死は有体的復活への門

2009.10.4 東京聖書読者会 高橋照男

 

@ 死は有体的復活への門

A 有体的復活の体は建物に譬えられる

B 塚本虎二先生の「有体的復活」観

C 有体的復活を信ずる人から応答がある不思議

D 薄幸な青年に告ぐ。「有体的復活がある」

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@ 死は有体的復活への

 

塚本訳 ヨハ 10:9

10:9 (また、)わたしが(羊の出入りするための)である。わたしを通って入る者(羊)は救われる。(いつもこのを)入ったり出たりして、牧草を得るであろう。

 

●関連引照

塚本訳 ヨハ 14:6

14:6 イエスは言われる、「わたしがである。また真理であり、である。(手段であると同時に目的であるから。)わたしを通らずには、だれも父上の所に行くことはできない。

 

塚本訳 使  4:12

4:12 この方のほかのだれによっても救いはない。天下ひろしといえども、わたし達が救われるべき名はこれ以外、人間に与えられていないからです。」

 

塚本訳 マタ 7:13-14

7:13 狭いから入りなさい。滅びに至る道は大きく、かつ広く、ここから入る者が多いのだから。

7:14 命にいたるはなんと狭く、道は細く、それを見つける者の少ないことであろう!

 

塚本訳 ヨハ 10:2-4

10:2 を通っ入る者が、(ほんとうの)羊飼である。

10:3 羊飼には番が(を)あけてやり、羊はその声を聞き分ける。羊飼は一匹一匹、自分の羊の名を呼んで(檻から)つれだし、

10:4 自分の羊を皆出すと、その先に立って歩く。羊はその声を知っているので、あとについて行く。

 

塚本訳 ヨハ 10:7-8

10:7 そこでイエスはまた話された、「アーメン、アーメン、わたしは言う、わたしが羊へのである。(羊飼はわたしを通らずに、羊に近づくことはできない。)

10:8 (わたしより)前に来た者は皆(羊飼でなく、)泥坊であり、強盗である。羊は彼らの言うことを聞かなかった。

 

塚本訳 黙  21:24-25

21:24 諸国の民はその光の中を歩むであろう。また地の王達は彼らの(有つ凡ての)光栄をここに持って来る。

21:25 そのは一日中決して閉ざされないであろう、其処には夜が無いのである。

 

塚本訳 黙  3:20

3:20 視よ、私は(お前の家の)戸の前に立って叩いている(ではないか)。もし私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私はそこに入って彼と一緒に、彼はまた私と一緒に食事をするであろう。

 

 

A 有体的復活の体は建物に譬えられる

 

新共同 Tコリ3:16-17

3:16 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。

3:17 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。

 

新共同 Tコリ6:19

6:19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。

 

新共同 Uコリ6:16

6:16 神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。

 

新共同 ヨハ 2:19-21

2:19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」

2:20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。

2:21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。

 

新共同 Tコリ6:14-15

6:14 神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。

6:15 あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。

 

塚本訳ヨハ 11:11

11:11 こう話して、またそのあとで言われる、「わたし達の友人ラザロが眠った。目をさましに行ってやろう。」

 

塚本訳 コロ 3:3-4

3:3 君達は(既にこの世に)死んで、その生命はキリストと共に神の右に隠されているのだから。

3:4 (しかし今でこそ隠されているが、)私達の生命であるキリストが顯れ給う時には、君達もまた彼と共に栄光の裡に顯れるであろう

 

塚本訳 Tコリ15:20

15:20 しかしながら今、キリストは死人の中から復活しておられる、眠った者の(復活の)最初として。

 

塚本訳 Tコリ15:35-36

15:35 しかし、ある人は言うかも知れない、(かりに復活があるとしても、)どんな風にして死人が復活するのか、どんな体で来るのかと。

15:36 訳のわからない人!あなたがまくものは、死ななければ生かされないのだ。

 

塚本訳 Tコリ15:42

15:42 死人の復活もこのようである。(一つの体が死んで別の体が生まれる。)死滅の姿でまかれて不滅の姿に復活する

 

新共同 Tコリ15:44

15:44 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。

 

塚本訳 ヨハ 12:24

12:24 アーメン、アーメン、わたしは言う、一粒の麦は、地に落ちて死なねば、いつまでもただの一粒である。しかし死ねば、多くの実を結ぶ。(だからわたしは命をすてる。)

 

塚本訳 Tコリ15:51-55

15:51 いまここに(最後の日の)秘密を語る。わたし達はみんな眠ってしまうのではなく、(その時生きている者も眠った者も、)みんな変化させられるのである。

15:52 あっと言う間に、瞬く間に、最後のラッパの音で!ラッパが鳴る。すると死人は不滅のものに復活し、(その時生きている)わたし達は変化させられるのである。

15:53 (というのは、神の国に入るためには、)この死滅すべきものが不滅を着、この死ぬべきものが不死のものを着ねばならないからである

15:54 そしてこの死滅すべきものが不滅を着、この死ぬべきものが不死のものを着たら、その時(聖書に)書いてある言葉が実現する。『死は(神の)勝利に飲みこまれてしまった。』

15:55 『死よ、どこに、お前の勝利は。死よ、どこに、お前の剣は』。

 

●全被造物は、即ち不信者も最後にはついに復活再生する。Tコリ15:24のテロスは普通「終わりが来る」と訳されるが塚本訳は「残りの人たちが」である。

 

塚本訳 Tコリ15:23-26

15:23 ただ(それには順序がある。)ひとりびとりが自分の(属する)組の番の時に(復活する。)最初は(すでに)キリストが、その次に、キリストの来臨の時にキリストのものである人たちが、

15:24 それから(最後に)残りの人たちが。この時、キリストはすべての支配(天使)、すべての権威(天使)と権力(天使)とを滅ぼした後、神にして父なるお方にその王国を引き渡される。

15:25 彼はすべての『敵を(征服して)足の下に置く』(まで、地上に)王であらねばならないからである。

15:26 最後の敵として、死が滅ぼされる

 

塚本訳 ロマ 8:21

8:21 創造物自身も、滅亡の奴隷になっている(現在の)状態から自由にされて、神の子供たちがうける栄光と自由とにあずかるのだから。

 

 

B 塚本虎二先生の「有体的復活」観

 

聖書知識17号 昭和6年(1931)5月 P8 復活信仰の困難

 

復活の信仰、特に有体的復活の信仰は、ほとんど今日のキリスト教会から消え失せた。死んだ信仰箇条としては、問答書の中に之を保存せる教会もあるであろう。しかし、生きたる復活の信仰を我等はどこに探し求むできであるか。古代教会に於ては、この復活信仰こそ教会の礎石であり、信者の唯一の希望であった。

 

聖書知識231号 昭和24年(1949)7月 P6-8

イエス伝研究232講 有体的復活 ルカ伝24章36−43節 

 

〇この記事がここにあったかどうかの問題は判明しないが、もしその史実を否定するならば、復活記事の大部分を聖書から切取らなければならない。魚を食べることが可笑しければ、パンをさくこともおかしく、空気を振動させて語ることもおかしく、そもそも人の目に見えるような形をもつことが可笑しい。結局復活記事は墓が空虚であったことだけになるであろう。・・・・・・・・・・

〇問題はそれよりも、そんな存在がどうして肉や骨をもち、また食事などが出来るかということである。この点については、パウロが極めて合理的なまた詳細な説明を試みている(第一コリント1535以下)。彼は復活体なるもののあることを主張して、同じ肉でも人の肉、獣の肉、魚鳥の肉があるように、天的存在物には天的の「霊の体」があるという。ただそれがどんなものであるかは誰にも説明出来ない。聖書に記す復活のイエスによってこれを知る外はない。すなわち彼には肉と骨があり、これに触ることが出来、また人の見ている前で食事さえすることができる。大体生前と同じような顔付や、丈の高さ、体の格好であり、手足の疵(きず)まで依然としてもとのようであるらしい。しかも生前と異なり、彼は肉的の存在がうける時間空間等のすべての制約を受けず自由に行動し、またその形体の変更が出来るらしい。彼はただ認めさせようと思うときだけ認められ、去来を悟られることなく、あるいは消え、あるいは現れる。これはツァーンの註解に言う所であるが、大体当たっているように思われる。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

体的復活を信じ得なければクリスチャンならずということは出来ない。しかし単なる霊的の復活は聖書の説かないところであり、また実際問題としてかかる信仰は極めて力に乏しい。今日一般にキリスト教に力がないのは、初代教会に於けるような体的復活体的再臨の信仰がぼけて来たからである。私達は初代教会の信仰を嘲るまえに、科学の進歩を誇る現代クリスチャンの信仰の何とラオデキヤ的であるかを省る必要があろう。

 

聖書知識308号 昭和30年(1955)12月 P20

雑感雑録 1113日(日)

 

丸の内では偶然出席された好本督(ただす)氏に乞うて簡単な話をしてもらった。時間は短くあったが、ビリ・グラハムの大伝道など最近英国の基督教事情、点字聖書では日本が世界をリードしていること、聖書勉強の必要等に就いて、有益な話であった。何か英国へのお土産をとのことで、東京の真中に、三十年来処女懐胎から復活再臨までの正統信仰を文字通り説き続けているコチコチの日曜集会があること、その会員の半数近くがギリシャ語を知っていることを、伝えてもらいたいと話した。

 

C 有体的復活を信ずる人から応答がある不思議

ブログより転載(一部変更加筆)

090909(水)4時目覚め。「WEB黒崎」の作成同労者にメール。内容は公的なことなので公開する。

「〇〇様 

私は10年ぐらい前に「空の墓」は史実か?。という勉強をかなり突っ込んでいたしました。数十冊の本を読みましたが、「史実」だとする見解の本を読んだとき、急に胸が熱くなり、「有体的復活」を信じられるようになった経験をしました。その「史実だ!」とする人の代表の一人が黒崎でした。あれだけ新しい学問をやっていた黒崎にして「墓が空であったというのは史実である」との認識。私はここに学問と信仰の麗しき調和を感じました。塚本も同じです。」

 

 090912(土)

ブログ9月9日に対してうれしい応答が入っていたので公開する

(応答の言葉)

「ブログ愛読させて頂いております。
「WEB黒崎」作成の労に感謝致します。私の教会の牧師先生が黒崎註解を1 冊お持ちで、拝見させて頂きましたが、非常に文字が小さく読みづらい。このように利用しやすい形にして頂いて、本当に有難いです。
有体的復活は福音の要です。
これを言わなければ何も言わないに等しい。
どうか主が・・・・・のお働きをお用いくださいますように。」
 
(応答の言葉終わり)

それにしても「有体的復活」の信仰には心ある人の「応答」がときどきある。これが私に自信を持たせる。どこの誰ともわからない。「御心にかなう人々」(ルカ214)であることは確か。「琴線に触れる」とはこのことだ。この方たちと勢力を作ろうとは思わない。ただ天の国で結ばれているのだ。

090918(金)4時目覚め。朝風呂で黙想有体的復活」を信じる「不思議なる仲間」●この仲間は物理的に近くない。地域限定ではない。先生限定ではない。人数は極めて少ない。この世の姿がわからない。逢った事もない人がいる。その職業、地位、家庭、前歴、学歴、姿形、持病、経済、所属教派を知らない。おそらくこの世的にはかなり「みじめ」。これを「有体的復活信者」の仲間、(有体的復活を信じる仲間)と呼ぶ。この方たちは、不思議に有体的復活の信仰告白を御連絡下さる。これは実に不思議なる現象である。初代キリスト教徒(それは有体的復活の信者)がこの世のローマ帝国の迫害に遭ってライオンの餌食にされるとき、震えながら抱き合っていた。しかしその平安な死顔をみたネロは叫ぶ「何だこの安らかな顔は!」と。(映画「クウォヴァディス」)。彼らは「有体的復活」を固く信じていたので安らかな死顔であったのだ。彼らは次の世での有体的復活が確実にあると信じていたのだ。神の恩恵によって、出よ!「有体的復活信者」。物理的には会えない。勢力は作らない。仲間の人数を増やさなくても満足。有体的復活を固く信じて心で抱き合い、どんな苦難や迫害に遭っても励まし合って生き抜き、死のうではないか。不信者に向かって「有体的復活を信じなければならない」と言っても効果はない。それは神の恩恵によって与えられるものであって、勉強や努力では得られないものだからだ。

塚本訳Tコリ2:14

2:14 しかし(御霊を持たない)生まれながらの人間は、神の霊から出てくることを受け入れない。彼にはそれが馬鹿なことなのである。またそれを理解することも出来ない。(霊のことは)霊的に判断されねばならないからである。

090921(月)3時半起床。朝の黙想「有体的復活の使徒伝承の連鎖反応」が教会の本質。黄泉の門[死の力]もこれを壊すことはできない。有体的復活」の言葉には少数ではあるが各地から「アーメン」との呼応がある。これは実に不思議な現象である。これで自信を得た。むずかしい頭だけの教会論ではなく、理屈抜きにここに「教会の本質」を見る。この関係は死もこれを壊さないという感じがする。聖書的根拠が浮かぶのは次の通りである。

塚本訳 ロマ 8:39
8:39
高い所のものでも低い所のものでも、その他どんな創造物でも、わたし達の主キリスト・イエスによる神の愛から、わたし達を引き離すことはできない。

有体的復活」の使徒伝承なき教会、集会は何にその存在意義を求めているか。それは思想、運動、社会批判、娯楽、音楽、建物、組織、同好会、人物、・・・・キリストのエクレシアはメンバーの老齢化で消滅するものであろうか。メンバーの老齢化が進んでも「有体的復活」の使徒伝承の連鎖は滅んではならない。このことをスイスの神学者エミール・ブルンナーに見てみよう

(以下1998教文館・ブルンナー著作集第4巻・近藤勝彦、大村修文訳の引用)

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新約聖書のエクレシアの理念によって規定されている全く固有の現象は、日本における無教会、つまりキリスト教的な非教会運動である。(運動という捉え方が間違っている・・・高橋註)・・・・それは組織としては最小限のままにあり続け、個々の集会の組織的関連はなく、伝統的な形態での洗礼も聖餐もない。ただ霊に満たされた指導者によって生き生きと解釈された聖書の言葉だけが、エクレシアの根拠として承認される。連続性を保証するためのいかなる準備対策も存在しない。・・・無教会の人々が彼らの中に新約聖書的なエクレシアがその日本的形態を取ったと考えることは理解できる。確かにここには教会形成についてついては非常にわずかしか痕跡を残していない。組織は全く神学者ではないがしかし根本的に聖書に通じその解釈者である個々の指導者たちの権威、誰でも認めている霊的な権威の中に存在している。この運動の存続はどのように守られるかという問いを投げかけるならば、答えはこうである。それについては神が心配してくださるであろう。これまでもそうなさったように。個々のグループがただ完全に自立的であるだけでなく、組織的関連のないままにそうである限り、教会化の危険はわずかであり、即自的に存在する荒廃と分裂の危機も今までのところ現れて来ていない(P157・・・・ブルンナーは本書を1960年に執筆。残念ながらその後無教会の実態は変わった・・・高橋註)

日本の無教会運動のような形成物でさえ、非常に実り豊かな奉仕が認められ得るであろう。というのは、そこでもまたあの一人の救済者の使信が中心をなしているからである。(P173)

(以下高橋註・・・・ところが現代の無教会は「救済者の使信が中心」ではなくなってきている。これが衰退の原因であると私は思う。有体的復活を伝承していない教会や無教会集会は「救いの」を開いていないから救いの道を閉ざしている大罪悪を犯している。

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1998教文館・ブルンナー著作集第4巻 引用終わり。

090928(火)●クリスチャンならだれでも同じだというわけではない。吟味して付きあわなければならない。特に使徒伝承である有体的復活を信じない信者とは仲良くしてはいけない。次の塚本訳の敷衍は激しい。ここでいう「復活の信仰」とは当然のことながら「有体的復活」のこと。

 

塚本訳Tコリ15:33

15:33 迷わされてはならない。(復活の信仰のない人との交際に注意せよ。)悪い交際は良い習慣をこわす。(と詩人も言っている。)

 

●キリスト教各派が持つ「信条」は無教会者にとっては窮屈、不自由なものである。無教会はこれを嫌って「文字になった正統信仰」を排除してきたが、たらいの湯を流すときに最も大切な有体的復活(Tコリ15:3-5)という赤子まで流してしまうという「愚」をやってしまった。●教会は教勢を気にし、無教会集会が信仰抜きで仲良しクラブの維持継続に汲々としているのは、人間が本来持っている「勢力拡大支配欲」の罪。神の国は人間の勢力欲によってはもたらされない。神の国は「一粒の麦の犠牲」によってもたらされる。●「無教会」を「無境界」と読み替える人が多くなったが、こういう人の信仰は決まって「有体的復活の信仰でなくてもよい」などと信仰がぼやけて堕落しているから付き合ってはならない。(上記塚本訳Tコリ15:33の敷衍を見よ)。また不品行な信者とは交際するなとある。なぜか。それは大体において有体的復活を信じていないからである。(上記Tコリ15:33)。

091001(木)4時15分目覚め。朝の黙想「有体的復活信仰は霊魂不滅信仰ではない」有体的復活」を信じる信者仲間は確実にいる。物理的には近くないし、その人の過去環境経歴は詳細には分からないが確実にこの世に実在する。その人の中ですでに召された方もいるが、その方は眠っているだけであってどうしても死んだとは思えない。理論でなく実感である。『黄泉の門[死の力]もこれに勝つことはできない』(マタ1618)とはこのことだ。

塚本訳 マタ 16:18
16:18
それでわたしもあなたに言おう。──あなたはペテロ[岩]、わたしはこの岩の上に、わたしの集会を建てる。黄泉の門[死の力]もこれに勝つことはできない

人間の関係ではこれが最強、血縁以上。これがエクレシアの本質(マタ1618ところが日本は仏教思想の影響で、キリスト教の本質である「有体的復活」の信仰が霊魂不滅思想という異教の湿地帯に足を取られてはっきりしなくなった●日本にキリスト教が根を下ろさないのは、この湿地帯のために根が腐ってしまっているからだと私は思う。●キリスト教の最大の敵はグノーシス主義であった。ヨハネ書簡はそれとの戦いであった。グノーシス主義も湿地帯であった。●キリスト教徒の間でも交わされる次の言葉はその異教湿地帯思想の片鱗である。「死んだら神の所に(自動的に)行く」「死ねば先に逝った人(夫、妻、子供)と(自動的に)天国で会える」「安らかに(永久に)眠ってください」・・・・これは「有体的復活」の希望なき信者の思い。そこに復活の希望の喜びはない。「実際問題としてかかる信仰は極めて力に乏しい」(塚本虎二著「聖書知識」231号昭和24年7月、P8)。●死ねば全員「ホトケ」になるという仏教思想や、魂は肉体から抜け出るというギリシャの霊魂不滅思想やグノーシス主義と似たり寄ったり、五十歩百歩である。これは非常に分かり易い。しっくりする。しかし復活の福音はそうではない。信者は死んでも神の力で有体的に復活するのだ。罪が清められて復活し、天使のようになるのだ。

塚本訳 マコ 12:23-25
12:23
(もし復活があるなら、)人が復活する復活の折には、この女はその(七人の)うちのだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしましたから。」
12:24
イエスは言われた、「あなた達は聖書も神の力も知らないから、そんな間違いをしているのではないか。
12:25
死人の中から復活する時には、めとることもなく嫁ぐこともなく、ちょうど天の使のようである。

●子孫を残したいという願望も肉としての人間が永遠に生きたいという望みの表れである。天使は子供を産まない。なぜか。永遠に生きるものだから。このことは次の塚本訳の敷衍で明快。

塚本訳 ルカ 20:36

20:36 復活によって生まれる彼らは、天使と同じであり、神の子であるので、もはや死ぬことが出来ない、(従って子を産む必要がない)からである

もし、イエスが日本のキリスト教徒の死生観や復活観を知ったら次のように言うに違いない。「あなた達は聖書も神の力も知らないから、そんな間違いをしているのではないか。」(マコ1224)と。 復活の体は神の力によって全く変質されるのだ。

 

D 薄幸な青年に告ぐ。「有体的復活がある」

090930(水)4時半目覚め。昨日、電話懇談した青年は、今まで出会った青年の中で最高に不幸な人である。一人息子であるが、御両親には先立たれ、天涯孤独。それに重い病が二つも重なっている。幸い御両親が残された不動産があるのでその収入で生活はできるものの、なんともまー不幸である。彼を援助するにはどうすればよいのか。それを黙想する。

塚本訳  使  3:2-6
 3:2
(ちょうどその時、)母の胎内からの足なえの男がかつがれて来た。彼は宮に入る人たちに施しを乞うため、宮の、いわゆる「美しい門」に毎日置かれたが、
3:3
(いま)ペテロとヨハネとが宮に入って行くところを見て、しきりに施しをもらいたいと頼んだ。
3:4
ペテロは、ヨハネと一緒に、その人に目をとめて言った、「わたし達(の顔)を見なさい。」
3:5
彼が何かもらうことを予期して二人を見つめていると、
3:6
ペテロが言った、「金銀は持っていない。わたしの持っているもの、それをやろう。──ナザレ人イエス・キリストの名で歩きなさい!

金銭的に援助しようにも年金暮らしのこの身では十分な援助はできない。医療の能力はないので病気を直せない。奇跡をおこせない。しかし一つ言える。

「金銀我になし。されど有体的復活の希望の喜びを君に伝承する。これは2千年来の使徒伝承だ。ただ伝えっ放しにする。信じるかどうかは君次第だ。」

この「母の胎内からの足なえ」は肉体の病は直ったが、いずれは「死ぬ」。死という大不幸が襲ってくる。だから彼にとっては歩けるようになっても人間として真の幸福には至らない。人間として根本的な幸福は「永遠の生命、有体的復活」の希望と、その保証としての聖霊を頂くことである。(Uコリ122これ現実逃避ではない。この世的幸福が充足してもそれが真の幸福ではないのだ。祈る、昨日の薄幸な青年が、この世での不幸を通じて本当の命、本当の幸福を得られることを。その時彼は言うであろう。「自分はこの世では不幸であったが、それは真の幸福を知るために必要であった」と。●君にそういう日が来ることを祈る。自殺してはいけない。「有体的復活がある!」

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