イエスの受難予告は事後預言                

・・・初代教会における信仰告白の息吹に触れる・・・

2010年5月2日 東京聖書読者会 高橋照男

@ 受難予告は福音の要約としての事後預言・・・初代教会の熱い信仰告白   A 福音の要約的説教・・・ペテロの福音説教がマルコ福音書に敷衍展開した   B「神はこうお決めになっている」・・・初代教会がイエスに読んだ神の業               C「友のために死ぬ」・・・初代教会は「イエスは神の心を知った」と読んだ   D「君達には受難の覚悟があるのか」・・・初代教会自身の覚悟、自省      E此の酒杯を我より取り去り給へ」・・・自分で自分を励ます初代教会

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@ 受難予告は福音の要約としての事後預言・・・初代教会の熱い信仰告白

1−1 イエス自身が「三日目に復活する」と予告した疑問とその解決 

●将来の「時期」を知らなかったイエスが、「人の子は三日目に復活する」と予告した不自然さに苦しんできた。これは「事後預言」(既に起こった出来事を、過去の人物の語った預言の形で述べたもの。古代に広く流布していた歴史解釈の一手法・・旧約新約聖書大事典)であることが現代の聖書学ではほぼ定説になっていることを知って目から鱗が落ちた。この事により逆に神の心とイエスに事後預言を独白させた初代教会の熱い信仰告白が迫ってきた。学問は信仰の敵ではない(塚本虎二)。無教会は聖書学と信仰の調和。塚本、黒崎。

塚本訳 マコ 13:32

13:32 ただし、(人の子の来る)その日また時間は、父上のほかだれも知らない。天の使たちも、子(であるわたし自身)も知らない

1−2 イエスの孤独の戦いの記事には目撃者がいなかった。だからその記録は初代教会の信仰告白。しかしそこには初代教会の深い福音理解がある。

●荒野の誘惑(マタ41-11)、ゲッセマネの苦闘(マタ2636-46)、最高法院の審問(マル1453-65)などイエスの孤独の戦いの記事には誰も目撃者がいなかった。したがってこれは初代教会の信仰告白が生み出したもの。これは定説。記事の内容は史実ではないが、そこに初代教会の深い福音理解がある。   ●同じく受難予告もイエスの受難は神によってなされたことなのであるという初代教会の信仰告白。それを「事後預言」としてイエスが独白した形にした。それはいみじくも福音の要約である。「受難予告」はイエスの運命が誰にも理解されなかった孤独の時の独白。イエスの受難予告は「事後預言」であることをはっきり言いだしたのは近代聖書学。このことにより逆に現代の我々にはイエスの孤独と初代教会の熱い信仰告白が強く迫る。受難予告は3回も出てくる。

1−3 受難の予告第一(ピリポ・カイザリヤにて)・・・ペテロの無理解

塚本訳 マコ 8:31-33 (マタ1621-23 ルカ922
8:31
(この時から、)イエスは、「人の子(わたし)は多くの苦しみをうけ、長老、大祭司連、聖書学者たちから排斥され、殺され、そして三日の後に復活せねばならない。(神はこうお決めになっている)」と弟子たちに教え始められた。
8:32
しかもおおぴっらにこのことを話された。するとペテロはイエスをわきへ引っ張っていって、忠告を始めた。(救世主が死ぬなどとは考えられなかったのである。)
8:33
イエスは振り返って、弟子たちの見ている前でペテロを叱りつけられた、「引っ込んでろ、悪魔!お前は神様のことを考えずに、人間のことを考えている!」

1−4 受難の予告第二(ガリラヤにて)・・・弟子たちの無理解

 塚本訳マコ 9:30-32 (マタ1722-23 ルカ941-45
9:30
一行は(エルサレムに上るため)そこを去って、ガリラヤを通った。しかしイエスは(この旅行が)人に知られることを好まれなかった
9:31
「人の子(わたし)は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。殺されるが、三日の後に復活する」と言って、弟子たちに教えて(その覚悟を求めて)おられたからである。
9:32
彼らはこの言葉(の意味)がわからなかった。でもこわいので尋ねなかった。

1−5 受難の予告第三(エルサレムへの道中)・・・家族の無理解(この直前のマルコとルカの小見出しは「すてる者の幸福」。イエスの孤独感が迫る)

 塚本訳マコ 10:32-34 (マタ2017-19 ルカ1831-34) 
10:32
一行はエルサレムへ(の道を)上る途中であった。イエスが(十二人の)弟子たちの先頭に立って(どしどし)歩かれるので、彼らは薄気味わるく思い、ついて行く(ほかの)人たちは恐ろしがっていた。イエスはまた十二人(だけ)をそばに呼んで、自分の身に起ろうとしていることを話し出された、
10:33
さあ、いよいよわたし達はエルサレムへ上るのだ。そして人の子(わたし)は(そこで)大祭司連と聖書学者たちとに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異教人に引き渡し、
10:34
異教人はなぶり、唾をかけ、鞭で打って、ついに殺すのである。しかし三日の後に復活する。」

 

A 福音の要約的説教・・・ペテロの福音説教がマルコ福音書に敷衍展開した

2−1 ペテロの説教は福音の要約・・・福音書はその敷衍展開

●[ペテロの説教]、ことにその第6(使 10:37-41)は福音の要約。この説教の中にマルコ福音書の4本柱が見られる。マルコはペテロの従者であった。マルコはペテロの伝道説教(受難の意味)の敷衍展開として「長い序文付きの受難物語」としてマルコ福音書を書いた。「福音書成立の源流はペテロの伝道説教の4本柱にあった」とは英国C・H・ドッドの指摘。

 

ペテロの説教[第6]塚本訳 使  10:37-41               【 】は高橋の注でペテロの説教の4本柱。これが敷衍されて福音書になった

 

   【@洗礼者ヨハネの出現】

10:37 あなた達は(洗礼者)ヨハネが洗礼を説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ中にゆきわたった出来事を知っておられる。

10:38 すなわち、『神が』いかに聖『霊』と(大いなる)力と『をもって』ナザレのイエスに『油を注がれ(て聖別され)た』か、

   【A奇蹟集】

このイエスが(あちらこちらを)巡回しながら、恩愛を施し、悪魔におさえつけられている者を皆直されたかを。神がご一緒におられたからです。

10:39 ──(使徒たる)わたし達は、イエスがユダヤ人の地、ことにエルサレムでされた一切のことの証人です。──

   【B受難と十字架】

このイエスを人々は『(十字架の)木にかけて』処刑した。

   【C復活】

10:40 (しかし)神はこの方を三日目に復活させ、(人の目にも)見えるようにされた。

10:41 (ただし)国民全体でなく、神からあらかじめ選ばれていた証人であるわたし達、すなわちイエスが死人の中から復活されたあとで、一緒に飲み食いした者(だけ)に見えたのです。

 

2−2 イエスの受難に対する初代教会の信仰告白の息吹が迫る

 

●この4本柱よりもさらに短いのがイエス自身が独白(モノローグ、ひとりごと)で語る「受難の予告」(マルコ8:31-33、9:30-32、10:32-34)。それは受難物語の短い要約。近代聖書学は「初代教会の信仰が受難の要約をイエスに語らせた」と結論した。これは一見破壊的と見えるがこの結論のおかげでかえって初代教会の信仰告白の息吹が圧倒的に迫ってくる。これはイエスの歴史的発言ではなくとも神の心としては真理。だからイエスの「受難予告」はイエスの真正の言葉だと読んでも聖書の読み間違いではない。これは塚本訳の本文と敷衍の関係である。敷衍は本文の意味をより良く説明するためにある。それはイエスやパウロの発言ではなくとも意味において真理。しかし「受難予告」は歴史的発言としても真実であってほしいと思うのが理性の要求である。ところがこれがイエスの真正の歴史的発言だったとしても人間に神の霊が下らなければその真意を悟ることはできない。それをわかろうとするには跳躍が必要。信仰は神の愛を信じての飛び込みである。信仰は跳躍である。

 

2−3 初代教会の信仰告白としての福音書と読み人知らずの讃美歌

 

●マルコ1:1の「神の子」・・・神学的形容詞問題

・あるもの・・・B(バチカン写本)、A(アレキサンドリア写本)文語、口語、新改訳、新共同、KJV,RSV.NRSV,JB,NJB,NEB,REB。               

・ないもの・・・אアレフ写本)、ネストレ24、25版、塚本、田川、前田、

・(括弧)にしたもの・・・ネストレ26、27版、NTD、岩波佐藤研訳、

 

●この「神の子」の神学的形容詞が写本や翻訳にあってもなくても我々はイエス・キリストが神の子であることを信じる。この問題は「イエスの尊厳意識」についても同じ。(この問題は内村鑑三研究第28号・・1991 拙稿、「イエスの尊厳意識をめぐって」に結論した。「ご意見にまかせる」マタ27:11)

 

●初代教会の信仰はピリピ2:6-11の賛美歌(読み人知らず)によく現れている。

 

塚本訳ピリ 2:6-11

2:6 彼は(先には)神の姿であり給うたが、神と等しくあることを棄て難いことと思わず、

2:7 かえって自分を空しうして人と同じ形になり、奴隷の姿を取り給うたのである。そして人の様で現れた彼は、

2:8 自ら謙り、死に至るまで、(然り、)十字架の死に至るまで(父なる神に)従順であり給うた。

2:9 それ故に神も彼を至高く上げ、凡ての名に優る(「主」なる)名を与え給うた。

2:10 これはイエスの(この尊い)名の前に、天の上、地の上、地の下にある『万物が膝を屈め、

2:11 凡ての舌が』「イエス・キリストは主なり」と『告白して』父なる『神に』、栄光を帰せんためである。

 

B「神はこうお決めになっている」・・・初代教会がイエスに読んだ神の業

3−1 初代教会が言わんとしたこと。・・イエスの孤独時、目撃者なき記事

初代教会が福音書という文学形式で言わんとした事を要約すると次の通り。

「荒野の誘惑」(マタ 4:1)・・・・人は政治、経済、宗教では救われない     「ゲッセマネの苦闘」(マタ 26:36)・・・十字架は神がイエスに負わせた   「最高法院の審問」(マコ 14:54)・・・・真理は上からの啓示でのみわかる       「受難の予告」(マタ2017-19・・・受難は神の定めた業であった

3−2受難予告は神がイエスに負わせた「ねばならない」のストーリー

塚本訳 マコ 8:31

8:31 (この時から、)イエスは、「人の子(わたし)は多くの苦しみをうけ、長老、大祭司連、聖書学者たちから排斥され、殺され、そして三日の後に復活せねばならない。(神はこうお決めになっている)」と弟子たちに教え始められた。

 

塚本訳 ルカ 9:51

9:51 イエスは(いよいよ)昇天の日が迫ったので、決然としてその顔をエルサレムへ向けて進み、

塚本訳 ヨハ 14:31
14:31
だが、わたしが父上を愛し、父上の命令のとおり行うことをこの世に知らせるために(わたしはあれに身をまかせる。)──立て。さあ出かけよう!

塚本訳 ルカ 17:24-25

17:24 その日に人の子(わたし)が来るのは、ちょうど稲妻がひらめいて、大空の下をこの端からかの端まで照りかがやかすよう(に、はっきりわかるの)であるから。

17:25 しかし人の子はその前に多くの苦しみをうけ、この時代の人から排斥されねばならない

 

塚本訳 マタ 26:52-54

26:52 その時イエスが言われる、「剣を鞘におさめよ。剣による者は皆、剣によって滅びる。

26:53 それとも、父上にお願いして十二軍団以上の天使を今すぐ送っていただくことが、わたしに出来ないと思うのか。

26:54 しかしそれでは、かならずこうなる、とある聖書の言葉は、どうして成就するのか。」

 

塚本訳 ルカ 24:7

24:7 『人の子(わたし)は罪人どもの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目に復活せねばならない』と言われたではないか。」

 

塚本訳 ルカ 24:25-26

24:25 彼らに言われた、「ああ、預言者たちの言ったことを何一つ信じない、悟りの悪い、心の鈍い人たちよ!

24:26 救世主は栄光に入るために、そのような苦しみを受けねばならなかったのではないのですか。」

 

 

C「友のために死ぬ」・・・初代教会は「イエスは神の心を知った」と読んだ  

 

塚本訳 ヨハ 3:14-17

3:14 そして、ちょうどモーセが荒野で(銅の)蛇を(竿の先に)挙げたように、人の子(わたしも十字架に)挙げられ(て天に上ら)ねばならない

3:15 それは、(蛇にかまれた者がその銅の蛇を仰いで命を救われたように、)信ずる者が皆(天に上った人の子を仰いで、)彼にあって永遠の命を持つためである。

3:16 そのゆえは、神はその独り子を賜わったほどにこの世を愛されたのである。これはその独り子を信ずる者が一人も滅びず、永遠の命を持つことができるためである。

3:17 神は世を罰するためにその子を世に遣わされたのではなく、子によって世を救うためである。

 

塚本訳 ヨハ 15:12-13

15:12 わたしがあなた達を愛したように、互に愛せよ。──これがわたしの掟である。

15:13 (わたしはあなた達のために命を捨てる。)友人のために命を捨てる以上の愛はないのだ。

 

D「君達には受難の覚悟があるのか」・・・初代教会自身の覚悟、自省

塚本訳 マタ 8:20

8:20 イエスはその人に言われる、「狐には穴がある、空の鳥には巣がある。しかし人の子(わたし)には枕する所がない。(その覚悟があるか。)

 

塚本訳 マコ 9:31

9:31 「人の子(わたし)は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。殺されるが、三日の後に復活する」と言って、弟子たちに教えて(その覚悟を求めて)おられたからである。

 

塚本訳 ルカ 14:28

14:28 (このように、わたしの弟子になるには最初の覚悟が必要である。)なぜか。(次の譬を聞きなさい。)あなた達のうちには櫓を建てようと思うとき、まず坐って、はたして造りあげるだけの金があるかと、その入費を計算しない者がだれかあるだろうか。

 

新共同 Tテサ3:3
3:3
このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした。わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。

 

E「此の酒杯を我より取り去り給へ」・・・自分で自分を励ます初代教会

 

塚本訳 マコ 14:32-37

14:32 やがて(オリブ山の麓の)ゲッセマネと呼ばれる地所に着いた。イエスは弟子たちに言われる、「わたしの祈りがすむまで、ここに坐って(待って)おれ。」

14:33 そしてペテロとヤコブとヨハネ(だけ)を連れて(奥の方へ)ゆかれると、(急に)おびえ出し、おののきながら

14:34 彼らに言われる、「『心がめいって、』『死にたいぐらいだ。』ここをはなれずに、目を覚ましていてくれ。」

14:35 そしてなお少し(奥に)進んでいって、地にひれ伏し、出来ることなら、この時が自分の前を通りすぎるようにと祈って

14:36 言われた、「アバ、お父様、あなたはなんでもお出来になります。どうかこの杯をわたしに差さないでください。しかし、わたしの願いでなく、お心がなればよいのです。」

14:37 やがて来て、彼らが眠っているのを見ると、ペテロに言われる、「シモン、眠っているのか。たった一時間も目を覚ましておられないのか。

●神の心を知って自らの運命を覚悟していたイエスであったが、いざ土壇場になると「(急に)おびえだし、おののいた」(マルコ1432)。そして見苦しくも「アバ、お父様、・・・どうかこの盃をわたしに差さないでください。」(マルコ1436)と嘆願した。これは「父(とう)ちゃん。勘弁してくれよ!」という意味である。さっきまでの雄々しい「受難予告」の「覚悟」はどこかに去って急に弱い人間イエスに変わった。このイエスの弱さの記事は迫害下にある初代教会自身の慰めと励ましである。「(初代教会の)我々もこれでいいんだ。見苦しい十字架の死でいいのだ。ぶざまな負け犬の姿でいいのだ。信仰などどこかに消えて、みっともなくかっこ悪い死に方でいいんだ。信仰的にも失敗の人生でよいのだ。そのあとは神が復活で引きあげてくださるのだから」と。
 これは現代にも通じる。癌で苦しみ認知症になって、信仰もおかしくなってもよいのだ。それで家族に冷笑され、つまずかれて捨てられてもよいのだ。神は覚えていてくださり最後の日にはきっと我々を有体的に復活させて下さる。

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