金持ちが永遠の生命に縁遠い理由
東京聖書読者会 2008.5.4 高橋照男
塚本訳 ルカ 16:13-14
16:13 しかし(この世のことはみな準備のためであるから、それに心を奪われてはならない。)いかなる僕も(同時に)二人の主人に仕えることは出来ない。こちらを憎んであちらを愛するか、こちらに親しんであちらを疎んじるか、どちらかである。あなた達は神と富とに仕えることは出来ない。」
16:14 金の好きなパリサイ人の人々は一部始終を聞いて、イエスを鼻で笑った。(富は信仰の褒美と考えていたのである。)
塚本訳マコ 10:21-23
10:21 イエスは彼をじっと見て、かわいく思って言われた、「(よく守った。だが)一つ足りない。家に帰って、持っているものをみな売って、(その金を)貧乏な人に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことができる。それから来て、わたしの弟子になりなさい。」
10:22 彼はこの言葉に顔をくもらせ、悲しそうにして立ち去った。大資産家であったのである。
10:23 イエスは(うしろ姿を見送っておられたが、)やがて見まわして、弟子たちに言われる、「物持ちが神の国に入るのは、なんとむずかしいことだろう。」
10:24 弟子たちはその言葉にびっくりした。(彼らは富むことが、神に特別に愛されているしるしと信じたのである。)イエスはかさねて言われる、「子供たちよ、神の国に入ることは、なんとむずかしいのだろう。
crhvmata ≺crh'ma (岩隈)・・財産、富、金銭、かね (玉川)・・お金、金銭、富、財産
●人間は誰でも豊になることを求めている。パリサイ人がイエスを鼻で笑ったことはイエスの金に対する考えが旧約の思想に反するからであった。富はそれ自身は悪いものではない。正しいものへの恩恵でもある。ヨブ記は財産が増えることによってハッピーエンド。地獄の沙汰も金次第。この世の問題は金で解決できる不思議。慰謝料、保釈金、示談金、結納金、契約金、寄付献金、残業代。人は金持と結婚したがる。楽に死のうとするのにもお金がかかる。入院、老後の生活、葬式。この世では金は力。金は幸福。金は万能。したがって、この世では金持ちや物持ちが賞賛され優遇される。信用される。だから経済学の目的は人間や国家が豊になること。それが幸福の条件。パウロの労働観は品位保持のため。
新共同 ヨブ 42:10-12
42:10 ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。
42:11 兄弟姉妹、かつての知人たちがこぞって彼のもとを訪れ、食事を共にし、主が下されたすべての災いについていたわり慰め、それぞれ銀一ケシタと金の環一つを贈った。
42:12 主はその後のヨブを以前にも増して祝福された。ヨブは、羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。
●金がないと人から見下される悲しみ。学校に行けない、勉強ができない、家を持てない、嫁の来てがない、教会に行けない、病気になっても直せない。「俺を馬鹿にしおって」。
内村鑑三「キリスト信徒のなぐさめ」第5章「貧に迫りしとき」より
おちぶれて、袖に涙のかかるとき、人の心の奥ぞ知らるる。
(これは鹿児島県民謡の「串木野サノサ」の3番にある。・・・高橋調べ)
なんじ貧に迫るまで友人を信ずるなかれ。世の友人はわれらの影のごとし。彼らはわれらが日光に歩む間はわれらと共なれども、暗所に至ればわれらを離るる者なり。貧より来たる苦痛の中に、世の友人に冷遇される、これ悲嘆の第一とす。
●働け、働け。金のために働け。他人のパンは食うな。(パウロ、ヒルティ、内村、塚本)
塚本訳 Uテサロニケ 3:8
3:8また無代で他人のパンを食ったこともないではないか。否、誰にも厄介をかけまいとして、苦労し骨折りながら夜も昼も(手ずから)働いた。
●富は信心の褒美(ルカ16:14)というのが旧約思想であり、これは人間普通一般の常識。
filavrguroi ≺ filavrguro" (玉川)・・・ 金銭を愛する。金銭欲の強い
岩波翻訳委員会訳1995 金銭欲のはっている
新共同訳1987 金に執着する
口語訳1955 欲の深い
●ところが新約の時代になると価値が全く逆転する。この矛盾をどう理解したらよいのか。
塚本訳 ルカ 16:13-14
16:13 しかし(この世のことはみな準備のためであるから、それに心を奪われてはならない。)いかなる僕も(同時に)二人の主人に仕えることは出来ない。こちらを憎んであちらを愛するか、こちらに親しんであちらを疎んじるか、どちらかである。あなた達は神と富とに仕えることは出来ない。」
●「神と富とに仕えることはできない」(ルカ16:13)というイエスの言葉を鼻で笑ったパリサイ人。いつの時代にも「クリスチャンの思想は負け犬のやせ我慢」だと軽蔑する人間がいる。戦時中、当局の人間は矢内原忠雄の「嘉信」を見て「フン」と言ったという。
ejxemukthvrizon ≺ ejkmukthrivzw (玉川)・・・鼻であしらう、冷笑する
塚本訳 ルカ 23:35
23:35 民衆は立って『見物していた。』最高法院の)役人たちは『鼻で笑って』言った、「人を救ったのだ、(今度は)自分を救えばいいのに、神の救世主、(神に)選ばれた者なら!」
岩波翻訳委員会訳1995 鼻に皺(しわ)を寄せた。
新共同訳1987 あざ笑った。
前田訳1978 彼をあざけった。
●金はないよりあった方がいいが、永遠の生命は金では買えない。これが難問。教会堂や組織が存続してもそこに永遠の生命の使徒伝承があるとは限らない。といって逆に教会堂や組織がなくて雰囲気や特定思想だけが存続してもそこに永遠の生命があるとは限らない。
塚本訳 ルカ 12:15
12:15 人々に言われた、「一切の貪欲に注意し、用心せよ。いかに物があり余っていても、財産は命の足しにはならないのだから。」
ここでいう財産とは何か
uJparcovntwn
≺ uJparcw (玉川)・・・所有物、資産、財産、手もとにあるもの、
ここでいう命とは何か
zwh; (玉川)・・・(死に対する)生命 (神の持つ)永遠の生命
●「財産は命の足しにはならない」を解読するためにもっともよい箇所はルカ16章25
塚本訳ルカ 16:25
16:25 しかしアブラハムは言った、『子よ、考えてごらん、あなたは生きていた時に善いものを貰い、ラザロは反対に悪いものを貰ったではないか。だから今ここで、彼は慰められ、あなたはもだえ苦しむのだ。
●ここのポイントはこの世と来世の機械的な逆転現象ではなく、神に「慰められる」というところにある。親にとって子供は平等、「あんたは気の毒だったねー」と思う親の心。
塚本訳マタ 5:4
5:4 ああ幸いだ、『悲しんでいる人たち、』、(かの日に)『慰めていただく』のはその人たちだから。
●ルカ16章25節の「善いもの」とは何か
ajgaqav ≺ ajgaqvvvvJov" (玉川)・・・良い、土地、
(環境的なよさを示しているように思える。いわゆる「恵まれている人」。・・・高橋)
塚本訳 ルカ 8:8
8:8 またほかのものは善い地に落ちた。生えて(育って)百倍の実を結んだ。」こう言ったあとで、「耳の聞える者は聞け」と叫ばれた。
塚本訳 マタ 7:18
7:18 善い木に悪い実がなることは出来ず、わるい木に良い実がなることも出来ない。
●ルカ16章25節の「悪いもの」とは何か
kakav ≺ kakoj" (玉川)・・・(精神的に)悪い、邪悪な、
(環境の悪さ、不遇な育ちを示しているように思える。いわゆる「不幸な星のもとに生まれた人」。まずい親、まずい家庭、まずい親族、育ちの悪さ。まずい性質。悪い遺伝。自分のまずい性質。子供は親を選べない。国家を選べない。それは宿命・・・高橋)
塚本訳マコ 7:21
7:21 内から、つまり、人の心からは、邪念が出るからである。(すなわち)不品行、盗み、人殺し、
●ルカ16章25節の「もだえ苦しむ」とは何か。それは本当か。そうだったら大変。第一に経済的繁栄や文化文明の発展を否定することではないのか。
ojduna'sai ≺ ojdunavw (玉川)・・・苦しめる、悩ます
●そうではない。富それ自身は悪くない。それもまた神の造られたもの。「神に慰められる」ということこそがポイント。失敗の人生の人が神に慰められる。イエスの言動は神の心。「言葉は神であった。」イエスの言動は神による慰めの姿、そこに来世の様子を垣間見る。「赦しの背後」には神の子が身代りに「もだえ苦しんで」くださった。骨を折ってくださった。
塚本訳 ヨハ 1:1
1:1 (世の)始めに、(すでに)言葉はおられた。言葉は神とともにおられた。言葉は神であった。
塚本訳 ヨハ 1:4-5
1:4 この方は命をもち、この命が人の光であった。
1:5 この光は(いつも)暗闇の中に輝いている。しかし暗闇(のこの世の人々)は、これを理解しなかった。
●神の慰めとは何か。イエスによって慰められた気の毒な人々にその事例を見る。
@ 税金取り(「私の人生、こんなはずではなかったのに」と社会的な引け目を嘆く人)
塚本訳ルカ 19:5
19:5 イエスはその場所に来られると、ザアカイを見上げて言われた、「ザアカイ、急いで下りておいで。きょうはあなたの家に泊まることになっているから。」
A遊女(生活のために転落してしまった悲哀の人生。罪汚れにまみれた失敗人生の悩み。)
塚本訳 ルカ 7:37-38
7:37 すると、その町に一人の罪の女がいた。イエスがパリサイ人の家で食卓についておられることを知ると、香油のはいった石膏の壷を持ってきて、
7:38 泣きながら後ろからイエスの足下に進み寄り、しばし涙で御足をぬらしていたが、やがて髪の毛でそれをふき、御足に接吻して香油を塗った。
文語訳 マタ 21:31
21:31 この二人のうち孰か父の意を爲しし』彼ら言ふ『後の者なり』イエス言ひ給ふ『まことに汝ら告ぐ、取税人と遊女とは汝らに先だちて神の國に入るなり。
B難しい病気(ハンセン氏病、気の毒な病、なおりにくい精神の病にかかってしまった人)
塚本訳 マコ 5:25-29
5:25 すると十二年も長血をわずらって、
5:26 大勢の医者からひどい目にあわされて、財産を皆使いはたして、なんの甲斐もなくて、かえってますます悪くなって、
5:27 イエスのことを聞いて、群衆にまじってついて来た女が、後ろからその着物にさわった。
5:28 「お召物にでもさわれば、なおるにちがいない」と思ったのである。
5:29 はたしてすぐ血の源がかれて、病気が直ったのを身に感じた。
C姦淫の女(恋愛と結婚の失敗。夢と希望と愛の喪失。愛する人に裏切られた人、不倫、家庭の崩壊、私生児、一家離散。教会の悪いところはそういう人を白眼視すること)
塚本訳 ヨハ 8:4-7
8:4 イエスに言う、「先生、この女は姦淫の現場を押えられたのです。
8:5 モーセは律法で、このような女を石で打ち殺すように命じていますが、あなたはなんと言われますか。」
8:6 こう言ったのは、イエスを試して、訴え出る口実を見つけるためであった。イエスは身をかがめて、黙って指で地の上に何か書いておられた。
8:7 しかし彼らがしつこく尋ねていると、身を起こして言われた、「あなた達の中で罪(をおかしたこと)のない者が、まずこの女に石を投げつけよ。」
D独り息子に先立たれた母親(子供に先立たれた人、婚約者の死、夫の死、妻の死)
塚本訳 ルカ 7:12-15
7:12 町の門の近くに来られると、ちょうど、ある独り息子が死んで、(棺が)舁き出されるところであった。母は寡婦であった。町の人が大勢その母に付添っていた。
7:13 主は母を見て不憫に思い、「そんなに泣くでない」と言って、
7:14 近寄って棺に手をかけ──担いでいる者は立ち止まった──「若者よ、あなたに言う、起きよ!」と言われた。
7:15 すると死人が起き上がって物を言い出した。イエスは『彼を母に渡された。』
E犯罪人のレッテルを貼られてしまった人生(魔がさして、思わざることをしてしまった人。とんでもないことをしてしまったと悔やむ人生。親類縁者に顔出しができない人)
塚本訳 ルカ 23:39-43
23:39 磔にされている罪人の一人がイエスを冒涜した、「お前は救世主じゃないか。自分とおれ達を救ってみろ。」
23:40 するともう一人の者が彼をたしなめて言った、「貴様は(このお方と)同じ(恐ろしい)罰を受けていながら、それでも(まだ)神様がこわくないのか。
23:41 おれ達は自分でしたことの報いを受けるのだから当り前だが、このお方は何一つ、道にはずれたことをなさらなかったのだ。」
23:42 それから(イエスに)言った、「イエス様、こんどあなたのお国と共にお出でになる時には、どうかわたしのことを思い出してください。
23:43 「イエスが言われた、「アーメン、わたしは言う、(その時を待たずとも、)あなたはきょう、わたしと一しょに極楽(パラダイス」にはいることができる。」
F生活が苦しくて多額の献金ができなかった人(貧困で、献金もあまりできない人。集会にも出られなくなってしまった人。キリスト教界はどうしても金持ちに頭を下げる事実)
塚本訳 ルカ 21:1-4
21:1 それから目をあげて、金持たちが賽銭箱に賽銭を入れるのを見ておられた。
21:2 またある貧しそうな寡婦(やもめ)がレプタ銅貨[五円]二つをそこに入れるのを見て、
21:3 言われた、「本当にわたしは言う、あの貧乏な寡婦はだれよりも多く入れた。
21:4 この人たちは皆あり余る中から賽銭を入れたのに、あの婦人は乏しい中から、持っていた生活費を皆入れたのだから。」
●神に慰められない人とは誰か。この世ですでに満ち足りている人、恵まれている人。そういう人は神の慰めの対象とならない。神としては「彼はあれで今十分幸福だと自分でもそう思っている。もういい。この上天国でも豊になってもらうことはない。来世でも豊になるならこの世で不運だった人に悪い。バランスが取れない」と考える。これ新約の思想。
塚本訳ルカ 6:24
6:24 だが、ああ禍だ、富んでいるあなた達、もう慰めを受けたのだから。
塚本訳 ルカ 5:31-32
5:31 イエスはその人たちに答えられた、「健康な者に医者はいらない、医者のいるのは病人である。
5:32 わたしは正しい人を招きに来たのではない、罪人を招いて悔改めさせるために来たのである。」
●人間から賞賛を受ける人はそれで報いを受けたことになる。神にとっては彼に慰めの必要はないと思っている。神は金持や物持ち(資産・才能・頭脳・健康・家庭平和・地位(特に宗教者)・経歴・職歴・律法遵守歴・学歴・成功歴・慈善歴・知識・時間・血筋・先生・栄誉・業績などを自慢する人)をよくは言わない。なぜか。富や物それ自身が悪いからではない。それによって神を忘れるからでもない。祈らないからではない。悔い改めにくいからでもない。神に「あの人は人間たちに賞賛されているからあれでもう十分だ」と思われて、肝心の永遠の生命に縁遠くさせられるからである。
塚本訳 マタ 6:2
6:2 だからあなたが施しをする時には、偽善者のように、自分の前にラッパを吹きならして(吹聴して)はならない。彼らは人に褒められようとして、礼拝堂や町の中でそうするのである。アーメン、わたしは言う、彼らは(褒められたとき、)すでに褒美をもらっている。
●この世の富が永遠の生命獲得のために役立たない譬はルカ16章25節のほかに12章16節にもある。
塚本訳 ルカ 12:16-20
12:16 そこで一つの譬を人々に話された、「ある金持の畑が(ある年)豊作であった。
12:17 『どうしよう、わたしの作物をしまいこむ場所がないのだが…』と金持ちはひそかに考えていたが、
12:18 やがて言った、『よし、こうしよう。倉をみなとりこわして大きいのを建て、そこに穀物と財産をみなしまいこんでおいて、
12:19 それからわたしの魂に言おう。──おい魂、お前には長年分の財産が沢山しまってある。(もう大丈夫。)さあ休んで、食べて、飲んで、楽しみなさい、と。』
12:20 しかし神はその人に、『愚か者、今夜お前の魂は取り上げられるのだ。するとお前が準備したものは、だれのものになるのか』と言われた。
●結論。人間は誰でもこの世で豊さを求める。来世のことは「行ってみなければわからない」。富の追求が望ましいことでないというなら一体誰が救われるのか。イエスは質問した人をじっと見て言う。「人間には出来ないが、神にはできる」と。しかしそれは「狭き門」だ。キリスト教は他力本願ではない。宿命論でもない。人間はその狭き門から入れるように「一所懸命」に「力を尽くせ」とイエスは言う。
塚本訳 マコ 10:25-27
10:25 金持が神の国に入るよりは、駱駝が針の孔を通る方がたやすい。」
10:26 弟子たちはいよいよ驚いて互に言った、「それでは、だれが救われることが出来るのだろう。」
10:27 イエスは彼らをじっと見て言われる、「人間には出来ないが、神には出来る。『神にはなんでも出来る。』」
塚本訳2 ルカ 13:23-24
13:23 するとある人が「主よ、救われる者は少ないでしょうか」と尋ねた。人々に言われた、
13:24 「全力を尽くして(今すぐ)狭い戸口から入りなさい。あなた達に言う、(あとになって)入ろうとしても、入れない者が多いのだから。