人間、この有限なる者としての悩み悲しみ

・・・・有体的復活の使徒伝承に連なる喜び・・・・

                  安達太良聖書集会 2008.7.27  高橋照男

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@  人間、この有限なる者としての悩み悲しみ。それは嘆きの河があふれる時。

A  人間は死の悲しみや淋しさをどのように克服しようとしてきたか。

B  私の事件。天からの力、胸が熱くなった事実。救いは外部から来た。

C  私に有体的復活の信仰が定着させられた「今の時」の苦しみ。

D  死の悲しみと淋しさ。有体的復活の「使徒伝承」を受け入れる道がある。

E  死とは神が出迎えに来てくださること。キリスト教では「召される」という。

F  死は眠り。終末、再臨の日に神の力で有体的に復活させられる。

G  有体的復活の共鳴者。使徒伝承に連なる喜び。

H  墓から呼び出される復活の朝。「また会う日まで」

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@人間、この有限なる者としての悩み悲しみ。それは嘆きの河があふれる時。

●人間、この有限なるものとしての根本的な悲しみ。それは「時」に対する無力。とりもどせない過去、犯した失敗や罪は消えない。神にも人にも記憶される。生涯の悩みと重荷。呵責、自責の念、懊悩、自殺願望。しかし神は十字架の贖罪により新しく生まれ変わることを通して人生の過去を消してくださる。

塚本訳 Uコリ5:17

5:17 だから、キリストと結びついている者は、新しい創造物である。古いものは消え失せて、いまここに、新しくなってしまっている!

わからない死後の悲しみ。ハイデッガーの言葉。「人生とは死という壁に向かって歩む旅である。しかし多くの人は『それは自分にとっては遠い先のことだ』と思っている」。子供達に死の悲しみを味あわせなければならない悲しみ。死の悲しみはどういう時に襲ってくるのか。(楽しいことがあった日の夜、淋しい夕暮れ、冬、木枯らしの吹く日、大犬座のシリウスを見るとき、残りの年数を思うとき、宇宙はこの私を忘れてしまうのだと思うとき、親族にも3代先には忘れられる。癌の宣告を受けたとき。親しい人の死、肉親の死、特に母の死。聖書の事例の数々。ナインの若者(ルカ710-15)、ラザロの姉妹(ヨハ111-45)、ラマの泣き声(マタ216-18)。老いの悲しさ、淋しさ、辛さ。

「幾山河越えさり行かば寂しさの、終(は)てなむ国ぞ今日も旅ゆく」       若山牧水

塚本訳ルカ 7:12                          7:12 町の門の近くに来られると、ちょうど、ある独り息子が死んで、(棺が)舁(か)き出されるところであった。母は寡婦であった。町の人が大勢その母に付添っていた。

A 人間は死の悲しみや淋しさをどのように克服しようとしてきたか。

 ●思いっきり泣く。号泣する。「○○のバカヤロー」と10回程度叫ぶ。悲しい音楽を聴く(チャイコフスキー、千の風になって)。バッハの悲しい曲(2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調第2楽章)。同質の原理(日野原重明)。あきらめる(誰だって死ぬんだ)。諦念の文学。人間(異性や仲間)の愛に走る。宗教の団体に走る。哲学に走る(死の哲学、デーケン)。霊魂不滅思想(ギリシャ哲学)。輪廻転生(仏教、良寛、葉っぱのフレディ)。

「裏を見せ、表を見せて散るもみじ」・・・ 良寛

●いろいろな幸福「論」、人生「論」を読む。しかしそれは大脳皮質の行為。旧約聖書に共鳴する(ヨブ記14章1節、詩篇90篇9〜10節)。

新共同 ヨブ 14:1

14:1 人は女から生まれ、人生は短く/苦しみは絶えない。

 

口語訳 詩  90:9-10

90:9 われらのすべての日は、あなたの怒りによって過ぎ去り、われらの年の尽きるのは、ひと息のようです

90:10 われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです

●叙情歌に浸ってオイオイ泣く(カールブッセ、「山のあなた」)。

山のあなた カール・ブッセ 上田敏訳 「海潮音」より

  山のあなたの空遠く
  「(さいはひ)」住むと人のいふ。
  噫(   ああ)、われひとと()めゆきて、
  涙さしぐみ、かへりきぬ。
  山のあなたになほ遠く
  「(さいはひ)」住むと人のいふ。

●飲んで騒ぐ。遊んで騒ぐ(歌、遊びのサークル、同好会、習い事、ダンス、ゴルフ)。スポーツに興じて疲れて早く寝る。しかし何をやっても満足しないことを自覚する日がいつかは来る。「行き詰る。長続きしない」という現象。ヒルティ「倫理的世界秩序」。永遠の生命を獲得しようとした不撓不屈の努力(ミイラ、秦の始皇帝の兵馬俑(へいばよう)、4大文明は永遠に生きようとする人間の幸福追求の跡。生物はみな「死ぬまい、死ぬまい」と努力している。医学の延命処置。不老長寿の薬(アガリスク)。ホスピスの方針は自然に生き、自然に死ぬこと。しかしそれでも心の満足はない。「大往生」に喜びはない。

塚本訳 ロマ 8:22

8:22 わたし達が知っているように、全創造物は(かの日から)今まで、
一しょになって呻き、一しょになって産みの苦しみをしている。(父なる神がこの 呻きに耳を傾けられないことがあろうか。)

B 私の事件。天からの力、胸が熱くなった事実。救いは外部から来た。

1997年春、私は東京聖書読者会でそれまで10年間ヨハネ福音書を講読してきたが、第20章8節「空の墓」の個所にさしかかったときのことである。これは聖者伝説の一種で神話であり、史実ではないとする近代聖書学の旗手たちの学説を読むと頭がすっきりした。しかし胸は熱くならなかった。ところが一方それを史実と信じている人々の本を読んだときには胸が熱くなった。私の胸を熱くした人はカトリック、プロテスタント、無教会に限らないが、無教会に限って言えば2代目までには多いがそれ以後は少なくなっていることは新しい発見であった。忘れえぬ事件だった。パウロは体験の告知を繰り返した。この原体験が私にとっての復活そして使徒伝承さらには再臨信仰への開眼の起点となった。胸が熱くなったが故に一瞬に見えたものがあるからである。それは

1 空の墓は歴史的事実であること。(神の救いは歴史内に突入した)
2 それは罪の赦しと永遠の生命の実在の証拠であること。(理性の安息)
3 その信仰告白は地上で(歴史的に)連鎖的につながりついにこの私にまで  
  到達した。(使徒伝承の意義、キリストの体なるエクレシア、教会、集会、)

このことである。この3つの開眼はひとえに「胸が熱くなった」ことが原因であるが、胸が熱くなることによって聖書の真理が分かると言うことはルカ24章31〜32節、エマオ途上の2人の事件が補強する。

塚本訳 ルカ 24:31-32

24:31 (その時)二人の目が開けて、その方とはっきりわかった。すると(また)その姿が見えなくなった。

24:32 二人は語り合うのであった、「(そう言えば、)道々わたし達に話をされたり、聖書を説き明かされたりした時に、胸の中が熱くなったではないか」と。

●復活体は写真に写ったか。写らない(レンブラント「エマオの晩餐」。パリ、ジャックマールアンドレ美術館蔵)。顕現物語の背後にある不思議な事実。パウロのエルサレム訪問は同一体験の確認行為。有体的復活を語ると、胸が熱くなる人や共鳴者が全国的に出現する不思議な現象。沖縄、福島、東京。新幹線の車中にまで電話が来た。荒井献、佐藤研氏との往復書簡。わが名によりて2〜3人集まるところ(マタイ1820)」の意味。パウロの信仰はエルサレム教会の伝承に土台を置いている(1コリ15:3)。復活は神が起こしたもうこと。the Resurrection(キリストの復活)<resurrect(復活させる)。これは外部からの力。われわれの復活の信仰もまた神に起こされる。啓示は向こうからやってくる。有体的復活のいわゆる史実ではない不思議な事実が信仰と理性の安息。新約聖書に多い「不思議」と言う言葉。イエスの言動や奇跡に民衆が「驚いた」ということは動かしがたい歴史的事実といわれる。「陀様の本願」だけの仏教との違い。京都大原三千院での質問。無教会のグノーシス化。岩下壮一。

 

塚本訳 ルカ 7:13-15

7:13 主は母を見て不憫に思い、「そんなに泣くでない」と言って、

7:14 近寄って棺に手をかけ──担いでいる者は立ち止まった──「若者よ、あなたに言う、起きよ!」と言われた。

7:15 すると死人が起き上がって物を言い出した。イエスは『彼を母に渡された。』

 

塚本訳 ヨハ 11:43-44

11:43 こう言ったのち、大声で、「ラザロ、出て来い」と叫ばれた。

11:44 死人が手足を包帯で巻かれたまま、(墓から)出てきた。顔は手拭で包まれていた。イエスは「解いてやって(家に)帰らせなさい」と人々に言われた。

 

塚本訳 ヨハ 20:6-9

20:6 続いてシモン・ペテロも来た。彼は墓に入り、亜麻布が(そのままそこに)あるのを見た。

20:7 また頭をつつんだ手拭は亜麻布と一しょになく、これだけ別の所に、包んだまま(の形)になっていた。

20:8 すると先に墓に着いたもう一人の弟子も入ってきて、見て、信じた

20:9 イエスは死人の中から復活されねばならないという聖書の言葉が、(この時まで)まだ彼らにわかっていなかったのである。

 

口語訳 ロマ 1:4

1:4 聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。

 

C 私に有体的復活の信仰が定着させられた「今の時」の苦しみ。

●家屋の全焼・・・・天国の家は焼けないとの認識。

●脳内出血・・・・・蘇生。この命は100%(99%でない)神に握られているとの認識。

●母の死・・・・・・神は信仰告白なき人も救うという認識

●胃癌疑惑・・・・・祈りの輪。コイノニアの実感。「胸の熱さ」により死の恐怖がやわらぐ。「死ぬ時もこのようだったら楽だなー」という思いがした経験。

文語訳 ロマ 8:18

8:18 われ思うに、今の時の苦難(くるしみ)は、われらの上に顯れんとする榮光にくらぶるに足らず。

 

D 死の悲しみと淋しさ。有体的復活の「使徒伝承」を受け入れる道がある。

●有体的復活という「いわゆる史実ではない不思議な出来事」の使徒伝承が信仰と理性の安息。落ち着く場所はどこにあるか。カトリックの「おミサ」、プロテスタント教会の「説教」、無教会主義は聖書の「読み」。いずれもその中核に有体的復活の「使徒伝承」がなければ信者は落ち着けないことになっている。餅屋には餅が売っていなければならないが餅を売っていないおかしな餅屋がある。それは偽りの看板。無教会が聖書それ自身を読まなくなった原因は有体的復活を伝承しなくなったから。無教会主義集会の老齢化と死。神の祝福が去ったのか。消滅する教派、集団ということ。無教会主義でも「使徒伝承」の行為は可能。使徒伝承は「個人」に宿る。「使徒伝承」は組織、教会、集会の維持延命ではない。また信条の文字には宿らない。「救われる者は少ないか」の質問に対すイエスのチグハグな返答の謎。救いは神の主権にある。だから求めよ、門を叩け。(もしかしたら)開けてもらえるかもしれない。救いということが分かるようにして頂けるかもしれない。この千古不滅の巨大な真理を真面目に求道してみるだけの値打はある。人は何を大切に思って生きるか。「信仰・希望・愛」。人間にとって「希望」ということは大切。「有体的復活」の希望、来世が実在することの希望。それは人間にとって最高の明るい希望

塚本訳 ルカ 13:23-24

13:23 するとある人が「主よ、救われる者は少ないでしょうか」と尋ねた。人々に言われた、

13:24 「全力を尽くして(今すぐ)狭い戸口から入りなさい。あなた達に言う、(あとになって)入ろうとしても、入れない者が多いのだから。

 

●矢内原忠雄の質問「自分の親は救われますか」。内村鑑三「さーわからない。しかし祈りたまえ」。これはイエスの答えと同じで神の主権を重んじる信仰。

 

E 死とは神が出迎えに来てくださること。キリスト教では「召される」という。

●余命短き人からのご連絡。黒人霊歌「揺れるよ幌馬車」。砂州を越えて・・・テニスン。

●黒人霊歌「揺れるよ幌馬車」・・(エリヤは馬車の迎えで天国に昇った。私もという願い)

軽やかに舞い下りよ すてきなチャリオット(天国の馬車)    私を故郷に連れにやって来た

●砂州を越えて---辞世の詩・・・・・・・テニスン

陽は沈み夜空には星
澄んだ声がわたしを呼ぶ!

 

F 死は眠り。終末、再臨の日に神の力で有体的に復活させられる。

 

●死とは一時の眠りであって、終末、再臨のときに「声をかけられて呼び出され」有体的に復活する。これがキリスト教的本当の「お迎えが来る」時。聖書はその希望を与えてくれる。仏教では死の時が「お迎えの時」。復活がない。

 

塚本訳 マコ 5:39

5:39 (家の)中に入って言われる、「なにを泣いたり騒いだりするのか。子供は死んではいない、眠っているのだ。」

 

塚本訳 ヨハ 11:11

11:11 こう話して、またそのあとで言われる、「わたし達の友人ラザロが眠った。目をさましに行ってやろう。」

 

塚本訳 1コリント15:3-6

15:3まえにわたしが(福音の)一番大切な事としてあなた達に伝
えたのは、わたし自身(エルサレム集会から)受けついだのであるが、キリストが聖書(の預言)どおりにわたし達の罪のために死なれたこと、"
15:4
葬られたこと、聖書どおりに三日目に復活しておられること
15:5
またケパに、それから十二人(の弟子)に、御自分を現わされたことである。
15:6
そのあと、一度に五百人以上の兄弟に御自分を現わされた。
そのうちの多数の者はいまでも生きてい(て、わたしが嘘を言っていないことを証明してくれ)る。もっともすでに眠った者もあるにはある。

 

塚本訳Tコリ15:43-44

15:43 恥辱の姿でまかれて栄光の姿に復活する。弱さの姿でまかれて力の姿に復活する

15:44 (神の霊を持たない)魂だけの体がまかれて霊の体が復活する。魂だけの体がある以上は霊の体もあるわけである。

 

新共同 コロ 3:3-4

3:3 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです

3:4 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう

 

塚本訳 ロマ 8:23

8:23 しかし(苦しんでいるのは)創造物だけではない。わたし達自身も、(神の子にされた証拠として)御霊なる初穂を持っているので、このわたし達自身も、自分(のみじめな姿)をかえりみて、呻きながら、(正式に神の)子にされること、すなわちわたし達のこの(罪の)体があがなわれ(て、朽ちることのない栄光の体にされ)ることを、待っているのである

 

信ずればその日がいつのことであるかは大脳皮質で分からなくても満足する。

 

塚本訳 マコ 13:32-33

13:32 ただし、(人の子の来る)その日また時間は、父上のほかだれも知らない。天の使たちも、子(であるわたし自身)も知らない。

 

G 有体的復活の共鳴者。使徒伝承に連なる喜び。

●「有体的復活、空の墓」を語ると種々反応があるが、その3通りの型。

(1)胸が熱くなったと言ってくる人・・・・全国的に現れる。これは不思議な現象。真の喜び。真のエクレシア。物理的かつ一人の先生に蛸壷的に集団を形成するのとは違う。「有体的復活の使徒伝承」は倫理的思想的感化ではない。神ご自身が伝道される。

塚本訳 マタ 8:11

8:11 わたしは言う、(最後の日には、このような信仰のあつい)大勢の人が『東から西から』来て、天の国でアブラハムやイサクやヤコブと共に宴会につらなり、

(2)「高橋さんの復活信仰はものすごい確信。うらやましい」と言う人。こういう求道者は神が間もなくその人自身を「ものすごい確信」に導く。死の不安の問題は宗教離れの若者にも共通のこと。メールの大流行は淋しさが原因。

(3)全く無関心の人。これにはさらに3種類ある。A・復活を揶揄する人、B・聖書的根拠を持って非難する人、C・愚か者と思う人。このうち私はCに対しては問題にしないが、AとBは福音の敵。真理の敵。使徒伝承の敵。こういう人間は基督者の集まりから叩き出さなければならない。追放しなければならない。パウロ書簡やヨハネ書簡にはそういう激しい面がある有体的復活の共鳴者は私にとって「神が与えて下さる真の友」。「黄泉の門(死の力)もこの関係を壊すことができない」。●内外に敵のいるイエスにとって、真理に対する共鳴者が現れるのは喜びであった。(ヨハネ1220-24、マタイ1616-18

塚本訳 ヨハ 12:20-24

12:20 この祭にお参りするため上ってきた人たちの中に、数人の(改宗した)異教人があった

12:21 ガリラヤのベッサイダの人ピリポの所に来て、こう言って頼んだ、「君、イエスにお会いしたいのですが。」

12:22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレはピリポと行ってイエスに話した。

12:23 するとイエスは(非常に感動して)二人に答えられる、「人の子(わたし)が栄光を受ける時がついに来た。

 

H 墓から呼び出される復活の朝。「また会う日まで」

 

●日本人の葬儀方法の問題。仏教の偉さ。その伝統の強さ。キリスト教は罪の赦しと有体的復活が本質。クリスチャンは仏教で葬式を行い、お寺の墓地に埋葬されても最後の日に有体的に復活させられる。神に呼び出される。福音が日本の宗教として定着するのにはローマ帝国のように300年以上はかかるか。

口語訳 詩  103:3-4

103:3 主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、

103:4 あなたのいのちを墓からあがないいだし、いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、

●死は一時の眠り。私たちの希望は「有体的復活」。

●墓から呼び起こされ眠りから覚める復活の朝が私たちの「希望」。

●私たちにとって死はしばしの別れ。「また会う日まで」。

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