塚本訳Tコリ15:12-14
15:12 ところで、キリストが死人の中から復活しておられることが(こんなに)説かれ、(また信じられ)ているのに、死人の復活はないと主張する者があなた達の中にあるのは、いったいどうしてか。
●12節・・・あなた達の中に→→→コリント教会の内部の人
●復活信仰とは個人における「心の中のヴィジョンではない」。個人の霊的体験によって分かることが復活信仰ではない。使徒たちの「復活のイエスに接した体験」を伝承として聞いて胸を熱くされること、その伝承に連なること。それが使徒伝承に連なること。
●復活信仰とは信者の心の中に復活のイエスがビジョンとして現われる場合ことではない。パウロの体験は個人的な一例。それが絶対ではない。
●伝承としての「復活」の告知は生まれつきのままの理性では受け入れられない。理性の奮励努力では永遠に無理。理性の犠牲による信仰は信仰ではない。復活論は常に平行線になる。
●この場合、次のパウロのように「彼らの中から出て」いかなければならない。婦人は味方。
塚本訳 使
17:31-34
17:32 死人の復活と聞くと、嘲る者もあり、「そのことはまたいつかあなたに聞こう」と言う者もあった。
17:33 こんなことで、パウロは彼らの中から出ていった。
17:34 しかし数人の者は、弟子になって信仰に入った。その中にはアレオパゴス法院の裁判官デオヌシオと、ダマリスという婦人と、なおその他の人がいた。
●歎異抄は親鸞没後約30年目に「異」なる教えが流布し始めたのを「嘆」いて弟子の唯円が書いたもの。マルコ福音書もイエスの死後約30年を経て書かれたもの。直接師に接したことのある人がそろそろこの世を去っていく頃に書かれた。「心配」と「嘆き」がその動機。
●歎異抄に対して「異安心」というものがある。心配ご無用、心配すること自体がいけないのだと平然としている人たちのこと。使徒伝承を保持してない人には「心配事」なるものはない。
●福音書はグノーシス対策のためにできた。つまり福音はイエスという史実にもとづくものであることの確認と強調。神の子は地上を歩かれた。苦しまれた、十字架に付けられ血を流された。三日目にその墓は空であった。復活は不思議な身体であったが、有体的であった。これらは完全に歴史内のことであった。ここがキリスト教の特徴。理性の安息を得る。
阿弥陀様はこの世に実在しないお方。
●また偉大な宗教的指導者の宗教的思想、信仰の姿勢。預言者的生き様などには土台を置かない。復活の史実に土台を置くのがキリスト教
「一番大切な事」が見えなくなった場合の歴史的現象
1・グノーシス主義・・・・肉よりも霊のほうが大切と考えること。 イエスの歴史性の軽視。福音書の成立はグノーシス対策。神の子は確かに十字架に付けられて血を流された。苦しまれた。使徒信条もグノーシス対策。神の子は確かに死んで墓に葬られた。そして三日目に復活された。これが「使徒伝承」の本質。史実に基礎を置く福音
2・教会主義(集会主義)・・・・使徒伝承の本質よりも、教会という組織の維持発展に意を用いる現象。カトリック教会の組織的膠着状態から脱出したのがルター。ルター派教会の膠着状態から脱出したのがドイツ敬虔主義(ピエティスムス)。英国国教会の膠着状態から脱出したのがウェスレーやピューリタン。日本の教会主義から脱出したのが無教会主義。しかし脱出しても100年も経つとそれがまた膠着状態になる。
3・指導者の人格主義・・・・信仰上の指導者の強烈な個性のもとに集まる集団。指導者の人格的権威が存在していて無意識のうちに「思想的枠」ができはじめる。不立文字の精神で密教的雰囲気。思想的蛸壺現象。そういう集団は指導者の死とそれの心酔者の死によって自然消滅の運命をとる。パウロ主義、ケパ主義。パウロは次のように言う。
塚本訳 Tコリ1:11-13
1:11 わたしの兄弟たちよ、あなた達の間に喧嘩があることを、クロエの家の者たちから知らせてきた。
1:12 もっとはっきり言うとこうである。──あなた達はめいめい、「わたしはパウロ(先生)に」、「わたしはアポロ(先生)に」、「わたしはケパ(先生)に」、わたしは(主)キリストに」と言っている。
4・社会批判運動・・・・信者は社会的批判運動をすることが当然の展開だとする主義。思想的に枠ができるので「斬りあいになる」「神学論争」になる。社会改良では「罪の苦しみと死の悲しみの恐怖」を救うことはできない。そこに有体的復活の信仰が皆無。
●パウロやヨハネ福音書の著者は使徒伝承に連ならない教会(集会)を嘆き怒っている
●無教会主義は十字架と復活の使徒伝承のみがその土台であった。
●無教会主義は2000年の教会史に「使徒伝承」のみにおいて連鎖する。
●パウロは「信仰による従順」という。平和は使徒伝承への従順による。運動ではこない。
使徒伝承に連なるにはどうしたらよいのか
神が心の目を開く
●使徒伝承の基本に戻ること。組織や先生の宗教思想に土台を置かないで「十字架と復活」の史実に信仰の土台を置くこと。神によって心の目が開かれた人、胸が熱くなった人がその信仰告白の伝承をすること。これがエクレシアの本質。教会や集会の本質。ミサ曲のクレドーの意味。無教会における使徒伝承の姿とは何か
●ヨハネ福音書の附録21章はペテロを指し示している。現在のヨハネ福音書は増補改訂第3版。これは各人の信仰の自由を尊重したために起きた混迷のヨハネグループに対して使徒伝承に立ち返るべきことを指し示している。増補改訂版を出さなければならなかったヨハネグループの苦悩の跡をそこに見る。無教会の将来は使徒伝承を保持する無名人たちによる。
●人が胸が熱くならない場合はどうすべきか。神がとらえる恩恵の時が必ず来る。臨終の時であってもくる。来世であっても来る。神は99匹の羊を残しておいても迷っている羊を探し出す。神は失った自分の羊を必死に探し出す。人間はどんな人でも神に創られた存在。
●神秘的な宗教体験をしなくても復活を信じられる「その時」がくる。心の目が開かれる時。
●パウロのようなダマスコ顕現型の復活伝承は存在するのかどうかは問題(NTD註解、前述)。つまり多種多様の個人的な宗教体験が復活伝承の基盤ではない。復活体験は人様々。
共通点は「心の目」が開かれるという超自然的なこと。
塚本訳 ルカ 24:31-35
24:31 (その時)二人の目が開けて、その方とはっきりわかった。すると(また)その姿が見えなくなった。
24:32 二人は語り合うのであった、「(そう言えば、)道々わたし達に話をされたり、聖書を説き明かされたりした時に、胸の中が熱くなったではないか」と。
24:33 時を移さず二人は立ち上がってエルサレムに引き返して見ると、十一人とその仲間とが集まっていて、
24:34 「ほんとうに主は復活して、シモン(・ペテロ)に御自分を現わされた」と話してくれた。
24:35 それで二人も、(エマオへの)道であったことや、また、どうしてパンを裂かれたことで(主と)わかったかを物語った。
塚本訳 ルカ 24:45-46
24:45 それから聖書をわからせるために彼らの心を開いて
24:46 言われた、「救世主は苦しみをうけて、三日目に死人の中から復活する。
塚本訳 使
16:14
16:14 するとテアテラ町の紫毛織物の商人で、敬信家のルデヤという婦人が聞いていたが、主はその心を開いてパウロの話に耳を傾けさせられた。
塚本訳 Uコリ4:6
4:6 というのは、(世界創造の時、)「光、暗闇から輝き出でよ」と言われたその神は、キリストの顔に現れている神の栄光を知る知識が明らかになるため、わたし達の心の中に光を輝かせてくださったからである。
口語訳
エペ 1:17-18
1:17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、
1:18 あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
塚本訳 マタ 16:17
16:17 するとイエスは(喜んで)ペテロに答えられた、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。これをあなたに示したのは血肉([人間]の知恵)でなく、わたしの天の父上だから。
塚本訳 ヨハ 6:37
6:37 (だが、信じないのは父上の御心である。)父上がわたしに下さるものは皆、わたしの所に来、わたしの所に来る者を、わたしは決して放り出さない。
塚本訳
ヨハ 6:44
6:44 (わたしを信じないのは、父上が引っ張ってくださらないからだ。)わたしを遣わされた父上が引っ張ってくださらなければ、だれもわたしの所に来ることはできない。(しかし来れば、)わたしはその人をきっと最後の日に復活させる。
塚本訳 ヨハ 6:65
6:65 そして言われた、「だから『父上に許された者でなければ、だれもわたしの所に来ることは出来ない』と言ったのだ。」
信仰はなぜ史実が土台でなければならないのか
新共同
Tコリ1:21
1:21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
宣教・・・・khruvgmato"(ケーグルマトス)・・・宣伝、宣教、告知、知らせ
愚か・・・・mwriva"(モーリアス)・・・愚か、愚かさ、愚かな話、馬鹿話
塚本訳 Tコリ1:21
1:21 なぜなら、(この)世(の人)が自分の知恵により(判断し)、神の知恵(の現われである御業)において神を認めることをしないので、神は馬鹿な(ことと見える十字架の)説教によって信ずる者(だけ)を救おうと、お決めになったからである。
●「使徒伝承」という馬鹿な話を信じれば救われる。学問なくとも神の力により救われる。
●史実を土台にしない信仰は、人間の宗教思想を土台にする。イエスの山上の垂訓、ルター、カルヴァン、内村、塚本、黒崎、矢内原の思想。人間は思想では救われない。イエスの出来事の背後にある神の思想なる神の霊で救われる。イエスを十字架につけ、復活させた神の力を信じて救われる。イエスの歴史的出来事の神にあってなされた事を信ずることで救われる。
塚本訳 Tコリ1:18
1:18 なぜか。この十字架についての言葉は、滅びゆく者には馬鹿なことであるが、わたし達救われる者には、神の力(の現われ)であるから。
使徒伝承の様
●ペテロの説教。使徒1:21-22、2:22-36、3:14-15、4:8-12、5:29-32、10:34-43(福音書成立の基礎)、●パウロ。使徒13:23-41(福音書成立の基礎)、ロマ1:1-5●マルコ。1:1 ●ヨハネ福音書21章を加えた著者。使徒伝承への回帰を促す。ヨハネ21:15-23●音楽家はミサ曲で「クレド(使徒信条)」を作曲 ●讃美歌作者たち。特にドイツ敬虔主義のP・ゲルハルトなど●建築家、神田のニコライ堂には「復活教会」と銘がある。ロシアのシチュールホフ設計、岡田信一郎改修設計●教会形成。無教会主義。内村、塚本、黒崎、矢内原等の生き様●無名の主の愛する弟子(ヨハネ福音書の理想)の苦難と悩みの生涯と死に様。