彼女を記念しなさい
「姦淫の女」物語伝承の研究(ヨハネ7章53−8章11節)
東京聖書読者会 2009.3.1 高橋照男
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@ この物語伝承は歴史的にどこまで遡れるか
A 物語の本質は宗教家たちのイエスに対する「妬み」による罠。
イエスを罠にかけて殺害するのが目的。女性はただ利用された
B イエスは「身をかがめて何を書いていたのか」の問題。
C この「物語伝承」が今日でも力を発揮した実例
D 結論。彼女を記念しなさい。福音はそれ自身の力で伝わる。
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@この物語伝承は歴史的にどこまで遡れるか
●ヨハネ福音書(90-100年頃成立)には初めになかったことは定説。
ネストレ24、25版・・・・ 欄外
26、27版・・・・ 本文
(塚本訳の底本は14版から始められ最終的には1952年の21版)
ほとんどの聖書は( )で本文に入れてある。ただし、RSVはイタリックで表現。NEB、REBは ヨハネ福音書の末尾に付録としている。
20世紀最高のヨハネ註解「ブルトマンのヨハネ」はこれを全くとりあげない。
●有力写本にはない。
重要な4種類の大文字写本、その重要度順は、B、アレフ、A、C。
B・「バチカン写本」(4世紀中頃)。バチカン蔵。旧新約全部。全写本の王
アレフ・「シナイ写本」(4世紀末から5世紀)1859年、チィッシェンドルフが発見。大英博物館蔵。旧新約の殆ど。
A・「アレキサンドリア写本」(5世紀)旧新約。福音書は校訂。大英博物館
C・「エフライム写本」(5世紀)旧約少しと新約。パリ。
この4写本が大文字写本の4天王。
このうちBとアレフの内容が一致すれば決定的権威を持つ。
以上の重要な写本のすべてに「姦淫の女」の物語がない。
D・「ベザ写本」(6世紀)。これに「姦淫の女」がある。英国蔵。
●ではこの記事はどのように伝承されたのか。いわゆる「生活の座」はいかなるものであったのか。1931年発見のパピルス小文字写本P45「チェスタービーチー」(3世紀前半。最重要の写本)などに含まれていたのかなどの研究は本文批評の専門家の分野であって私には歯が立たない。研究断念。この分野にのめり込むと一生を捧げるようになるといわれる。
●最初千年間、ほとんどすべてのギリシャ注解家がこの部分の註解をしていない。オリゲネス(185-284)の註解書にもない。だから口伝伝承ではなかったか。
●2世紀のパピアス(60/75−130/163 小アジアの主教)はこの伝承を知っていた可能性がある。[エウセビウス(260/65―339 教会史の父)の「教会史」V39-17]・・・岩波「ヨハネ文書」小林稔訳P44
●新約外典「へブル人福音書」(別名「へブル人による福音書」2世紀前半・・エジプト。ギリシャ語を語るユダヤ人キリスト教圏向けのユダヤ的福音書)
の「九」には次のようにある。・・・・教文館「聖書外典偽典6・新約外典T」P62川村輝典訳1976年
「九」 また彼(パピアス)は、「へブル人による福音書」(今日では失われている。・・高橋註)に記されている、主の前で多くの罪のために訴えられていた女についてのもう一つの物語をも述べた。
●この「伝承」が複数の写本に登場したとき(時期不明)、はじめはルカ福音書にあったのではないかと考えられる。用語や文体がルカに似ている(塚本、聖書知識22号23ページ)。しかし後になってなぜそれが現在のヨハネ福音書に移動したのかその理由とプロセスは推測の域を出ない。
●ではルカのどの位置に編集されていたのか。
ルカ22:20-26((並行マルコ12:13-17、マタイ22:15-22)の「納税問答」と並べて編集されていたのではないかという説(Bauerら)・・岩隈ヨハネ
「納税問答」も「姦淫の女」も宗教問答ではなくイエスを罠にかけて殺そうとする学者大祭司連の殺害の企みがその本質。ヨアキム・エレミヤスなど。しかし聖書学者の説を待つまでもなく、ルカ20:20やヨハネ8:6を読めばわかる。
塚本訳 ルカ 20:20-26「納税問答」
20:20 そこで彼らはイエスをつけねらい、信心深そうな風をした回し者をやった。イエスの言葉質をとって、総督の役所や官庁に引き渡すためであった。
20:21 回し者がイエスに尋ねた、「先生、あなたは正直に物を言い、また教えられ、すこしもわけ隔てをせず、本当のことを言って神の道を教えられることをよく承知しております。
20:22 (それでお尋ねしますが、わたし達は異教人である)皇帝に、貢を納めてよろしいでしょうか、よろしくないでしょうか。」
20:23 彼らの悪賢い考えを見破って言われた、
20:24 「デナリ銀貨を見せなさい。そこにはだれの肖像と銘があるか。」「皇帝のがあります」と彼らが言った。
20:25 イエスは彼らに言われた、「それなら皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ。」
20:26 彼らは民衆の前でイエスの言葉質をとることができず、そのうけこたえぶりに驚きながら黙ってしまった。
●「貢を納めよ」と答えると、イエスは親ローマだとして反ローマユダヤ人分子たちに殺される
●「貢は納めなくてよい」と答えると統治国ローマへの反逆罪で殺される。
●そこでそのどちらの理由でもなく、つまり反ローマでも親ローマなく「皇帝のものだから皇帝に返せ」という奇妙な理屈で切りぬけた。この理屈ならどちらからも殺されない「逃げの答弁」であった。イエスはこれでその場を切りぬけた。
●これは「姦淫の女」の物語の「逃げの答弁」と同じである。つまり「あなた達の中で罪(を犯したこと)のない者が、まずこの女に石を投げつけよ」というのは、その場を切り抜ける「逃げの答弁」であった。
●一般的に、ヨハネの「姦淫の女」の物語は「イエスはだれをも裁かない」というテーマだと読む。
「本記事は当時の教会で姦通者に課せられていた厳しい償いの習慣に反するのでルカ福音書から取り除かれ、後に、ヨハネ福音書8:15「わたしはだれをも裁かない」の具体例として、ここ(ヨハネ7:53-8:11・・・高橋註)に挿入されたのだろうという説もある」(フランシスコ会聖書研究所訳「原文校訂による口語訳、ヨハネによる福音書」中央出版社P113)
●しかしヨハネのこの位置に挿入したのでは落ち着かない。第一にこの物語のテーマを「イエスはだれも裁かない」というところに求めたのは若干筋違い。
●「姦淫の女」の記事は宗教問答ではなく政治問答。そう読むと意味がよく通る。
A 物語の本質は宗教家たちのイエスに対する「妬み」による罠。
イエスを罠にかけて殺害するのが目的。女性はただ利用された。
塚本訳 ヨハ 8:5-6
8:5 モーセは律法で、このような女を石で打ち殺すように命じていますが、あなたはなんと言われますか。」
8:6 こう言ったのは、イエスを試して、訴え出る口実を見つけるためであった。イエスは身をかがめて、黙って指で地の上に何か書いておられた。
●もしイエスが「この女を殺せ」と言った場合はどうなったか。
死刑執行権のないユダヤ人イエスが殺人扇動者になったとしてローマにつきだされる。そうでなくてもイエスは「ユダヤ人の王」と怪しまれていた。
塚本訳 ヨハ 18:31
18:31 ピラトが言った、「(はっきりした罪名のないところを見ると、わたしが手を下すほどの事件ではなさそうだ。)お前たちがあれを引き取って、自分の法律で裁判するがよい。」ユダヤ人が(とうとう本音を吐いて)言った、「われわれには人を死刑に処する権限がありません。」
●もしイエスが「この女を赦せ」と言った場合はどうなったか。
モーセ律法に反することになるので宗教裁判(サンヘドリン)につきだされる。
●モーセ律法の根拠
・夫のある女性の姦淫は絞殺による死刑
新共同 申22:22-29
22:22 男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。
・婚約中の女性の姦淫は石打ちによる死刑
新共同 申 22:23-24
22:23 ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、
22:24 その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。その娘は町の中で助けを求めず、男は隣人の妻を辱めたからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。
●この物語では「石打ち刑」が要求されているところからして、この女性は婚約中の女性であったらしい。しかし人の子イエスは彼女がこうなってしまったやむを得ざるそのいきさつをよく知っていたのかもしれない。イエスがサマリヤの女の過去をよく知っていた(ヨハネ4:16-18)のと類似。人間イエスの憐れみ。同情。愛。しかし義と愛の板挟みのイエスの苦しみ。
●当時行われた石打ちの刑は次の順序で行われたらしい・・・まず犯人を後手に縛って刑場である崖の上から突き落とす。それでも死なないときは、第一の証人が石を犯人の心臓めがけて投げる。それでも死なない場合にはすべての証人が石を投げつける。(高橋三郎「ヨハネ伝講義」昭和42・10・1)
●どちらの答えに転んでも学者パリサイ人のイエスに対する「妬み」からの罠によって殺害される可能性大。この難しい窮地をイエスはどう切り抜けるか。
●イエスを罠にかけた宗教家たちの動機は宗教問答ではなく「妬み」であった。
塚本訳マタ 27:18
27:18 ピラトは人々が妬みからイエスを引き渡したことを知っていたのである。
●「納税問答」も「姦淫の女」もイエスは「逃げの答弁」で罠から逃れたが、最高法院の審問では御自分の本質が問われる審問の罠だった。絶対絶命。しかしこの場面でもイエスは「逃げの答弁」を行った。「お前が、神の子キリストか」に対するイエスの逃げの答弁は「スーエイパス」(逐語訳では、「あなたは言った」)。つまり「それは君の言うことだ」。意味は「勝手に考えろ(ご随意に)」であった。イエスは逃げた、しかしこの逃げの態度が致命傷になった。
●大祭司に対するイエスの気持ちは「まともに答えても通じない」、「言っても分からない。勝手に考えろ」という逃げの姿勢であった。ルカにはイエスが大祭司の審問に正面からまともに答えなかった理由がよく書かれている。
塚本訳 ルカ 22:67-68
22:67 言った、「お前が救世主なら、そうだとわれわれに言ってもらいたい。」彼らに答えられた、「言っても、とても信じまいし、
22:68 尋ねても、なかなか返事ができまい。
●大祭司はイエスのこの「逃げの姿勢」に乗じて、死刑になるように誘導した。
塚本訳 マタ 26:62-66
26:62 そこで大祭司は立ち上がってイエスに言った、「何も答えないのか。この人たちは(あんなに)お前に不利益な証言をしているが、あれはどうだ。」
26:63 しかしイエスは黙っておられた。大祭司が言った、「生ける神に誓ってわれわれにこたえよ。お前が、神の子救世主か。」
26:64 イエスは(はじめて口を開いて)彼に言われる、「(そう言われるなら)御意見にまかせる。だが、わたしは言う、あなた方は今後『人の子(わたし)が』『大能の(神の)右に坐り、』『天の雲に乗って来るのを』見るであろう。」
26:65 そこで大祭司は自分の上着を引き裂いて言った、「冒涜だ!これ以上、なんで証人の必要があろう。諸君は今ここに(おのれを神の子とする許しがたい)冒涜を聞かれた。
26:66 (この者の処分について)お考えを承りたい。」「死罪を相当とする」と彼らが答えた。
●スーエイパスの塚本訳「御意見にまかせる」と田川建三の翻訳は類似。
田川訳は「あなたがそう言っておいでなのだ」。・・・答えるのをそっけなく拒否したという意味に捉えている。(田川建三訳著新約聖書、マルコ福音書、マタイ福音書、2008.7.15刊行の註P452-454)。ただしこの所の写本解説は複雑難解。
●イエスの「ご意見にまかせる」という返答は、このときばかりは「逃げの答弁」にならず、ついに罠にはまった。イエスが神の子に在(いま)すことを知らない大祭司の妬みから勝手に審判を下された。
B イエスは「身をかがめて何を書いていたのか」の問題。
●これは読者の数だけ「推測」「感想」「感話」がある。永久の謎。
●なぜ地面に座って黙って考えていたのか。高橋の感話。
このときイエスは「そうだ、自分が身代わりで犠牲にならなければこの女性は救われない」と思ったのではないのか
・律法の一点一画も崩れることはない。・・・・義の成就
塚本訳 マタ 5:17-18
5:17 わたしが律法や預言書[聖書]を廃止するために来たと思ってはならない。廃止するどころか、成就するために来たのである。
5:18 アーメン、わたしは言う、天地が消え失せても、(そこに書かれている)すべてのことが実現するまでは、律法(と預言書)から、その一点一画といえども決して消え失せない。
・しかし、赦さなければならない。・・・・・・愛の成就
塚本訳 マタ 18:21-22
18:21 その時ペテロが進み寄ってたずねた、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したとき、何度赦してやらねばなりませんか。七度まででしょうか。」
18:22 イエスがこたえられた、「いや、あなたに言う、七度までどころか、七十七度まで!
・この板ばさみの解決として「そうだ、自分が犠牲になればいいんだ」と思ったのでないか。
●この時のイエスの「つぶやき」、イエスの心中を推し量る。・・・時間的には順不同。
文語訳 ヨハ 15:13
15:13 人その友のために己の生命を棄つる、之より大なる愛はなし。
塚本訳 マコ 2:17
2:17 イエスは聞いてその人たちに言われる、「丈夫な者に医者はいらない、医者のいるのは病人である。わたしは正しい人を招きに来たのではない、罪人を招きに来たのである。」
●「時が来た」。イエスは自分が父なる神によって死に追いやられ始めたことを感じ始めた。そしてその死の意味は民の罪の犠牲なのだということを自覚し始めたのではないか。それがこの事件でないか。「その時歴史は動いた」。
塚本訳 ヨハ 17:1
17:1 イエスはこれらのことを話されると、目を天に向けて(祈って)言われた、「お父様、いよいよ時が来ました。子があなたの栄光をあらわすために、どうか(子を十字架につけて、)子に栄光を与えてください。
塚本訳 ルカ 9:51
9:51 イエスは(いよいよ)昇天の日が迫ったので、決然としてその顔をエルサレムへ向けて進み、
塚本訳 マコ 8:31
8:31 (この時から、)イエスは、「人の子(わたし)は多くの苦しみをうけ、長老、大祭司連、聖書学者たちから排斥され、殺され、そして三日の後に復活せねばならない。(神はこうお決めになっている)」と弟子たちに教え始められた。
塚本訳 マタ 26:6-13
26:6 イエスがベタニヤで癩病人シモンの家におられるとき、
26:7 一人の女が非常に価の高い香油のはいった石膏の壷を持って近寄り、食卓についておられるイエスの頭に(香油をすっかり)注ぎかけた。
26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った、「なぜこんなもったいないことをするのだろう。
26:9 これは高く売れて、貧乏な人に施しが出来たのに。」
26:10 それと知ってイエスは言われた、「なぜこの婦人をいじめるのか。わたしに良いことをしてくれたではないか。
26:11 貧乏な人はいつもあなた達と一しょにいるが、わたしはいつも(一しょに)いるわけではない。
26:12 この婦人がわたしの体に香油をかけてくれたのは、わたしを葬るためである。
26:13 アーメン、わたしは言う、世界中どこでも(今後)この福音の説かれる所では、この婦人のしたことも、その記念のために一しょに語りつたえられるであろう。」
●この「記念」ということが最重要。教会(集会)の本質はこの彼女の出来事を「記念」として伝承すること。 「信仰偉人」(人間)を記念することではない。
●イエスは身をかがめてイザや書53章を書いていたのではあるまいか。「そうだ。それが私の役目だ」と思ったのではないだろうか。イエスは苦しい時に聖書を思い出す。「エリ、エリ、レマ サバクタニ!」(詩篇22編)。
口語訳 イザ
53:4-5
53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
●イエスは自分にしかけられた罠によって「自らの使命」を自覚するに至ったのかもしれない。測り知れない神の知恵。
●「イエスの死の意味」の預言と新約の理解。
口語訳 詩 85:10
85:10 いつくしみと、まこととは共に会い、義と平和とは互に口づけし、
塚本訳ヨハ 1:17
1:17 すなわち律法はモーセをもって与えられたが、恩恵と真理とはイエス・キリストをもって(はじめて)あらわれた。
塚本訳 ヨハ 3:17
3:17 神は世を罰するためにその子を世に遣わされたのではなく、子によって世を救うためである。
C この「物語伝承」が今日でも力を発揮した実例
「姦淫の女」の物語伝承は次の実例のような口伝で担われて行ったのではないか。私が電話で出会った彼女のことを「記念する」ためにあえて公表する。
(以下は8年前の2001.4.4 ホームページより転載。若干加筆変更)
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「私はモーだめでしょうか」「贖罪の道がある」
ある新しい通信回線の勧誘宣伝の電話の女性との対話。
女性「さらに詳しいことは日曜日にお電話してもよろしいでしょうか」
私 「日曜日は聖書勉強の集まりに出かけるからだめだ」
女性「あのォ―― ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか。わたし過去に好きな人と関係したことがあるのですが、私はモーだめでしょうか」
私 「そんなことはない、イエス様が罪の身の身代わりになって死んでくださったからそれで新しく生まれ変わることができる。」
女性「ああ、なるほど」
「教会は私のようなものでも行ってよいのでしょうか」
私 「初心者向きの入門講座がウィークデーの夜にでもあるはずです」
女性「ここは神戸ですが、こちらにもありますか」
私 「神戸には教会がたくさんあります」
わたしはこれで多くのことを学んだ。この女性には「私はモーだめか」という過去の過ちという罪の汚れの意識が厳然としてあった。人間はどんなに堕落してもこの汚れの身が清められたいという要求があるのだ。これ人間の尊い本能。
この悩みは、パウロの悩みであり、全人類の悩みでもあるのだ。
「私はモーだめか」という絶望の意識は正しい。なぜか。過ぎ去った過去は取り返せないからである。汚点である。汚れである。人生の「しみ」である。消せない。これだけはどうしようもないのである。「取り返しのできないことをしてしまった」のである。過ぎ去った「時」は神にも取り返せないのだ。
これに対する私の言葉。「イエス様が身代わりになって死んでくださった。それで新しく生まれ変わることができる。」という「情報(伝承)」は神学的に言えば物足りずに不備があるかもしれないが、この女性には直感的にその意味が分ったらしい。その答えが、すかさず
「ああ、なるほど」で返ってきた。
わたしはびっくりした。この「情報(伝承)」だけでわかったのか。福音は、これを受け入れる人にはどんなにまずい「説明(伝承)」の方法でも伝わるのだ。私はこれで自信が持てた。
「ああ、なるほど」・・・実に手ごたえのある返事であった。全宇宙に木霊(こだま)した。この人は確実に救われるという予感がした。
「教会は私のようなものでも行ってよいのでしょうか」・・・日本の教会(集会)は敷居が高いのか。信者でない人にこのように思われているのであったら大変だ。教会(集会)が親睦団体と同じようにサロン化している証拠だ。
生活に忙しく日曜日も働かなければならない人がいて、「教会にもいけない」そんな人がかなりいることを知っている。教会はいつでも誰にでも接することができるように開かれていなければならないのだが、・・・・・敷居が高いらしい。障害があるらしい。
「教会」という概念はこのようなときに「救いの手」「見える手」として必要なものである。それが「無」であったらどうであろう。救いを求めているこのような女性はどこへ行ったらよいのであろうか。現代の「無」教会は「見えず」、見えても「教会」よりさらに敷居が高く、かつその上に「罪の赦しの福音」である使徒伝承(十字架、有体的復活、三位一体)が希薄。イエスは教会(集会)を人為的にこの世的な方法での組織の維持構築を行おうとしなかった。学者、祭司階級、遊び人のパリサイ人たちを避けてこのように気の毒な女性に向かっていかれたのだ。(姦淫の女、サマリヤの女、罪の女、)
彼女の上に主の導きと恩恵あれ。彼女が行くかもしれないであろう神戸の教会は彼女を受け入れ導いてほしい。期待する。ある日、神戸の街角ですれ違っても私たちはお互いに知らない。それでいいのだ。それでいいのだ。彼女は使徒伝承の情報だけで救われたのだ。これが「福音はそれ自身の力で伝わる」という事実である。彼女の上に神の祝福の霊が下りますように。
2001.4.4 高橋照男
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(ホームページからの転載おわり)
D 結論。彼女を記念しなさい。福音はそれ自身の力で伝わる。
●初代教会で福音が広まったのはだれか特別に偉い人物がいたからではなく、「福音それ自身の力で広まった」(「最初三世紀の福音伝承」ダイスマン?)
●「姦淫の女」の気の毒な女性も、私が知った「通信回線宣伝の女性」も歴史に名を残さない。福音は写本ではなくこのような無名の罪人たちの口伝によって担われたにちがいない。その福音を口伝で担う人間の条件は、人格、学識、教養、教会(集会)所属、有名先生の弟子意識、ではなく、ただどうしようもない悔いの過去を持っていて自分の運命に泣いた「経験」だけが条件。
●イエスは自分の足に香油を塗った女性を指して、「彼女の出来事を記念しなさい」と言った。「姦淫の女」の物語伝承も写本ではなくこのように気の毒な無名の人々によって口伝で「記念」されていたのではないか。真理の伝承に写本は絶対ではない。今日、学者達はこの「物語」は歴史的に確実にイエスにまで遡るという。
●人は、罪の赦しの「使徒伝承」を聞くことによって神を知る。だから教会(集会)が使徒伝承を発信していなければ、人は神に出会えない。
●「使徒伝承」を受け入れて十字架の血潮で過去の罪(それは一生懸命生きようとしたが故のやむを得ざる過ち)がすっかり清められた人は身も心も清くさせられて有体的に復活させられる。恥は人間に、栄光は神に。
●電車の中で「メール」をやっているのは7割が女性。理由は淋しいので「命」の交流を求めている。しかし相手が「人間」では決して癒されない。もし相手が男性の場合は、この世的「愛」(それは偽物)にのめり込んで身も心も傷ついてボロボロになる。悲惨な状態になる。
●私が出席している「キリスト教性教育研究会」は「彼氏欲しい症候群」の女性を救出するのが目的の一つ。命の君、イエス・キリストは今生きているのだ。
●最後に讃美歌139番を義歌いたいと思います。
讃美歌139番
1. ああ 主は た が ため 世 に くだりて,
かく まで 悩み を 受け たまえる.
2. わが ため 十字架 に なやみ たもう
こよなき みめぐみ はかり がたし.
3. とが なき 神の子 とが を おおえば,
照る日 も 隠れて 闇 と なりぬ.
4. 十字架の みもと に 心 せまり,
涙に むせびて ただ ひれふす.
5. 涙も 恵み も むくい がたし,
この身を 捧ぐる ほかは あらじ.