人間イエスが神の子に見える日
ブログ日記より抜粋 高橋照男 東京聖書読者会 2006.11.5
061031(火)
●「人間イエスが神の子に見える日」。それは訪れの日、人生最上の善き日、歓喜の日、新しい誕生の日、不思議な日、恩恵の日、開眼の日、悟りの日、この世的なものとの別れの日、人生出発の日、霧が晴れる日、迷妄が晴れる日、新約聖書がわかる日、使徒伝承がわかる日、三位一体の真理がわかる日、処女降誕、十字架、復活、再臨がわかる日、聖霊が下る日、●これがあって人生は成功。他に人間的な喜びが何もなくても人生大成功。●ではどうしたら信じられるか。努力、がんばり、克己心、修行、向上心、熱心、勉強、広範と思っている雑学知識、道徳、善行、などでは知ることができないからキリスト教はわかりにくいのだ●この真理はあくまでも「神の主権」で現される。キリスト教は「啓示の宗教」。
塚本訳 マタ 11:25
11:25 その時イエスは声をはげまして言われた、「天地の主なるお父様、(神の国の秘密に関する)これらのことを(この世の)賢い人、知恵者に隠して、幼児(のような人たち)にあらわされたことを、讃美いたします。
塚本訳 マタ 16:17
16:17 するとイエスは(喜んで)ペテロに答えられた、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。これをあなたに示したのは血肉([人間]の知恵)でなく、わたしの天の父上だから。
塚本訳 ヨハ 1:13
1:13 この人たちは、人間の血や、肉の欲望や、男の欲望によらず、神(の力)によって生まれたのである。
塚本訳 ヨハ 14:22-24
14:22 イスカリオテでない方のユダが言う、「主よ、いったいどういうわけで、わたし達だけに御自分を現わし、この世(の人)にはそうしようとされないのですか。」
14:23 イエスは答えられた、「わたしを愛する者は、わたしの言葉を守る。するとわたしの父上はその人を愛され、わたし達は(父上もわたしも)、その人のところに行って、同居するであろう。
14:24 (しかし)わたしを愛しない者は、わたしの言葉を守らない。(だからわたしを見ることができない。)あなた達が(わたしから)聞く言葉はわたしの言葉ではない、わたしを遣わされた父上の言葉である。
塚本訳 使 10:40-41
10:40 (しかし)神はこの方を三日目に復活させ、(人の目にも)見えるようにされた。
10:41 (ただし)国民全体でなく、神からあらかじめ選ばれていた証人であるわたし達、すなわちイエスが死人の中から復活されたあとで、一緒に飲み食いした者(だけ)に見えたのです。
●これと反対に神の国の真理である三位一体、有体的復活の真理がわからない人は「今のところ」神にわからないようにさせられているだけ。しかしいつかはわからされる。その人も滅びることはない。
塚本訳 Uコリ4:3-4
4:3 しかしそれでもなおわたし達の説く福音が(ベールで)覆われている(からわからないのだと言う)なら、それは滅びゆく者にとって(だけ)覆われているのである。
4:4 彼らの場合、この不信者たちの考えをこの世の神(である悪魔)が盲にして、神の影像である救世主の栄光をつげる福音の光を見ることができないようにしたのである。
塚本訳 ロマ 11:31-33
11:31 この人たちも今はあなた達の受ける憐れみに対して不従順になっているが、これは今(すぐにも)憐れみを施されるためである。
11:32 つまり神はすべての人を不従順の中に閉じこめられたが、これはすべての人に憐れみを施すためであった。
11:33 ああ、神の富と知恵と知識との深さよ!なんとその裁きの探りがたく、(なんと)その(お歩きになる)道の不可解なことよ!
●神はご自分を知らない人間の存在の方が気になる。マタイの「空の鳥を見よ」の鳥は平行記事のルカではカラスである。カラスは当時嫌われものの代表。そんな嫌われ者でさえ神は養ってくださるという意味。また、どんな小さな存在でも神の意識の中にある。
塚本訳 マタ 10:29
10:29 雀は二羽一アサリオン(三十円)で売っているではないか。しかしその一羽でも、あなた達の父上のお許しなしには地に落ちないのである。
061028(土)
●グスタフ・レオンハルト指揮、ラ・プティテット・バンド(国際的メンバーの古楽オーケストラ)、テルツ少年合唱団1989年の演奏でバッハ「マタイ受難曲」の全曲を鑑賞。何度も泣いた。
●今まで出会ったキリスト像で一番ぴったりのイメージのもの。普通の農家のおじさん。 グスタフ・ラインハルト指揮のバッハ作曲マタイ受難曲のCDジャケット。フランス、アルザス地方のコルマール、ウンターリンデン美術館。マティアス・グリューネルワイド作「イーゼンハイムの祭壇画」の部分。図像は次をクリック。
http://kikuitimonji.kuchinawa.com/art/Gruenewald/isenheimer_altar_full.htm
■梗概
1510年から15年にかけて、グリューネヴァルトが描いた祭壇画の傑作。彼の最高傑作でもある。
この作品はイーゼンハイム近郊、アントニウス修道院のために描かれた。アントニウス修道院もまた修道院の常で、共同体の中心地であり同時に一種の病院の役割をも果たしていた。この絵はアントニウス修道院の付属施療院に置かれていたと考えられ、病人の心身にわたる苦痛を、キリストの痛みと同感させて昇華するため、この絵において痛烈な表現がなされたとも考えられる。
祭壇画の例に漏れず、このイーゼンハイム祭壇画もまた、複数のパネルによって成立しており、その内容は聖母子図、受胎告知などキリスト教絵画のオーソドックスな主題で構成されている。しかし中でも最も有名でかつ衝撃的なものがこの「キリスト磔刑図」である。
●キリストは十字架上で七つの言葉を語ったというが、最近の学説では何も言わずに「ただうなり声を上げて叫んだだけ」といわれる。多分正解。この絵はそれを連想させられる。つまりイエスは「痛み苦しみながら」死んでいったのだ。馬鹿なキリストよ。神の助けがくると思っていたのだ。神に捨てられたのに・・・・・・。でも神はそんなキリストを復活させて栄光の姿にされた。その苦しみは私達の罪のため。有体的復活の事実は人間のもつ死の恐怖や悲しみから我々を救う。「十字架と復活」、これは人間として最奥最深の苦悩、どうしようもない深刻な苦悩である「罪と死」からの救いをもたらす神の愛。
讃美歌136番(アルヌルフ・フォン・ローエン原詞、P・ゲルハルトのドイツ語訳詞、ハンス・レオ・ハスラー曲、バッハマタイ受難曲に受難コラールとして5回繰り返される。これは多くの教派が歌う)
1.
血しお したたる 主
の みかしら,
とげ に さされし 主 の みかしら,
なやみ と はじ に やつれし 主を
われ は かしこみ きみ と あおぐ.
2. 主 の くるしみ は わが ためなり,
われ は 死ぬ べき つみびと
なり.
かかる わが 身 に かわり ましし
主 の みこころ は いと かしこし.
3.
なつかしき 主
よ, はかり しれぬ
十字架の 愛 に いかに 応(こた)えん.
この 身 と たま を とこしえ まで
わが 主 の もの と なさせ
たまえ.
4. 主 よ, 主の もと に
かえる 日 まで,
十字架のかげ に た立たせ たまえ.
み顔 をあおぎ み手 に よらば,
いまわ の いき も 安けく あらん.
●このドイツ語の訳詞者、P・ゲルハルト(1607-1676)の生涯は悲劇的。教会紛争の渦中に巻き込まれて職を失う。35歳で結婚するが4人の子供を幼くして次々と失い、最後は最愛の妻をも亡くす。結婚生活は13年間。この詞は歌うというより泣き叫ぶという逆境の状況で作られたと言われる