「何故キリスト教徒になったのですか」

今井館ウィークデーの集い「若者と語るシンポジウム」(2007.2.25)での発言に補足執筆

高橋照男 2007.3.5

 

懇談の時間に真面目そうな一青年から「(皆さんは)何故キリスト教徒になったのですか」という質問が出た。これに対して私は概略つぎのように答えた。「今の質問はよい質問です。しかしある人がキリスト教に入った場合、振り返ってその理由を人に語るとき『何故』ということでは答えにくい。『如何に』ということなら語ることができる。入信のプロセスは百人百様であるが、ただ共通点はある。それは『人物』との出会いである」と。そしてこの私の発言に続いて二人の方から「私はは如何にしてキリスト教徒になったか」の話があった。

シンポジウム終了後から一週間「私の答えはあれでよかったのかなー」と反省しきりである。なぜか。あの真面目な青年の問いを「いなした」答えになってしまったのではないだろうか、と思うからである。

 キリスト教ニ千年、こういう真摯な問いに如何に答えるかが教会の苦闘の歴史であった。そこで工夫されたのが「信仰問答集」であった。そもそもイエスの多くの言葉も実は弟子たちの問いに対する答えが多い。いわば問答である。信仰の真理は「問答」で伝わる。

 翻って、無教会主義はこれにどう答えてきたか。信仰は「不立文字」(禅宗の立場を示す標語で、「悟りは文字や言説では伝えられず、心から心へ伝えるものである」ということ)であるという雰囲気で、「何故」に対する応答に積極的でなかった嫌いがあった。会の終了後、彼と言葉を交わしたが、今は「ミサ曲」の合唱メンバーであるという。無教会は「何故」に対する応答の知的努力、信仰の表現としての芸術(音楽、絵画、建築など)にきわめて無知無関心であったのではないか。これでは「若いものに対する言葉」のない、不親切な無教会ではないだろうか。もとより救いは「知や芸術」で得られることではない。しかし肉で生きているうちは何らかの「肉の手段」が信仰への「きっかけ」として必要ではないだろうか。今回のシンポジウムのあの青年の質問は私に大きな課題を残した。人間の力には限界がある。救いは神ご自身の霊の働きである。祈る。神があの真面目な青年に「人物」を遣わして彼に「永遠の生命」への道を開いてくださることを。彼の上にいつか神の恩恵が下ることを。

(今井館ウィークデーの集い「女の視点で語る」寄稿)

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