負い目と赦し

2007.1.12 高橋照男

●人間は誰でも「負い目」というものに深く悩まされる。「負い目」の感情というのは信仰のあるなしにかかわらず人間に自然に備わっている尊いことである。ユダはイエスを売るという「たくらみ」があった。ペテロはイエスを3度「あんなヤツ知らない」と嘘をついた。パウロはキリスト信者を迫害した。全員負い目があった。心に傷があった。良心の咎めがあった。

ユダ

塚本訳 ヨハ 13:2

13:2 (祭の前日の)夕食のとき、すでに悪魔はシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを売ろうとする考えを吹き込んだ。

塚本訳 ヨハ 13:27

13:27 ユダがそのパンを受け取(って食べ)ると、その時、悪魔がユダに入った。そこでイエスがユダに言われる、「しようとしていることをさっさとしたがよかろう。」

 

ペテロ

塚本訳 マタ 26:74

26:74 そこでペテロは、「そんな男は知らない。(これが嘘なら、呪われてもよい)」と、幾たびも呪いをかけて誓った。するとすぐ鶏が鳴いた。

 

パウロ

塚本訳 ロマ 5:8

5:8 しかしわたし達が(義人でも善人でもなく、)まだ罪人(神の敵)であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった。このことによって、神はわたし達に対する愛をお示しになったのである。

 

●これに対してイエスは3人を必死に赦そうとした。まずユダに対しては最後の晩餐の席で、そのたくらみを翻意させようとイエスは必死に努力した。ペテロが三度イエスを知らないと言って鶏が鳴いたときペテロを「じっと」見つめた。これ赦しの目。神の子の目。パウロに対しては復活のイエスが「何故迫害するのか。無駄なことはするな」と声をかけた。この口調は赦しの気持ちから。

ユダに対して

塚本訳 ヨハ 13:11

13:11 イエスは自分を売る者(がだれであるか)を知っておられた。それで、「みんなが清いのではない」と言われたのである。

 

塚本訳 ヨハ 13:12-15

13:12 さて、みんなの足を洗い終ると、上着を着てふたたび席について、言われた、「いまわたしは何をあなた達にしたか、(そのわけ)がわかるか。

13:13 あなた達はわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいるが、そう言うのは正しい。その通りだから。

13:14 してみると、主であり先生であるこのわたしが足を洗ってやったのだから、あなた達も互に足を洗う義務がある。

13:15 わたしがしてやったとおりあなた達もするようにと、手本を示したのである。

 

塚本訳 ヨハ 13:27

13:27 ユダがそのパンを受け取(って食べ)ると、その時、悪魔がユダに入った。そこでイエスがユダに言われる、「しようとしていることをさっさとしたがよかろう。」

ペテロに対して

塚本訳 ルカ 22:61-62

22:61 主が振り向いて、じっとペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう(今夜)、鶏が鳴く前に、わたしを三度、知らないと言う」と言われた主の言葉を思い出し、

22:62 外に出ていって、さめざめと泣いた。

 

パウロに対して

塚本訳 使  26:13-15

26:13 王よ、昼に、途中で、天から輝く太陽にもまさる光がさして、わたしと、同行の者たちとのまわりを照らすのを見ました。

26:14 わたし達が皆地上に倒れると、ヘブライ語で、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。刺の棒は蹴っても無駄だ』とわたしに言う声を聞きました。

26:15 わたしは言った、『主よ、あなたはどなたですか。』主が言われた、『わたしだ、君が迫害しているイエスだ。

 

●これに対して三人は各自態度が違った。ユダはイエスの赦しを察知しながら拒否した。結果的に悔いて自殺した。ペテロは鶏が泣いたとき激しく泣いて悔いた。パウロは「まだ罪人であったとき自分の為に死んでくださった」という認識に至った。ロマ書7章のあの激しい慙愧の告白はキリスト信者への迫害という負い目が背景にあったのではないかと言われている。

ユダの場合

塚本訳 ヨハ 13:30

13:30 ユダはパンを食べると、すぐ出て行った。夜であった。──(そとは丸い月がかがやいていたが、ユダの心は真暗であった。)

 

塚本訳 マタ 27:3-5

27:3 その時イエスを売ったユダは、イエスの判決が決まったのを見て後悔し、(受け取ったシケル)銀貨三十枚を大祭司連、長老たちに返して、

27:4 「罪もない(人の)血を売って、悪いことをした」と言った。彼らが答えた、「われわれの知ったことではない。お前が自分で始末しろ!」

27:5 ユダは銀貨を宮に投げ込んで去り、行って首をくくった。

 

ペテロの場合

塚本訳 ルカ 22:61-62

22:61 主が振り向いて、じっとペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう(今夜)、鶏が鳴く前に、わたしを三度、知らないと言う」と言われた主の言葉を思い出し、

22:62 外に出ていって、さめざめと泣いた。

 

パウロの場合

塚本訳 ロマ 7:24-25

7:24 なんとわたしはみじめな人間だろう!だれがこの死の体から、わたしを救い出してくれるのだろうか。

7:25 ──神様、感謝します、わたし達の主イエス・キリストによって!──従って、このわたしは理性では神の律法に仕えるが、肉では罪の法則に仕えるのである。

 

塚本訳 ロマ 5:8

5:8 しかしわたし達が(義人でも善人でもなく、)まだ罪人(神の敵)であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった。このことによって、神はわたし達に対する愛をお示しになったのである。

 

●すべては「赦し」が先行した。しかしその赦しに対しての態度は各人各様である。赦しを拒否したユダだけは自殺の道を選んだ。素直に悔いて泣けばよかったものを。・・・・神の子イエスにしてもユダのたくらみを翻意できなかった。だから「あーかわいそうだ。彼は生まれてこなかったほうがよかった」とまで漏らした。

ユダ

塚本訳 マコ 14:21-22

14:21 人の子(わたし)は(聖書に)書いてあるとおりに死んでゆくのだから。だが人の子を売るその人は、ああかわいそうだ!生まれなかった方がよっぽど仕合わせであった。」

14:22 (ユダが立ち去ったあと、)彼らが食事をしているとき、イエスは(いつものように)パンを(手に)取り、(神を)讃美して裂き、弟子たちに渡して言われた、「取りなさい、これはわたしの体である。」(皆がそれを受け取って食べた。)

 

●復活のイエスはペテロとパウロに重きを置いて現れた。復活権限は赦しの宣言。結果的にこの二人がキリスト教の土台となった。もしユダが悔いて赦しを受け入れていれば多分ペテロやパウロより大なる働きをしたのではあるまいか。●赦しを受け入れないとき神の怒りは激しい。それは「「王子の結婚披露の譬」(マタイ22章1〜14)に出ている。

塚本訳 マタ 22:1-14
22:1 イエスは言葉をつづけ、また譬をもって(パリサイ人たちに)話された、
22:2 「天の国は、王子のために結婚披露の宴会を催す王にたとえられる。
22:3 家来たちをやって宴会に招いた人たちを呼ばせたけれども、だれも来ようとはしなかった。
22:4 王は、招いた人たちにこう言え、と言って、重ねてほかの家来たちをやった、『いよいよ食事の用意ができました。牛と肥し飼いの家畜とを屠って、すっかり用意ができています。さあ、宴会においでください。』
22:5 しかし彼らはそれに構わず、一人は畑に、一人は商売に出かけ、
22:6 ほかの者は家来たちを捕らえてひどい目にあわせた上、殺してしまった。
22:7 王は憤り、軍隊をやってその人殺しどもをうち滅ぼし、その町を焼き払った。
22:8 それから家来たちに言う、『宴会の用意はできているが、招いた人は(客たる)資格のない者(ばかり)だ。
22:9 だから町の出口の所に行って、出会った者をだれでもよいから宴会に呼んでこい。』
22:10 家来たちは道に出ていって、出会った者を悪人でも善人でも皆集めてきたので、宴会場は客で一ぱいになった。
22:11 王は客を見ようとして入ってきたが、そこに礼服を着けていない者が一人いるのを見て
22:12 その人に言った、『君、礼服も着ずに、なんでここに入ってきたのか。』その人が黙っていると、
22:13 王は家来たちに言った、『あの者の手足を縛って、外の真暗闇に放り出せ。そこでわめき、歯ぎしりするであろう。』
22:14 ──招かれる者は多いが、選ばれる者は少ないのだから。」

●ここでイエスが中心的に言わんとするのは22章11〜14節の不思議な言葉である。招いておきながら放り出すとは酷い主人ではないか。結婚式の入り口で「あなたはかっこいい着物を着ていないから入らないでください」というようなものである。あまりではないか。●しかし聖書は難しいところに「宝」がある。これは当時の習慣では、主催者は宴会などに招く人に対しては礼服を貸す習慣があったのだ。この追い出された客は、礼服を「貸してくれる」という主催者の申し出を断って自分の汚い着物のままで出席したのだ。主人が「貸してあげる」というのに「断ったのだ」。その傲慢さを主人が烈火のごとく怒った●私達が救われるのは汚い過去を神がきれいな服で隠して下さるのだ。十字架の血で過去を洗い清めて下さるのだ。それを拒否してはいけない

●人間は誰でも「負い目」がある。心傷(トラウマ)がある。神はその深刻な悩みを救おうとしてイエスの復活を通して我々に「今も働く」。問題は我々がそれを素直に受け入れるかどうかである。●しかし受け入れないものはたとえ復活のイエスに出会っても受け入れない。イエスのため息が聞こえる。こういう態度の人間は神の子イエスにとっても「いかんともしがたい」ことなのだ。ましてや人間の力ではとうてい力の及ばざることなのだ。神の子イエスにしてユダの「殺意」を翻意させることはできなかったのだ。●しかし神はそのユダの「殺意」をも利用してイエスの十字架により、人類に対して贖罪の道を開いたのだ。神は意外な展開をされる。悪いことをも利用して救いを成就させる。

塚本訳 ルカ16:28-31

"421628","わたしに五人の兄弟があります。彼らまでがこの苦しみの場所に来ないように、
よく言って聞かせてください。』"
"421629","しかしアブラハムは言う、『(その必要はない。)彼らにはモーセ(律法)と預言書と[聖書]がある。その教えに従えばよろしい。』"
"421630","彼が言った、『いいえ、父アブラハムよ、もしだれかが死人の中から行ってやれば、きっと悔改めます。』"
"421631","しかしアブラハムは答えた、『モーセと預言書との教えに従わないようでは、たとえ死人の中から生き返る者があっても、その言うことを聞かないであろう。』」"

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