故五十嵐永吉 葬儀式辞 2011.3.1-2 於川崎市エヴァホール津田山)

 

関根訳詩篇90篇(関根正雄訳) 永遠の神

 

90     1      神の人、モーセの祈り。主よ、あなたは代々われらの支えであられた。

90     2      山いまだ生まれず、地と世界が生み出される前に永遠(とこしえ)から永遠まであなたは神にいます。

90     3      あなたは人を塵(ちり)に帰らせて、言われる、「人の子よ、帰れ」と。

90     4      まことにあなたの眼には千年も過ぎ去った昨日(きのう)の一日、夜番(よばん)の一時にひとしい。

90     5      あなたは彼らを大水のように過ぎ去らせる。彼らは朝の眠り、移ろう草にひとしい。

90     6      朝花を咲かせても、移ろいやすく、夕にはしおれて、枯れはてる。

90     7      げにわれらはあなたの怒りによって消え失せ、あなたの憤(いきどおり)によって脅かされる。

90     8      あなたはわれらの罪をみ前におき、われらの隠れた罪をみ顔の光の中におかれた。

90     9      まことにわれらの日はあなたの憤りの中に消え、われらの年は溜(た)め息のように消えはてる。

90     10     それ故われらはの齢(よわい)は七十歳(ななそじ)長くて八十歳(たそじ)に達してもその誇るところはただ労苦と空(むな)しさ、楽しみはげにつかの間でわれらもまた飛び去る。

90     11     誰かあなたの怒りの力を知ろう、誰かあなたの憤りの重さを悟ろう。

90     12     われらの日数を正しく数えることを教え、知恵の心を得させ給え。

90     13     ヤハヴェよ、帰り給え、ああ、何時(いつ)まで。あなたの僕らに憐れみをかけ給え。

90     14     朝にあなたの恵みをもって飽きたらせ、この世を終わるまで喜び楽しませ給え。

90     15     あなたがわれらを苦しめ給うた日々、われれが不幸にあった年月に比べて、われらを楽しませ給え。

90     16     み業をあなたの僕にあらわし、栄光をその子らに示し給え。

90     17     主なるわれらの神のいつくしみをわれらに与え、われらの手の工(わざ)をわれらの上にならせ給え。われらの手の工をならせ給え。

 

 

マタイ福音書第22章1〜14節(塚本虎二訳)

 

王子の結婚披露宴の譬

 

22:1 イエスは言葉をつづけ、また譬をもって(パリサイ人たちに)話された、

22:2 「天の国は、王子のために結婚披露の宴会を催す王にたとえられる。

22:3 家来たちをやって宴会に招いた人たちを呼ばせたけれども、だれも来ようとはしなかった。

22:4 王は、招いた人たちにこう言え、と言って、重ねてほかの家来たちをやった、『いよいよ食事の用意ができました。牛と肥し飼いの家畜とを屠って、すっかり用意ができています。さあ、宴会においでください。』

22:5 しかし彼らはそれに構わず、一人は畑に、一人は商売に出かけ、

22:6 ほかの者は家来たちを捕らえてひどい目にあわせた上、殺してしまった。

22:7 王は憤り、軍隊をやってその人殺しどもをうち滅ぼし、その町を焼き払った。

22:8 それから家来たちに言う、『宴会の用意はできているが、招いた人は(客たる)資格のない者(ばかり)だ。

22:9 だから町の出口の所に行って、出会った者をだれでもよいから宴会に呼んでこい。』

22:10 家来たちは道に出ていって、出会った者を悪人でも善人でも皆集めてきたので、宴会場は客で一ぱいになった。

22:11 王は客を見ようとして入ってきたが、そこに礼服を着けていない者が一人いるのを見て

22:12 その人に言った、『君、礼服も着ずに、なんでここに入ってきたのか。』その人が黙っていると、

22:13 王は家来たちに言った、『あの者の手足を縛って、外の真暗闇に放り出せ。そこでわめき、歯ぎしりするであろう。』

22:14 ──招かれる者は多いが、選ばれる者は少ないのだから。」

 

 

 

式辞

●旧約聖書の詩篇90篇は人生のはかなさ空しさと、罪に対する神の裁きの恐ろしさを歌った詩で。キリスト教信者であるとなしとにかかわらず、人類一般の共通の嘆き悲しみがその内容であります。

これに対して新約聖書はその人類の嘆き悲しみからの救いが書かれています。

●聖書には死後の状態がいかなるものであるかは詳しくは書かれてありません。
●しかしマタイ221-14の王子の結婚披露宴の譬からはその様子を少しく垣間見ることが出来ます
●この譬話は3幕からなっていて、第1幕(1〜8節)はユダヤ人が神の招きを拒否したこと、第2幕(9〜10節)は神の心が変わって救いがこの世で気の毒な人やユダヤ人以外の民族に向けられたことを示しています。これは歴史的事実であります。現にユダヤ人は今もキリストを救い主と信じていません。またユダヤ教のエルサレム神殿は紀元70年に陥落し、福音は異教に流れ出て世界宗教になりました。
●しかし第3幕はこれからの終末(来世)死後の世界のことが書かれています。
●死後、神によって天国の宴会に招かれた人は、その宴会場の入り口で神が無料で貸し出し出してくださる礼服を着なければならないというのです。宴会での貸衣装の礼服は当時の習慣でもあり、現代でもその風習がある国があります。
●礼服で身をきれいにしなければならないとは、天国の宴会に出席するには罪をことごとく洗い清められなければならないことが暗示されています。
●具体的には神に無料で差し出される十字架の救いという礼服を素直に受けて着ればよいのであって、自分の功績や善行を自慢するような自力での「身づくろい」はいけない、神の救いをただ受ければよいというのであります。
●ところが客の中にこの王(なる神)が貸し出す礼服を着ない「不届き者」が一人いました。
●王(なる神)はその不届き者の態度を怒って、暗闇に放り投げ出したのです。

●暗闇という言葉で霊魂の永遠の滅亡という恐ろしいことが暗示されています。

●この世で、不幸であった人、機会に恵まれず不幸にも神を信じられかった人こそ死後神の国の宴会に招かれる可能性が高いのです。しかしそれでもその宴会に招かれた人は全員が入り口で神が無料で貸して下さる礼服を着なければならないのです。この無料の礼服で身づくろいをすればそれで救われる、つまり霊魂の救いは来世で決定するのだということがこのイエスの譬話であります。
●故人は生前「キリストの救いの信仰告白」には到りませんでしたが、それが返って天国の宴会に招かれる資格を得たことになります。願わくは故人がそこで無料で貸し出される礼服で神から罪を赦され、永遠の生命に入れるように祈るものであります。これが残された順子夫人の、また私達の祈りであります。

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