イエスの復活

2004.11.13 町田集会  高橋照男

 

1・人生苦の現実

 

1・1 私が遭遇した様々な人生苦(ホームページ日記と感想040929

●親の病気、貧困、進学断念、就 職の挫折失敗、失恋、恋愛の悩み、片思いの苦、結婚の苦、自己の病気、妻の不治の病、不登校、家屋の焼失、脳内出血による意識不明、財産の焼失、経済苦、信仰の苦、教会の苦、無教会の苦、子供の病気、子育ての苦、子供の非行、子供の反抗、子供の離反、妻の離反、家庭崩壊、家庭内不和、不倫の悩み、離婚、 ホームレス、不妊、流産、親類縁者の堕落、友人の自殺、友人同僚の死、父の死、母の死、家族が癌、余命宣告、職場の倒産、リストラ、定年、給料の減少、同僚に遅れをとる、アルコール中毒、身体の苦、不美人の苦、肥満の苦、子供の離婚、子供の貧困、上司との確執、嫁姑の確執、妻の小言、兄弟の争いと反目、相 続問題、死の恐れ、子供の未婚、犯罪で罪人扱いされ人格が「全否定」される、、、、、、アー人生は「辛い」。

 

1・2 「こんなはずではなかったのに」と思う人生(HP日記と感想040928

●人生は「魔がさして」失敗する。病魔で失敗、自分の病気、妻の病気、子 供の病気、妻の死、子供の死、受験で失敗、事業に失敗、就職に失敗、会社倒産、失業、酒で失敗、女(男)で失敗、異性に振られて失敗、結婚に失敗、家庭崩壊で失敗、自分の(伴侶の)不倫で失敗、妻の(夫の)離反で失敗、子供の非行で失敗、出世に失敗、姑との喧嘩、舅との喧嘩、嫁との争い、婿との争い。親子 の争い、兄弟の争い、相続問題の争い、などなど人生はこれ「失敗」するようにできているのではないか。うまくいかないように出来ているのではないだろうか。惨めな人生。貧困。悲しく寂しい、悔やまれる人生。「俺(私)の人生、こんなはずではなかった」「こんなつもりじゃなかった」「もう少し我慢していれ ばよかった」「人生の汚点」「とんでもないことになってしまった」「取り返しのつかないことをしてしまった」「思わざることになってしまった」「魔がさした」「悔やまれる」。嘆く。悔やむ。泣く。「人生ってなんだろう苦労の方が多いじゃないか」(詩篇9010)。罪を犯さない人なんているんだろうか。人生に本当のシアワセなんてあるのだろうか。

 

口語訳 詩  90:10

90:10 われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。

 

 

1・3 人生苦の原因は何か

 

1・3・1 仏教の見解。(インターネットで検索。「三毒とは」より転載)

 

●仏教は煩悩をなくすことによって悟りと至福涅槃が得られると説く。その煩悩は総括すると三毒である。三毒とは貪欲、瞋(じん・怒りのこと)、無知である。
 仏教はまず、名利を捨てて発心し、煩悩を消滅する。煩悩は三毒であり、三毒をなくせばお釈迦さんの仏教は成しうるのである。
  三毒とは、何か。
  一に、貪ることである。損得である。地位である。名声である。金である。快楽である。欲望である。蓄財である。保身である。快楽である。
  二に、怒りである。恨みである。憎しみである。そして恐怖である。誰かが襲ってくると震える恐怖である。先にやられるだろうだから先に殺す。その恐怖である。
  三に、無知である。蒙昧である。知らないことである。知ら ないことを知らないことである。自分は完璧だと自惚れることである。未知を尊ばない不遜である。そして、無関心である。無関心とは実は繋がっている自分自身の責任への反逆である。無関心とは私達の友達への暴挙である。それは自分自身のすなおな心を消し去ること、自殺である。

 

1・3・2 キリスト教の見解(新約聖書における「罪のカタログ」)

 

塚本訳 マコ 7:20-23

7:20 また言われた、「人から出るもの、そちらが人をけがす。

7:21 内から、つまり、人の心からは、邪念が出るからである。(すなわち)不品行、盗み、人殺し、

7:22 姦淫、欲張り、悪意、悪巧み、道楽、妬み、悪口、高ぶり、愚かさ(など)。

7:23 これらの悪は皆、内から出て人をけがすのである。」

 

口語訳 ガラ 5:19-21

5:19 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、

5:20 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、

5:21 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。

 

新共同 ロマ 1:29-31

1:29 あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、

1:30 人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、

1:31 無知、不誠実、無情、無慈悲です。

 

新改訳 Tコリ6:9-10

6:9 あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、

6:10 盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。

 

 

2・救いの道・キリスト教の場合 

 

2・1 人生苦の多くは「自然治癒」の現象で時が解決してゆく

●病気・・・医学  社会問題・・・政治、社会改良  争い・・・ヒューマニズム

 

2・2 どうしても解決できないものは罪と死の苦しみ

●罪の苦しみは人間として最大の苦、それは人格の全否定。罪の自覚は酸欠窒息の懊悩

死の悲しみの克服は人類の最後の課題。4大文明は死の克服が目的

 

2・3 イエスは、貧困、病、争いの解決には意外に冷淡であった(HP041002

●人生苦は様々であるが、そのうち、貧困、病気、争いが人をして宗教に追いやる三大苦と言われる。最近はそれに老年の苦というものが加わる。しかしイエスはこの三大苦には意外に冷淡であった。「貧乏人はいつまで君たちの周りにいる(マルコ147)」とか「パンを食べて満腹したのでいけない(ヨハネ626-27)」とか「誰を私を兄弟げんかの仲裁人にしたのか(ルカ 12:13-15)」とか「戦争は世の最後まである(ルカ219)」とかである。、

 

塚本訳 マコ 14:7

14:7 貧乏な人はいつもあなた達と一しょにいるから、したい時に慈善をすることが出来る。だがわたしはいつも一しょにいるわけではない。

 

塚本訳 ヨハ 6:26-27

6:26 イエスが答えられた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、あなた達がわたしをさがすのは、(パンの奇蹟でわたしが救世主である)徴を見たからでなく、パンを食べて満腹したからである。

6:27 (食べれば)無くなる食べ物のためでなく、いつまでもなくならずに、永遠の命に至らせる食べ物のために働きなさい。これは人の子(わたし)があなた達に与えるのである。神なる父上が、(これを与える)全権を人の子に授けられたのだから。」

 

塚本訳 ルカ 12:13-15

12:13 すると群衆の中の一人がイエスに言った、「先生、遺産を分けてくれるように、兄に言ってください。」

12:14 イエスは「君、だれがわたしを、あなた達の裁判官また遺産分配人に任命したのか」とこたえておいて、

12:15 人々に言われた、「一切の貪欲に注意し、用心せよ。いかに物があり余っていても、財産は命の足しにはならないのだから。」

 

塚本訳 ルカ 21:9

21:9 戦争や暴動と聞いた時に、びっくりするな。それらのことはまず“おこらねばならないことである”が、しかし(まだ)すぐ最後ではないのだから。」

 

 

2・4 パウロの罪の自覚の懊悩、その嘆きと救い。「神の絶対恩恵による無条件の罪の赦し」

●律法主義のユダヤ教では良くなれないという疑問を抱いていたパウロ。そのパウロの嘆きと懊悩は復活のイエスに出会って瞬間に解決した。律法の概念は日本では道徳儒教。

パウロは復活のイエスに出会うことによって神との敵対関係が消え、「イエスの死の意味」が初めてわかった。死の意味が贖罪の意味であることを証明された。パウロに対する「サウロ、サウロ」の呼びかけは「神の絶対恩恵による無条件の罪の赦し」

 

塚本訳 ロマ 7:18-20

7:18 なぜなら、わたしの中には、すなわちわたしの肉の中には、(何一つ)善いものが住んでいないことを、わたしは知っている。良いことをしたいと思う意志はいつもわたしにあるが、(悲しいかな、)する力がないのである。

7:19 したいと思う善いことはせずに、したくないと思う悪いことばかりを、するからである。

7:20 ところで、したくないと思うことばかりをしているのだから、それをしているのはもはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪である。

 

2・5 罪とは何か。煩悩は罪ではない。神に敵対していることが罪。神に敵対しているところから悪いものが発生する。神と和睦すると煩悩は罪でなくなる。煩悩すらも祝福される

 

塚本訳 ロマ 5:6-10

5:6 なぜなら、わたし達がまだ弱くあったとき、当時まだ不信心者の(わたし達の)ために、キリストは死んでくださったからである。

5:7 (驚くべき神の愛!人間の世界では、)義人のために命をすてる者はほとんどあるまい。善人のためならば、惜しげもなく命をすてる者が、あるいはあるかも知れない。

5:8 しかしわたし達が(義人でも善人でもなく、)まだ罪人(神の敵)であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった。このことによって、神はわたし達に対する愛をお示しになったのである。

5:9 それならばキリストの血で義とされている今、わたし達がキリストによって(最後の日の神の)怒りから救われるのは、もちろんである。

5:10 なぜなら、(神の)敵であったのに、その御子の死によって神と和睦ができたくらいならば、すでに和睦をしたわたし達が、御子の(復活の)命によって救われるのは、もちろんである。

 

 

3・私はいかにしてイエスの復活を信ずるに至ったか

 

3・1 「イエスの墓が空であった」ことを聞いて「胸が熱くなった」体験

 

塚本訳 ヨハ 20:8-9

20:8 すると先に墓に着いたもう一人の弟子も入ってきて、見て、信じた。

20:9 イエスは死人の中から復活されねばならないという聖書の言葉が、(この時まで)まだ彼らにわかっていなかったのである。

 

塚本訳 ルカ 24:31-32

24:31 (その時)二人の目が開けて、その方とはっきりわかった。すると(また)その姿が見えなくなった。

24:32 二人は語り合うのであった、「(そう言えば、)道々わたし達に話をされたり、聖書を説き明かされたりした時に、胸の中が熱くなったではないか」と。

 

     胸が熱くなったことによって見えたもの

1 空の墓は歴史的事実であること、
     2 それは罪の赦しと永遠の生命の実在の証拠であること、
     3 その信仰告白は地上で(歴史的に)連鎖的につながりついにこの私にまで  
       到達したこと。

 

3・2 家屋の全焼で「天国の家は焼けない」と認識させられたこと

塚本訳 ヨハ 2:19-22

2:19 イエスは答えられた、「このお宮をこわせ、三日で造ってみせるから。」

2:20 ユダヤ人が言った、「このお宮を建てるには四十六年もかかったのに、あなたは三日

 で造るというのか。」

 

2:21 しかしイエスは自分の体のことを宮と言われたのであった。

2:22 だから死人の中から復活された時、弟子たちはこう言われたことを思い出して、聖書とイエスの言われた言葉と(が本当であること)を信じた。

 

3・3 脳内出血、意識不明の体験で「この身体の命は100%完全に神に握られている」と認識させられた体験

 

塚本訳 マタ 10:29

10:29 雀は二羽一アサリオン(三十円)で売っているではないか。しかしその一羽でも、あなた達の父上のお許しなしには地に落ちないのである。

 

3・4  イエスが霊の身体の存在で目の前に座っているという「臨在体験」をしたこと

 

●レンブラントの絵「エマオのキリスト」(1628年・パリ・ジャックマールアンドレ美術館蔵、最終ページに添付)の場面と同じ体験。

 

塚本訳 ルカ 24:30-32

24:30 一しょに食卓について、(いつものように)パンを(手に)取り、(神を)讃美したのち、裂いて渡されると、

24:31 (その時)二人の目が開けて、その方とはっきりわかった。すると(また)その姿が見えなくなった。

24:32 二人は語り合うのであった、「(そう言えば、)道々わたし達に話をされたり、聖書を説き明かされたりした時に、胸の中が熱くなったではないか」と。

 

 

●これはいわゆる歴史ではない。復活は写真には写らない。歴史とは万人にわかること。

 

塚本訳 使  10:40-42

10:40 (しかし)神はこの方を三日目に復活させ、(人の目にも)見えるようにされた。

10:41 (ただし)国民全体でなく、神からあらかじめ選ばれていた証人であるわたし達、すなわちイエスが死人の中から復活されたあとで、一緒に飲み食いした者(だけ)に見えたのです。

10:42 そして神はわたし達に命じて、この方こそ神に定められた、生きている者と死んだ者との審判者であると、国民に説きまた証しさせられるのです。

 

3・5  肺癌で死んだ母の死の臨終に立ち会って「神が命を引き取る」という認識を

させられたこと

 

●神は土の人間に命を吹き込み、最後は引き取る。

日本語では死ぬことを息を引き取るというが、これは神が命を引き取るのだ

母は最後に息を吐いて終わった

 

新共同 創  2:7

2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

 

塚本訳 マコ 15:37

15:37 しかしイエスは(それを受けず)大声を放たれるとともに、息が絶えた。

 

 

 

●「息が絶えた」の言語はエセプニューセンで「息を吐き出す」という意味。

 

塚本訳 ヨハ 19:30

19:30 イエスは酸っぱい葡萄酒を受けると、「(すべて)すんだ」と言って、首を垂れて霊を(神に)渡された。

 

●渡すの原語はパレドーケン、霊の原語はプニューマ。マルコよりもヨハネの方が意味が深い。人間の最後は霊を神に返すのではなく神にとられる。召天という。

 

3・5 身体のよみがえりと処女降誕の信仰は同質。

●神が創造し神が身体を復活させる。全能の神の力と約束を信ずる。

イエスの復活は我々の身体のよみがえりの「希望」「さきがけ」「初穂」。

 

口語訳 Tコリ15:20

15:20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。

 

 

4・イエスの復活。一体何が起こったというのか

 

4・1 復活記事の順序。4福音書でそれは決して一致整合しない。歴史外のことだから

 

4・2 ただし「墓が空になっていた」ところまでは4福音書は一致。ここまでが歴史内

    ●「空の墓」までは歴史内のことであることは荒井献先生と確認し合った。

「墓が空になっていた」ということを聞くと胸が熱くなる不思議

    「空の墓」の史実性は佐藤研氏(岩波版聖書の編集者)とも確認しあう

 

(HP「復活の喜び・・・復活信仰への旅」より)

●1998年4月、荒井門下の佐 藤研先生(荒井献先生とともに岩波書店発行の新約聖書の翻訳責任編集者)は、現代思想(青土社)1998年4月号に「復活信仰の成立」という論考を書かれた。その結論はイエスの弟子たちにとって空の墓は衝撃であった。復活信仰はこの史実が基盤になっている、と言うものである。「我が意を得たり」というのは このようなときに使うのである。佐藤論考のポイントを記そう。
「イエスの墓が空になった、ということが史実であると想定せざるを得ない最大の論拠は次の点にある。つまり、イエスの弟子たちが『イエスは復活した』と宣教し始めたとき、一般のユダヤ教徒がそれを反駁するに際し、墓の中のイエスの死体を指示できなかった点である。……………日曜日の朝、イエスの死体が葬られたはずの墓から消失してしまっていたのであり、その事態が、当所を訪れた女たちにまず明らかになったのである。このことの史実性だけは、カンペンハウゼンの言う通り、ほとんど否定できない。」(「現代思想」1998年4月号113114ページ)

    

4・3 復活は誰にでも分かるものではなかったのはなぜか

 

●復活が分かるのは少数。それは神を愛して神に愛される人。人間関係と同じ原理。心の通う人に本当のことを話したくなる。心が通うときに真実が伝わる

 

塚本訳 ヨハ 14:21-24

14:21 わたしの掟をたもち、これを守る者、それがわたしを愛する者である。わたしを愛する者はわたしの父上に愛され、わたしもその人を愛して、その人に自分を現わすであろう。(だからわたしを愛する者だけが、わたしを見ることができるのだ。)」

14:22 イスカリオテでない方のユダが言う、「主よ、いったいどういうわけで、わたし達だけに御自分を現わし、この世(の人)にはそうしようとされないのですか。」

14:23 イエスは答えられた、「わたしを愛する者は、わたしの言葉を守る。するとわたしの父上はその人を愛され、わたし達は(父上もわたしも)、その人のところに行って、同居するであろう。

14:24 (しかし)わたしを愛しない者は、わたしの言葉を守らない。(だからわたしを見ることができない。)あなた達が(わたしから)聞く言葉はわたしの言葉ではない、わたしを遣わされた父上の言葉である。

 

4・5 復活体験は人によって異なる

 ●イエスの直弟子達の復活体験とパウロの復活体験は内容が異なった。(白水社「ナグ・ハマディ写本」初期キリスト教の正当と異端・・エレーヌペイゲルス著 荒井献他共訳p48

●現代において復活体験は可能か。それはどのようにして起こるか。イエスの場合と同じく、現代においても神は人生の行き詰まりのときや極度の悲しみの時に現われてくださる。復活体験は百人百様だが行き詰まりと極度の悲しみの時というのが共通現象。病苦(ヨハ56口語訳「イエスはその人が横になっているのを見」)、死別、罪人、仕事の行き詰まりでの貧困(マル648新共同「逆風のために弟子達が漕ぎ悩んでいるのを見て」、ヨハ215-6新改訳「食べ物がありませんね」、塚本訳「何も肴があるまい」)

 ●ヨハ56マル648の「見る」の原語はホラオーで理解する、認める、洞察するの意

 

 

5・現代において復活の伝承は可能か

 

 5・1 復活の信仰告白をする連鎖反応がエクレシアの基礎(ブルンナー)

●人が人に「道を伝える(教える)」という意味の「伝道」は儒教的概念。それは福音の伝わり方に馴染まない。

「私も同じような復活体験をしました」と言って自然に集まって来るのが真のエクレシア。神の招き。神に召し集められる。「私も胸が熱くなりました」という」応答は少数。

臨終の母の言葉「信仰は人に教えられて入るものではない。説教をしない人になりなさい」

 

5・2 「処女降誕と復活」をまともに信ずる集団の減少。その原因。意外な展開 

●神の霊は人にも教会にも無教会集会にも長くは留まらないのかもしれない。霊の付与は神の主権で神の思いのまま。神の霊はイスラエルを去って異邦に流れた。意外な展開

  新改訳   6:3

6:3 そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。

 新改訳ヨハ 3:6-8

3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。

3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

 

5・3 エクレシアが「処女降誕と復活」を信じなくなるときに起こる堕落現象の数々   

●エクレシアの法的組織化(ブルンナー)、職業的聖職者の発生、聖職者の階級意識と支配欲、宗教の政治への関与、人物崇拝、ヒューマニズム、聖書学の職業化、神学思想的切りあい、社会科学思想的切りあい(共産党的な様相)。

 

5・4 よく陥る頭だけの復活信仰

●「弟子達が見違えるように活動をしたのだからその背後に何か「復活」のようなことがあったはずだ」という復活信仰は推論のみ。それは歴史概念で五分五分だけのこと。説得力がない。パウロはギリシャ人に頭で伝道して失敗。

 

 

6・イエスの復活は人生の最終的「希望」

 

6・1 様々な人生苦はイエスの復活で突破。絶対恩恵による無条件の罪の赦しが永遠の命への道

●人生の最大の苦しみである罪と最大の悲しみである死。その涙を拭ってくれるのはイエスの十字架と復活。十字架が贖罪の意味であったことの証明が復活であった。復活は同時に「永遠の生命」の約束。来世実在、身体のよみがえりの証明と約束、希望。

 

6・2 イエスの復活は永遠の命の約束。永遠の命という言葉の響き。その不思議さ

 

新改訳 ヨハ 3:16

3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

6・2 「地上の生活は仮の宿」「旅人」「一期一会の出会い」「出会いは一瞬」

霊魂は身体に宿り、身体は家に宿り、家は環境に宿る。しかし人間はいつかはこれらと別れる。身体も家も環境も常に不完全が故に苦がある・・・・建築士としての人生観

●「霊魂<身体<家屋<環境」。このうち身体、家屋、環境の病は人間が直せるが、霊の病(罪)は直せない。霊魂の病(罪)は神によってのみ直せる。環境には政治体制を含む

 

塚本訳 マコ 2:9-11

2:9 この中風の者に、あなたの罪は赦された、と言うのと、起きて担架をかついで歩け、と言うのと、どちらがたやすい(と思う)か。

2:10 では、人の子(わたし)は地上で罪を赦す全権を持っていることを知らせてやろう」と彼らに言いながら、中風の者に言われる、

2:11 「あなたに命令する、起きて担架をかついで、家に帰りなさい。」

 

新共同 Tペテ2:11

2:11 愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。

 

塚本訳 ヘブ 11:13-14

11:13 信仰に従い、これらの人たちは皆、(地上では)約束のものを受けずに死んだのである。彼らはただ遠くからそれを眺めて歓迎し、自分たちは、『この地上では外国人であり、旅の者』であると認めた。

11:14 このように(自分を外国人、旅の者と)言う人々は、(ほかにある)自分の国を追及していることを現わしているからである。

 

 

 7・霊魂>身体>家屋>環境

 

●この世的人生観は、霊魂<身体<家屋<環境。身体、家屋、環境はみなこの世のこと。

イエスの世界観は、霊魂>身体>家屋>環境。これは「苦難を克服する不等式」でもある。

 

霊魂>身体の聖書的根拠

 

塚本訳 マタ 10:28

10:28 体を殺しても、魂を殺すことの出来ない者を恐れることはない。ただ、魂も体も地獄で滅ぼすことの出来るお方を恐れよ。

 

身体>家屋の聖書的根拠

 

塚本訳 マタ 6:25-26

6:25 だから、わたしは言う、何を食べようかと命のことを心配したり、また何を着ようかと体のことを心配したりするな。命は食べ物以上、体は着物以上(の賜物)ではないか。(命と体とを下さった天の父上が、それ以下のものを下さらないわけはない。)

6:26 空の鳥を見てごらん。まかず、刈らず、倉にしまいこむこともしないのに、天の父上はそれを養ってくださるのである。あなた達は鳥よりも、はるかに大切ではないのだろうか。

 

家屋>環境の聖書的根拠

 

●これは、霊魂・身体・家屋>環境 の意味である。環境とは住環境、地域環境、自然環境、地球環境、教育環境、家庭環境、職場環境、政治環境、教会環境など人生の外部環境。

 

塚本訳 ルカ 20:20-26

20:20 そこで彼らはイエスをつけねらい、信心深そうな風をした回し者をやった。イエスの言葉質をとって、総督の役所や官庁に引き渡すためであった。

20:21 回し者がイエスに尋ねた、「先生、あなたは正直に物を言い、また教えられ、すこしもわけ隔てをせず、本当のことを言って神の道を教えられることをよく承知しております。

20:22 (それでお尋ねしますが、わたし達は異教人である)皇帝に、貢を納めてよろしいでしょうか、よろしくないでしょうか。」

20:23 彼らの悪賢い考えを見破って言われた、

20:24 「デナリ銀貨を見せなさい。そこにはだれの肖像と銘があるか。」「皇帝のがあります」と彼らが言った。

20:25 イエスは彼らに言われた、「それなら皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ。」

20:26 彼らは民衆の前でイエスの言葉質をとることができず、そのうけこたえぶりに驚きながら黙ってしまった。

 

●イエスの言わんとすることは、人間は神に似せて造られたので神の肖像がその顔に刻まれているのだ。だから政治体制の如何に関わらず自分の身と心を神に徹底的に神に捧げよという意味。

 

口語訳 創  1:27

1:27 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

 

●政治環境に不自由を感じる信者は民主主義の「デモク ラシー」ばかりを必至に追求する。しかしクリスチャンは自分の国が王制でも共和制でも圧政でも喜んで暮らせなければならない。つまり「デモクラセルー(塚本虎二の名言)」と考えなければならない●環境の改造による外部環境の完全が幸福ではない。平安の道ではない。神との霊の交わりが真の幸福、永遠の生命。 ●また特に教会環境に不自由を感じていたり、牧師に不満を感じている人間は次の聖書の個所を心に置かなければならない。神は教会でなくとも今ここにいまし給う。

 

塚本訳 ヨハ 4:20-24

4:20 (それでお尋ねしたいのですが、)わたし達の先祖はこの(ゲリジム)山で(神を)礼拝したのに、あなた達(ユダヤの人)は、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。(どういう訳でしょうか。)」

4:21 イエスが言われる、「女の人、わたし(の言葉)を信じなさい。(間もなく)あなた達が、この山でもエルサレムでもなく(どこででも、)父上を礼拝する時が来る。

4:22 ただ(同じ神を、)あなた達は知らずに礼拝し、わたし達は知って礼拝している。救いはユダヤ人から出る(のでわたし達だけに神が示された)からである。

4:23 しかし(ユダヤ人もサマリヤ人もなく、)本当の礼拝者が霊と真理とをもって父上を礼拝する時が来る。いや、今もうきている。父上もこんな礼拝者を求めておられるのである。

4:24 神は霊である。だから礼拝者も霊と真理とをもって礼拝せねばならない。」

 

● 霊魂を徹底的に神に捧げた者の方が、身体、家屋、環境に対して真の貢献ができるようになるというのが宗教的原理の不思議な現象。その実例の数々。マックスウェーバーの指摘は、プロテスタンティズムが資本主義社会への転轍手(線路のポイント)となったということ。赤十字、クェ-カー、無教会主義(内村鑑三・塚本虎二)、政教分離の判決(藤林益三)、米の収量10倍の増産理論(松島省三)、ライ病の特効薬プロミンの開発(石舘守三)等々。

 

 口語訳 マタ 7:22-27

7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。

7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

7:24 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。

7:25 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。

7:26 また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。

7:27 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。

 

●物理的家屋の崩壊は苦難であ る。私は2000年に家屋全焼。しかし霊魂の病が原因である家庭崩壊のほうがより大きな悲劇である。家屋なんかは何とかなる。現在日本では離婚率4割。私の周囲にも多い。家庭の崩壊は国家崩壊の主因。これは新潟県中越大地震よりも重大問題。これは霊魂・身体>家屋・環境,ということである。ローマ帝国が崩壊したのは性道徳の欠如により家庭が堕落して人口が増加しなかったからだと言われている。日本も同じではないか。家庭建設に神の祝福がない。結婚ということが人間同士の楽しみになっている。

 

 口語訳 詩  127:1

127:1 主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。

 

 

 

レンブラント エマオのリスト

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1628

パリ ジャックマール・アンドレ美術館蔵

 

 

 

 

 

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