人生を悔いる日

・・・その神の恩恵の日は必ず訪れる・・・

             東京聖書読者会 高橋照男 2008.11.2

 

 ☆悔いの言葉、悔いの態度

            ●神の赦しの先行。赦しの言葉、その行為

 

@他人と比べて自分の人生(地位、職業、家庭、健康、経済、道徳、品格)がみじめに思える日。・・・・「こんなにみじめになったのは、自分の罪のせいだ」

 

@−1 立派な人と比べて自分がみじめになった税金取り

    ☆胸を打って悔いる。

 

塚本訳ルカ 18:13

18:13 しかし税金取りは(罪に責められ、)遠く(うしろ)の方に立ったまま、目を天に向け(て祈りをささげ)ようともせず、ただ胸をうって、『神様、どうぞこの罪人のわたしをお赦しください』と言った。

 

    ●この人のほうがよしとされた

 

塚本訳 ルカ 18:14

18:14 わたしは言う、あの人でなく、この人の方が(神から)信心深いとされて、家にかえっていった。自分を高くする者は皆低くされるが、自分を低くする者は高くされるのである。」

 

@−2 税金取りザアカイ

    ☆木に登って(ひそかに、人目につかない場所で)イエスを見る。

 

塚本訳 ルカ 19:3-4

19:3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低いので、群衆のため見ることが出来なかった。

19:4 それで先の方に駈けていって、桑無花果の木に上った。そこを通られるところを見ようとしたのである。

 

    ●ザアカイ降りておいで。・・・救いは神が声をかけことに始まる。

 

塚本訳 ルカ 19:5-10

19:5 イエスはその場所に来られると、ザアカイを見上げて言われた、「ザアカイ、急いで下りておいで。きょうはあなたの家に泊まることになっているから。」

19:6 ザアカイは急いで下りてきて、喜んでお迎えした。

19:7 皆がこれを見て、イエスは(税金取りのような)罪人の所に入りこんで宿を取った、と言ってぶつぶつ呟いた。

19:8 しかしザアカイは進み出て主に言った、「主よ、わたしは(誓って)財産の半分を貧乏な人たちに施します。人からゆすり取ったものは四倍にして返します。」

19:9 イエスが(人々に)言われた、「救いは(きょう、)この家に入った。(人でなしのように言われる)この人も、やはり(あなた達と同じ)アブラハムの末だから。

19:10 人の子(わたし)は『滅びうせた者をさがして』救うために来たのである。」

 

    ●この世の宝(地位名誉、お金、人、物)は、主イエスが心の中に来て下さるときに初めて手放せる。執着心からの解放が可能になる。

 

塚本訳 マタ 19:23-26

19:23 イエスは弟子たちに言われた、「アーメン、わたしは言う、金持が天の国に入ることはむずかしい。

19:24 かさねて言う、金持が天の国に入るよりは、駱駝が針のめどを通る方がたやすい。」

19:25 これを聞いて、弟子たちは非常に驚いて言った、「ではいったい、だれが救われることが出来るのだろう。

19:26 イエスは彼らをじっと見て言われた、「これは人間には出来ないが、『神にはなんでも出来る。』」

 

塚本訳 ルカ 9:25

9:25 全世界をもうけても、自分(の命)を失ったり損したりするのでは、その人は何を得するのだろう。

 

A愛の失敗で泣く日。「あの時、あの人とさえ出会わなければ」

 

A−1 サマリヤの女

    ☆昼の一二時は人影のないとき。日陰者の自覚。神が声をかける

 

塚本訳 ヨハ 4:6-8

4:6 そこには(有名な)ヤコブの井戸があった。旅に疲れたイエスは、いきなり井戸のわきに腰をおろされた。昼の十二時ごろであった。

4:7 一人のサマリヤの女が水を汲みに来る。「飲ませてくれないか」とイエスが女に言われた。

4:8 弟子たちは食べ物を買いに、町に行っていたのである。

 

塚本訳ヨハ 4:16-18

4:16 イエスが言われる、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」

4:17 女が答えた、「わたしには夫はありません。」イエスが言われる、「『わたしには夫はありません』と言うのは、もっともだ。

4:18 五人の夫とは別れ、今のは、あなたの夫ではないのだから。あなたの言ったことは本当だ。」

 

    ●人前に出なくてもよい。「あなたと話しているわたしが、それだ」。

     エゴー・エイミ

 

塚本訳ヨハ 4:21-26

4:21 イエスが言われる、「女の人、わたし(の言葉)を信じなさい。(間もなく)あなた達が、この山でもエルサレムでもなく(どこででも、)父上を礼拝する時が来る。

4:22 ただ(同じ神を、)あなた達は知らずに礼拝し、わたし達は知って礼拝している。救いはユダヤ人から出る(のでわたし達だけに神が示された)からである。

4:23 しかし(ユダヤ人もサマリヤ人もなく、)本当の礼拝者が霊と真理とをもって父上を礼拝する時が来る。いや、今もうきている。父上もこんな礼拝者を求めておられるのである。

4:24 神は霊である。だから礼拝者も霊と真理とをもって礼拝せねばならない。」

4:25 女が言う、「キリストと言われる救世主が来ることは知っています。救世主が来れば、わたし達に何もかも知らせてくださるでしょう。」

4:26 イエスは言われる、「あなたと話しているわたしが、それだ。」

 

A−2 罪の女(遊女)

    ☆泣きながら足に油を注いだ・・・転落の人生、悔いの人生。

 

塚本訳 ルカ 7:37-38

7:37 すると、その町に一人の罪の女がいた。イエスがパリサイ人の家で食卓についておられることを知ると、香油のはいった石膏の壷を持ってきて、

7:38 泣きながら後ろからイエスの足下に進み寄り、しばし涙で御足をぬらしていたが、やがて髪の毛でそれをふき、御足に接吻して香油を塗った。

 

●あなたの罪は赦されている。・・・救いが先行している。信仰は結果。どんなにひどく複雑で難しい人でも神によれば救いは実現可能。

 

塚本訳 ルカ 7:48-50

7:48 そしてその女に言われた、「あなたの罪は赦されている。

7:49 同席の者が(憤慨して)ひそかに考えた、「罪さえ赦す(という)この人はいったい何人(なにびと)だろう。

7:50 しかしイエスは女に言われた、「あなたの信仰があなたを救った。『さよなら、平安あれ。』」

 

 

B親しさゆえの憎しみで殺意を抱いてしまった瞬間。

「心変わりが憎い!。殺してやる」

 

B−1 ユダ ・・・神はユダの反抗心を利用して人類救済の業を遂行した。

  ●イエスはユダの反抗心を察知して必死に翻意を促す。人間イエスの苦脳

 

塚本訳 マタ 26:39

26:39 そしてなお少し(奥に)進んでいって、俯けに倒れ、祈って言われた、「お父様、出来ることなら、どうかこの杯がわたしの前を通りすぎますように。しかし、わたしの願いどおりでなく、お心のとおりになればよいのです。

 

塚本訳 マタ 26:21-22

26:21 彼らが食事をしているとき、言われた、「アーメン、わたしは言う、あなた達のうちの一人が、わたしを(敵に)売ろうとしている!」

26:22 (これを聞くと)弟子たちはすっかり悲しくなって、「主よ、わたしではないでしょう!」(「わたしではないでしょう!」)と、ひとりびとりイエスに言い始めた。

 

塚本訳 ヨハ 13:26-27

13:26 イエスが(彼に)答えられる、「わたしが一きれのパンをひたして渡すその人が、それだ。」それからパンを(汁に)ひたし、イスカリオテのシモンの子ユダに渡される

13:27 ユダがそのパンを受け取(って食べ)ると、その時、悪魔がユダに入った。そこでイエスがユダに言われる、「しようとしていることをさっさとしたがよかろう。

 

塚本訳マタ 26:24

26:24 人の子(わたし)は聖書に書いてあるとおりに死んでゆく。だが人の子を売るその人は、ああかわいそうだ!生まれなかった方がよっぽど仕合わせであった。

 

    ☆罪もない人を売ってしまった悔い。心は真暗。神殿に金。首をつる。

 

塚本訳 ヨハ 13:30

13:30 ユダはパンを食べると、すぐ出て行った。夜であった。──(そとは丸い月がかがやいていたが、ユダの心は真暗であった。)

 

塚本訳 マタ 27:3-5

27:3 その時イエスを売ったユダは、イエスの判決が決まったのを見て後悔し、(受け取ったシケル)銀貨三十枚を大祭司連、長老たちに返して

27:4 「罪もない(人の)血を売って、悪いことをした」と言った。彼らが答えた、「われわれの知ったことではない。お前が自分で始末しろ!」

27:5 ユダは銀貨を宮に投げ込んで去り、行って首をくくった

 

A−2 ペテロ

    ●じっとペテロを目た目は赦しの目。☆さめざめと泣くペテロ

 

塚本訳 ルカ 22:60-62

22:60 しかしペテロは言った、「君、あなたの言っていることはわからない。」するとたちまち、まだその言葉の終らぬうちに、鶏が鳴いた。

22:61 主が振り向いて、じっとペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう(今夜)、鶏が鳴く前に、わたしを三度、知らないと言う」と言われた主の言葉を思い出し、

22:62 外に出ていって、さめざめと泣いた

 

●復活の主は最初にシモンにあらわれた。姿を表すことは赦しの徴。

 

塚本訳 ルカ 24:33-34

24:33 時を移さず二人は立ち上がってエルサレムに引き返して見ると、十一人とその仲間とが集まっていて、

24:34 「ほんとうに主は復活して、シモン(・ペテロ)に御自分を現わされた」と話してくれた。

 

塚本訳 Tコリ15:3-5

15:3 まえにわたしが(福音の)一番大切な事としてあなた達に伝えたのは、わたし自身(エルサレム集会から)受けついだのであるが、キリストが聖書(の預言)どおりにわたし達の罪のために死なれたこと、

15:4 葬られたこと、聖書どおりに三日目に復活しておられること、

15:5 またケパに、それから十二人(の弟子)に、御自分を現わされたことである。

 

 

C保身のために人を捨てる心理。・・・「あいつは俺にとって邪魔な存在だ」

 

C−1 ピラト・・・地位転落を怖がった役人根性まるだしの惜しい人間。

    ☆良心の痛みから手を洗う。責任逃れは昔も今も役人の特徴。

 

塚本訳 マタ 27:18

27:18 ピラトは人々が妬みからイエスを引き渡したことを知っていたのである。

 

塚本訳 マタ 27:24

27:24 ピラトは(自分のすることが)なんの甲斐もないばかりか、かえって騒動が起りそうなのを見て、水を取り寄せ、群衆の前で手を洗って言った「わたしはこの人の血(を流すこと)に責任をもたない。お前たちが自分で始末しろ。」

 

    ●神はピラトの妻を通じて正義を促したが、ピラトは自分に負けた

 

塚本訳 マタ 27:19

27:19 ピラトが裁判席に着いているとき、その妻が彼の所に人をやって、「その正しい人に関係しないでください。その人のおかげで、昨夜夢で散々な目にあいましたから」と言わせた。

 

C−2 パウロ

    ☆私は(正しい)信者たちを迫害しました。良心に痛みがあった。

 

塚本訳 使  22:4-5

22:4 わたしはこの(キリストの)道を迫害し、男女の別なく(信者を)しばって牢に入れ、殺すことをも辞さなかったのであります。

22:5 このことは大祭司をはじめ元老院全体も、わたしのために証人になられるにちがいない。わたしはその方々からダマスコに居る(ユダヤ教の)兄弟たちあての添書までもらって、出かけて行ったのです。そこにいる(この道の)者をも縛ってエルサレムに引いてきて、罰するためでありました。

 

塚本訳 使  8:1

8:1 サウロは(石は投げなかったが、)ステパノを殺すことに賛成であった。その日エルサレムの集会に対して大迫害がおこり、使徒たち以外(の信者)は皆、ユダヤとサマリヤとの田舎に散らばった。

 

●「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」。主が声をかけたのは赦し。

    エゴー・エイミ

 

塚本訳 使  22:6-8

22:6 ところが進んでいってダマスコに近づくと、昼ごろ、突然、天から強い光がさしてわたしのまわりに輝いた。

22:7 わたしは地べたに倒れて、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と言う声を聞いた。

22:8 わたしは答えた、『主よ、あなたはどなたですか。』わたしに言われた、『わたしだ、君が迫害しているナザレ人イエスだ。』

 

 

D親をひどく病的に嫌うようになった子供。「親父の束縛から解放されたい」

 

D−1 放蕩息子

    ☆ 神様にも親にも罪を犯しました

落ちぶれて袖に涙のかかるとき、人の心の奥ぞ知らるる。

 

塚本訳 ルカ 15:17-19

15:17 ここで(はじめて)本心に立ち返って言った。──お父さんのところでは、あんなに大勢の雇人に食べ物があり余っているのに、(息子の)このわたしは、ここで飢え死にしようとしている。……

15:18 よし、お父さんの所にかえろう、そしてこう言おう、『お父さん、わたしは天(の神様)にも、あなたにも、罪を犯しました。

15:19 もうあなたの息子と言われる資格はありません。どうか雇人なみにしてください』と。

 

    ●みなまで聞かずに首を抱いた。赦しが先行している。

 

塚本訳 ルカ 15:20-24

15:20 そして立ってその父の所へ出かけた。ところが、まだ遠く離れているのに、父は見つけて不憫に思い、駈けよって首に抱きついて接吻した。

15:21 息子は父に言った、『お父さん、わたしは天(の神様)にも、あなたにも、罪を犯しました。もうあなたの息子と言われる資格はありません。……』

15:22 しかし父は(皆まで聞かず)召使たちに言った、『急いで、一番上等の着物をもって来て着せなさい。手に指輪を、足にお靴をはかせなさい。

15:23 それから肥えた小牛を引いてきて料理しなさい。みんなで食べてお祝いをしようではないか。

15:24 このわたしの息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』そこで祝賀会が始まった。

 

D−2 親に反抗する子供

    ☆ 後で後悔した。子供はいつかは後悔する。「子を持って知る親の恩」

 

塚本訳 マタ 21:28-31

21:28 いったいあなた達はどう思うか。──ある人に二人の息子があった。長男の所に行って、『坊や、きょう葡萄畑に行って働いてくれ』と言うと、

21:29 長男は『いやです』と答えたが、あとで後悔して出かけた

21:30 つぎに次男の所に行って同じように言うと、こちらは、『お父さん、承知しました』と答えたが、行かなかった。

 

    ● 反抗している子供もいつか後悔する。

 

塚本訳マタ 21:31-32

21:31 この二人のうち、どちらが父の心を行ったのだろうか。」「もちろん長男」と彼らが答える。イエスが言われる、「アーメン、わたしは言う、税金取りや遊女たちは、あなた達よりも先に神の国に入るであろう。

21:32 そのわけは、(洗礼者)ヨハネが義の道を示しに来たのに、あなた達は彼を信ぜず、税金取りや遊女の方がかえって信じたからだ。しかしあなた達は(あの人たちが悔改めるのを)見たあとでも、後悔して彼を信じようとしなかった。

 

 

E悔い改めは人生の終わりのときでもよい。神を知ることが人生の目的だから。

 

E−1 十字架の上の強盗

 

☆俺たちはこんなことをしでかしてしまったから罰は当然だ

 

塚本訳 ルカ 23:40-42

23:40 するともう一人の者が彼をたしなめて言った、「貴様は(このお方と)同じ(恐ろしい)罰を受けていながら、それでも(まだ)神様がこわくないのか。

23:41 おれ達は自分でしたことの報いを受けるのだから当り前だが、このお方は何一つ、道にはずれたことをなさらなかったのだ。」

23:42 それから(イエスに)言った、「イエス様、こんどあなたのお国と共にお出でになる時には、どうかわたしのことを思い出してください。

 

『今日なんぢは我と偕にパラダイスに在るべし』(文語訳)

 

塚本訳 ルカ 23:43

23:43 「イエスが言われた、「アーメン、わたしは言う、(その時を待たずとも、)あなたはきょう、わたしと一しょに極楽(パラダイス)にはいることができる。」

 

 

F神は人間の悔い改めをいつまでも待って下さる。

 

   ●「もう一年だけ勘弁してくれ」。「いつかきっと」と粘って期待する心。

 

塚本訳ルカ 13:7-9

13:7 葡萄畑の作男(さくおとこ)に言った、『もう三年この方、この無花果の木に実をさがしに来ているのに、まだ実がならない。切ってくれ。(ならないばかりか、)なんで土地までくたびれさせることがあろう。』

13:8 答えて言う、『ご主人、今年もう一年だけ勘弁してやってください。今度は回りを掘って、肥料をやってみますから。

13:9 それで来年実を結べばよし、それでもだめなら、切ってください。』」

 

塚本訳 Uペテ3:8-9

3:8 愛する者よ、『主の前では』一日が千年の如く、『千年』が一『日の如く』である、この一つの事を忘れるな。

3:9 主は或る人達が遅いと考えているように約束を果たし給うのが遅いのでは(決して)ない。ただ何人の亡びることをも欲せず、凡ての者が悔い改めに到ることを欲して、君達に対し寛大であり給うのである

Gダ・ビンチ「最後の晩餐」の鑑賞方法。バッハ、マタイ受難曲で見る。

     インターネット ブログより。081018(土)

バッハ(1685-1750)のマタイ受難曲、最後の晩餐のクライマックス。イエス(独唱)が「この中に私を売るものがいる」と言い放つと、弟子たちはユダを除いて全員(コーラス)が「まさか、この私とでも?」と不安な声。次が有名なP・ゲルハルトの受難コラール(讃美歌)「われなり、われこそ贖いに、両手両足を縛(いまし)められ、陰府(よみ)の業火に焼かるべきなり!、鞭と縄目、そのほか汝の耐えたまいし受難の数々、そはわが魂の浮くべき報いぞ」(杉山好訳)。コラールは,ルター派教会では会衆全員が歌うそうである。つまりここでは会衆が「それはこの私です」と呼応合唱するのである。これは涙なくして聞けない。なおマタイ受難曲でのコラールは13回。この部分を3種類のCDで鑑賞して3回とも袖で涙をぬぐった。

@カール・リヒター+ミュンヘンバッハ合唱団と管弦楽団+ミュンヘン少年聖歌隊(1958年+不朽の名演。リヒターはバッハに打ち込んだために家庭なし) Aニコラウス・アーノンクール+ウィーンコンツェントゥス・ムジクス+ケンブリッジ・キングズ・カレッジ合唱団+レーゲンスブルグ大聖堂少年聖歌隊+ウィーン少年合唱隊員(ソプラノ)1970) B鈴木雅明+バッハコエレギウム・ジャパン(我が国でこれだけの演奏ができるとは快挙)

11月7日にミラノに行ってこの最後の晩餐を鑑賞する。レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)はイエスが「この中に私を売ろうとしているものがいる」と言ったとき、弟子たちが「まさか、この私とでも?」とざわめいたその瞬間を描いたのだ。この絵は「主よ、それはこの私です」と呟きながら信仰的に鑑賞しなければならない。

 

イエス「この中に私を売ろうとしている者がいる」

弟子たち「主よ、まさか、私ではないでしょう?」

絵画鑑賞者「主よ、それはこの私です。私こそ再びあなたを十字架につけようとしているのです」

inserted by FC2 system