人生の終わりと復活の希望
―「死ぬ」とはどういうことなのか―
東京聖書読者会 2010.4.4 高橋照男
@死ぬとはどういうことなのか。母の死、癌予告、若き人の悩みは意外に「死」
A全被造物の嘆き悲しみは死。その恐怖の本質。思い通りにならない人生 B聖書では死は眠り。そしてキリストの再臨により復活の喜びがあるという
C人生の終わりと復活の希望。復活には三段階がある。新約聖書の大略一致
D家族の救いは信者の切なる祈り、悲願。家族の救いなくして平安はない
E神の力を恐れて信じ、わが身も復活の可能性があるとの希望を持つ
F復活の希望には喜びが伴う。この「永遠の命」の喜びこそ来世実在の証拠。
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@死ぬとはどういうことなのか。母の死、癌予告、若き人の悩みは意外に「死」
1−2 死の生物学的な積極的意味(山下次郎著「イエスの死と復活」P39)
生物は代が変わることによって変化して行く。変化するということは多様化してゆくということである。多様化することは、その種の生物全体を眺めた時、生存能力が増したことを意味する。例えば、環境が変化した場合などには、多様化は生き残る可能性を高くするのである。
1−3 死をめぐる「忘れ得ぬ言葉」の背後にある人生観と死生観
●Memento mori(メメント・モリ。ラテン語の警句。自分が死ぬということを忘れるな。)●朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり(孔子、論語)●人生は死といういう壁に向かって歩く旅である。しかし多くの人が「その壁は自分にとってはずっと先のことだ」と思っている(ハイデッガー、哲学者)●澄んだ声がわたしを呼ぶ(テニスン辞世の詩Crossing the Bar「砂州越えて」) ●苦しみは瞬時にして喜びは永遠なり(ヒルティ、幸福論第3巻の結語)●癌とは闘うな。自然に生き、自然に死ぬことだ(肺癌の母を看取った小野寺時夫医師)●照男さん。あなたは天国では痛みがないと言いますが、行って見てきたのですか(最後近くの母の言葉。)●罪と死の恐怖に対して、父母我を助けず、天地も我を助けない(内村鑑三)●これが最後です。 しかし、私にとってはいのちのはじまりです。(ボンヘッファー。ナチスに処刑されたドイツ人牧師の最後の言葉)●皆様長々お世話になりました。私はこれから父の御許に参ります(ある死刑囚。死刑執行の前に長い祈りを捧げてからの言葉)●地球の歴史45億年をマラソン距離に置き換えると人の一生は一ミリ以下(佐藤全弘)
A全被造物の嘆き悲しみは死。その恐怖の本質。思い通りにならない人生
2−1 この「私」が滅却し宇宙から永遠に忘れ去られる。宇宙は消滅する
口語訳 詩 90:10
90:10 われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。
2−2 離別の嘆き悲しみ(愛する人、自然、楽しいこと、歴史、音楽、)
塚本訳 ヨハ
11:32
11:32
マリヤはイエスのおられる所に来ると、イエスを見るなり、足もとにひれ伏して言った、「主よ、あなたがここにいてくださったら、わたしの・・わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」
2−3 不幸や禍の原因は罪ではないのか。人には死後の裁きの恐れがある。
口語訳 詩 51:4
51:4 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。
2−4 死の時が定められる予期悲嘆。心が圧される苦しみ。(癌の宣告)
塚本訳 マタ
26:37-38
26:37
そしてペテロとゼベダイの子二人(だけ)を連れて(奥の方へ)ゆかれると、(急に)悲しみおののき始められた。
26:38
それから彼らに言われる、「『心がめいって』『死にたいくらいだ。』ここをはなれずに、わたしと一しょに目を覚ましていてくれ。」
B聖書では死は眠り。そしてキリストの再臨により復活の喜びがあるという
3−1 死は眠り。眠りには目覚めがある。
塚本訳 ルカ
8:52-53
8:52
(集まった)人々が皆泣いて、女の子のために悲しんでいた。イエスが言われた、「泣くな。死んだのではない、眠っているのだ。」
8:53
人々は死んだことを知っているので、あざ笑っていた。
塚本訳 ヨハ
11:11
11:11
こう話して、またそのあとで言われる、「わたし達の友人ラザロが眠った。目をさましに行ってやろう。」
3−2 死は霊魂が一旦神の懐に隠されること。キリストの再臨と終末に復活させられる。霊魂不滅説ではない。中澤n先生との往復書簡による合意。
口語訳 コロ 3:3-4
3:3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。
3:4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。
C人生の終わりと復活の希望。復活には三段階がある。新約聖書は大略一致
4−1 パウロは復活の三段階説。第@段階は『キリスト』、第A段階はキリストの再臨の時に『信者』、第B段階は第A段階にすぐ続く終末の時の『不信者』。ただし最後の「不信者」の救いは人間の祈り願望であり断定は不可能。
塚本訳 Tコリ15:23-26 ・・・○数字は高橋の挿入
15:23
ただ(それには順序がある。)ひとりびとりが自分の(属する)組の番の時に(復活する。)
@最初は(すでに)キリストが、
Aその次に、キリストの来臨の時にキリストのものである人たちが、
15:24
Bそれから(最後に)残りの人たちが。この時、キリストはすべての支配(天使)、すべての権威(天使)と権力(天使)とを滅ぼした後、神にして父なるお方にその王国を引き渡される。(中略)
15:26
最後の敵として、死が滅ぼされる。
4−2 第@段階は『キリストの復活』。神は史実としてキリストの有体的復活をこの世に示して下さった。このことにより人類は来世での復活ということが確実にありうることに希望を持てるようになった。理性も安息する。
塚本訳Tコリ15:3-5
15:3
まえにわたしが(福音の)一番大切な事としてあなた達に伝えたのは、わたし自身(エルサレム集会から)受けついだのであるが、キリストが聖書(の預言)どおりにわたし達の罪のために死なれたこと、
15:4
葬られたこと、聖書どおりに三日目に復活しておられること、
15:5
またケパに、それから十二人(の弟子)に、御自分を現わされたことである。
塚本訳Tコリ6:14・・・(聖書知識66号、昭和10年 P25 試訳)
6:14
そして神は主(キリスト)を甦えらせ給うたのであるから、その御能力をもって、また私達(の体)をも甦らせ給うであろう。
4−3 第A段階はキリストの再臨の時の『信者の復活』。しかしそれにはさらに順序がある。最初に主にあって眠った人が復活、次にその再臨の時に生きている信者が天に挙げられる。これらが信者の「第一の復活」(黙20:5、6)
塚本訳 ヨハ
11:43-44
11:43
こう言ったのち、大声で、「ラザロ、出て来い」と叫ばれた。
11:44
死人が手足を包帯で巻かれたまま、(墓から)出てきた。顔は手拭で包まれていた。イエスは「解いてやって(家に)帰らせなさい」と人々に言われた。
塚本訳Tテサ4:14-17
4:14
私達が信ずるようにもしイエスが死んで復活し給うたならば、神はイエスによって眠った者をも同様にイエスと共に連れ来たり給うであろうから。
4:15
然り、私達の主の御言をもってこのことを(はっきり)君達に言う(ことが出来る)──私達主の来臨(の時)まで生き残っている者は、(既に)眠った者に先立つ(て光栄に与る)ことは絶対に無い。
4:16
何故なら、(その時)主自ら号令と御使いの頭の声と神のラッパ(の響き)と共に天から下り給うて、キリストにおいて死んだ死人がまず復活し、
4:17
それから私達(その時まで)生き残っている者が主に会うため彼らと一緒に雲に乗って空中に奪い去られる。かくして私達はいつも主と共に居るのである。
塚本訳 マタ
24:40-41
24:40
その時、二人の男が畑にいると、一人は(天に)連れてゆかれ、一人は(地上に)のこされる。
24:41
二人の女が臼をひいていると、一人は連れてゆかれ、一人はのこされる。
塚本訳 ヨハ
5:24
5:24
アーメン、アーメン、わたしは言う、わたしの言葉を聞き、わたしを遣わされた方を信ずる者は、(今すでに)永遠の命を持っていて、(最後の日に)罰を受けない。その人はもはや死から命に移っているのである。
塚本訳 黙 20:5-6
20:5
しかし残りの死人達は千年が終わるまで生き返らなかった。これが第一の復活である。
20:6
幸福なる哉、聖なる哉、第一の復活に与(り得)る者! この人達に対しては第二の死も権威が無く、彼らは神とキリストとの祭司となって、千年の間彼と共に王となるであろう。
4−4 この第A段階のキリスト再臨の時、不信者は暗闇に放り出されて「歯ぎしり」する(マタ8:12、13:39-42、47-50、22:12-14、25:30)。そういう目に遭わないようにしなさいと言うのがイエスの譬話による警告。
塚本訳マタ
22:13
22:13
王は家来たちに言った、『あの者の手足を縛って、外の真暗闇に放り出せ。そこでわめき、歯ぎしりするであろう。』
4−5 この第A段階のキリストの再臨で不信者は墓から呼び出されて裁かれる。これが「第二の死」(永遠の死、黙2:11 20:6,14)という霊魂の死である。第一の死は肉体の死。霊魂の死とは異教の我々には衝撃の言葉。しかし悪は必ず神に滅ぼされることを信じれば義の満足を得る。これが黙示録の精神。
塚本訳 ヨハ
5:28-29
5:28
あなた達は(子が裁くという)このことを驚くに及ばない。時が来ると、墓の中にいる者が皆子(たるわたし)の声を聞いて、
5:29 (墓から)出てくるからである。すなわち、善いことをした者は(永遠の)命にはいるために復活し、悪いことをした者は(死の)罰を受けるために復活する。
塚本訳 黙 20:12-15
20:12
また私は死人が大なる者も小なる者も(悉く)玉座の前に立っているのを見た。すると(人の業を記した)数多の書が開かれた。また(もう一冊)他の書が開かれた。それは生命の書である。死人達は前の(数多の)書に書いてあることにより、(すなわち)彼らの業に応じて審判された。
20:13
海はその中にあった死人を出し、死も陰府もその中にあった死人を出し、各々その業に応じて審判された。
20:14
そして死と陰府とは火の池に放り込まれた。これが第二の死、(最後の)火の池の死である。
20:15
生命の書に(その名を)書かれていない者は(悉くこの)火の池に放り込まれた。
塚本訳 マタ
25:41
25:41
それから王は左側の者に言う、『わたしを離れよ、この罰当りども、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。
塚本訳 マタ
5:6
5:6 ああ幸いだ、(神の)義に飢え渇いている人たち、(かの日に)満足させられるのはその人たちだから。
塚本訳 黙 2:11
2:11
耳を有っている者は、御霊が(全)教会に言い給うことの何であるかを聴け。勝利者は決して第二の死、(永遠の死)に害なわれないであろう。
4−6 第B段階は終末での『不信者の復活』。万物再生(ロマ8:21)の新天新地の創造。これは第A段階の再臨と裁きという断絶の後間髪を入れずに起こる。いわゆる千年王国の千年は神にあっては僅か一日(詩篇90:4)。しかし終末で不信者が復活することは我々の悲願であるが、これは人間の祈りである。
塚本訳黙 21:4
21:4
彼らの目から悉(ことごと)く涙を拭い取り給うであろう。最早死もなく、悲嘆(かなしみ)も叫喚(さけび)も疼痛(いたみ)も最早無いであろう。初めの(天と地にあった)ものが(すっかり)消え去ったからである。」
●見解が分かれるのは第B段階の終末における不信者の復活。Tコリ15:24aのte,loj、テロス(ギリシャ語)は普通「終末」とか「終わりが来る」と訳される。(口語、新改訳、前田、新共同、文語、田川、KJV、NKJV、TEV、NTD)しかし塚本訳は「残りの人たちが」とし、不信者が復活するという万人救済説を取る。これは最近の学説の傾向だと言われる(聖知284号-P4)。黒崎も万人救済説に立つ。神はキリストの功によって死を滅ぼされたからである。それよりも「私が救われたからには世に救われない人はない」と思えば平安。今日キリスト教に力がないのは体的復活と体的再臨の信仰がボケてきたから(聖知231号-P8)。
塚本訳 ヨハ
12:47
12:47
しかしわたしの言葉を聞いて守らぬものがあっても、わたしはその人を罰しない。なぜなら、わたしは世を罰するために来たのでなく、世を救うために来たのだから。
塚本訳 Tテサ5:10
5:10
主は、私達が(その日)目を覚ましていても(あるいは既に墓に)眠っていても、(皆等しく)彼と共に生きることが出来るように、私達のために死に給うたのである。
塚本訳Tコリ15:21
15:21
というのは、一人の人によって死が来たので、同じく一人の人によって死人の復活が来るのである。 (= ロマ5:15-21)
●ただし神の恐ろしさを侮る万人救済論ではいけない。それは異教的な考えで十字架を無意味にする。不信者は一度は「第二の死」である霊魂の死という罰に苦しまなければならない。しかしここに十字架による救いの有り難さがある。
塚本訳 マタ
22:29
22:29
イエスは答えられた、「あなた達は聖書も神の力も知らないので、間違いをしている。
塚本訳
マタ 10:28
10:28 体を殺しても、魂を殺すことの出来ない者を恐れることはない。ただ、魂も体も地獄で滅ぼすことの出来るお方を恐れよ。
D家族の救いは信者の切なる祈り、悲願。家族の救いなくして平安はない。神の判決は周囲の熱い祈りで覆る。これがレクイエム(鎮魂曲)を歌う意味。
塚本訳 ルカ
16:28
16:28
わたしに五人の兄弟があります。彼らまでがこの苦しみの場所に来ないように、よく言って聞かせてください。』
塚本訳ルカ
18:1-5
18:1
なお、気を落さずに常に祈るべきことについて、一つの譬をひいて弟子たちに話された、(中略)
18:5
この寡婦(やもめ)はどうもうるさくて、やりきれないから、(裁判をして、)この女のために仕返しをしてやろう。そうしないと最後にはやって来て、わたしをどんなひどい目にあわせるか知れない。』」
E神の力を恐れて信じ、わが身も復活の可能性があるとの希望を持つ
塚本訳ルカ
23:41-43
23:41
おれ達は自分でしたことの報いを受けるのだから当り前だが、このお方は何一つ、道にはずれたことをなさらなかったのだ。」
23:42
それから(イエスに)言った、「イエス様、こんどあなたのお国と共にお出でになる時には、どうかわたしのことを思い出してください。
23:43
「イエスが言われた、「アーメン、わたしは言う、(その時を待たずとも、)あなたはきょう、わたしと一しょに極楽(パラダイス)にはいることができる。」
F復活の希望には喜びが伴う。この「永遠の命」の喜びこそ来世実在の証拠。
塚本訳 Tペテ1:8
1:8 君達は彼を(目のあたり)見たことはないが、(これを)愛し、今も見ることは出来ないが、(これを)信じて、(既にかの日の)輝きに満ちた、言語に絶する喜悦を喜んでいる。
塚本訳 ロマ
8:24
8:24
なぜなら、わたし達は(最後の日に救いが完成されるという)望みをもって、救われているからである。目に見ることのできる望みは望みではない。人はいま現に見ているものを、なんでその上望む必要があろうか。
塚本訳 テト
2:13
2:13
幸福な希望と、大なる神及びわれらの救い主キリスト・イエスの栄光の顕現(あらわれ)(によってその希望が満たされること)とを待ち望ませるのである。