信仰告白はどのようにして誕生したのか?
ピリピ書2章6-11節「キリスト賛歌」の作者探求
高橋照男2000.10.27

イエスの十字架の死および復活という歴史的事実からパウロ書簡が執筆されはじまるまでの約20年間(紀元約30年から50年)の間にすでに「キリスト論」といわれる今日の信仰告白の基本が出来上がっていた。その代表的なものがピリピ2章6-11の「キリスト賛歌」である。この部分がパウロの作ではなくそれ以前に出来上がっていた詩(歌)であるということは、この部分の文体がパウロ本来の文体と異なることから分かるのだそうであるが、悲しいかな素人の私にはその違いがわからない。しかしパウロが引用したこの「キリスト賛歌」の歌は一体どこの誰が(あるいは集団が)作ったのか、非常に興味の湧く課題である。つまり「パウロ以前の告白」の源流はいずこ?の課題である。ここにM・ヘンゲルの「神の子・キリスト成立の課題」山本書店を手がかりにその探求を試みる。本書は全編に渡りピリピ2章6-11節をしばしば引用している。まずその部分の各種翻訳を見てみよう。

ピリピ2章6-11節各種翻訳比較
[
文語訳]
500206","
即ち彼は神の貌にて居給ひしが、神と等しくある事を固く保たんとは思はず、"
"500207","
反つて己を空しうし、僕の貌をとりて人の如くなれり。"
"500208","
既に人の状にて現れ、己を卑うして死に至るまで、十字架の死に至るまで順ひ給へり。"
"500209","
この故に神は彼を高く上げて、之に諸般の名にまさる名を賜ひたり。"
"500210","
これ天に在るもの、地に在るもの、地の下にあるもの、悉とくイエスの名によりて膝を屈め、"
"500211","
且もろもろの舌の『イエス・キリストは主なり』と言ひあらはして、榮光を父なる神に歸せん爲なり。

[塚本訳]
"500206","
ピリピ 2:6","彼は(先には)神の姿であり給うたが、神と等しくあることを棄
て難いことと思わず、"
"500207","
ピリピ 2:7","かえって自分を空しうして人と同じ形になり、奴隷の姿を取り給
うたのである。そして人の様で現れた彼は、"
"500208","
ピリピ 2:8","自ら謙り、死に至るまで、(然り、)十字架の死に至るまで(父なる神に)従順であり給うた。"
"500209","
ピリピ 2:9","それ故に神も彼を至高く上げ、凡ての名に優る(「主」なる)名を与え給うた。"
"500210","
ピリピ 2:10","これはイエスの(この尊い)名の前に、天の上、地の上、地の下にある万物が膝を屈め、"
"500211","
ピリピ 2:11","凡ての舌が「イエス・キリストは主なり」と告白して父なる神に、栄光を帰せんためである。"

[口語訳]
ピリピ人への手紙 2:6-11 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
7
かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
8
おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
9
それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。
10
それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、
11
また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

[新改訳]
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

[前田訳]
"500206","
彼は神の形にいましつつも、神とならぶことに捕らわれず、"
"500207","
おのれをむなしゅうして僕の形をとり、人の姿になり、様子は人のようでした。"500208","彼はおのれを低くして死に至るまで、然り十字架の死に至るまで従順でした。"
"500209","
このゆえに神も彼を高めてすべての名にまさる名をお与えでした。"
"500210","
それはイエスの名によって天と地と地下のすべての膝がかがみ、"
"500211","
すべての舌が『イエス・キリストこそ主』と告白して栄光を父なる神に帰すためです。"

[NTDゲルハルト・フリードリヒ 杉山好訳]
かれは神の似姿にておりたまいしに
むしろわが身を投げ出し、
下僕の姿を取り、
世のもろ人と同じ者となり、
その様 人に異ならざりき。
すでに人として現れ、おのれを低くし、
服従を貫きて死に至り、
―――
しかり、十字架の死に至りたまえり、
ゆえに神はかれを高く挙げ、
これによろずの名に勝る御名を賜いぬ。
そはイエスの御名によりて、
天上の者たち、地上の者たち、地価の者たちなど
〃すべての膝がかがめられ、
すべての舌が〃「イエス・キリストは主なり」と〃言い表して〃
父なる神に栄光を帰せんためなり。

(杉山訳は限りなく文語調に近づけようとしている。氏のマタイ受難曲の翻訳もその努力のあらわれである。)

[新共同訳]
2:6-11
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
7
かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
8
へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
9
このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
10
こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
11
すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
「キリスト論」「キリスト賛歌」はパウロ以前に出来上がっていてそれがパウロに影響していることは自明のことであるが、まずピリピ2章6?11節の「キリスト賛歌」に類似あるいは同根の思想(信仰告白)を見てみよう。それは新約聖書の各所に沢山ある。これらは互いに「響きあって」いる。われわれは難しくて煩瑣な聖書学は知らなくてもこれらが心に「響けば」聖書を真に理解したことになる。(塚本先生の説かれる聖書の百姓読み、素人読みとはこのことである)

ローマ人への手紙 8:3律法が肉に妨げられて無力になったために出来なくなったことを、神は(御子によって)成し遂げてくださった。すなわち(わたし達の)罪の(征服の)ためにその子を罪の肉の形で(この世に)遣わし、その肉(を殺すこと)において罪を罰されたのである。"[塚本訳]

ガラテヤ人への手紙ガラテヤ人への手紙 4:4 しかし(定められた)時が満ちると、神はその御子を女から生まれさせ、律法の下に置いて、(この世に)お遣わしになった。[塚本訳]

ヨハネによる福音書 3:17神は世を罰するためにその子を世に遣わされたのではなく、子によって世を救うためである。[塚本訳]

ヨハネの第一の手紙 4:9神がその独り子を(この)世に遣わし、独り子によって(死ぬべき)わたし達が生きるようになったそのことで、神の愛が(はじめて)わたし達に現わされたのである。[塚本訳]

ヨハネの第一の手紙 4:10わたし達が神を愛したことではなく、彼がわたし達を愛し、その子をわたし達の罪のための宥め(の供物)として遣わされたそのことに、愛があるのである。[塚本訳]

ヨハネの第一の手紙 4:14わたし達は(このことを)見たので証しをする。・・父がその子を世の救い主として遣わされたことを。[塚本訳]

ヨハネによる福音書 3:16そのゆえは、神はその独り子を賜わったほどにこの世を愛されたのである。これはその独り子を信ずる者が一人も滅びず、永遠の命を持つことができるためである。[塚本訳

ガラテヤ人への手紙 2:20わたしはもはや生きていない。キリストがわたしの中に生きておられる。いまわたしが肉体で生きるのは、わたしを愛し、このわたしのために自分をすてられた神の子を信ずる信仰によって生きているのである。[塚本訳]

ヨハネによる福音書 10:10泥棒が来るのは、ただ(羊を)盗み、殺し、滅ぼすだけのためである。わたしは(羊に)命を持たせるため、あり余るほど(の命を)持たせるために来たのである。"[塚本訳]

ヨハネによる福音書 15:13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。[口語訳]

 ヨハネの第一の手紙 3:16 主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。[口語訳]

コロサイ人への手紙 1:13 父は暗闇の権力から私達を救い出して、その愛の御子の王国に移し給うた。"[塚本訳]

コリント人への第一の手紙 8:6コリント人への第一の手紙 8:6 わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている。[口語訳]

ローマ人への手紙 1:3-4 御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、
4
聖なる霊によれば、死人から復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。[口語訳]

コリント人への第二の手紙 8:9あなた達はわたし達の主イエス・キリストの恩恵を知っているではないか、彼は(神の子として)富んでおられたのに、あなた達のために(人間となって)貧しくなられた、この方の貧しさによってあなた達が富むためである。"

ヘブル人への手紙 1:3-5 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。
4
御子は、その受け継がれた名が御使たちの名にまさっているので、彼らよりもすぐれた者となられた。
5
いったい、神は御使たちのだれに対して、「あなたこそ、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」と言い、さらにまた、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう」と言われたことがあるか。[口語訳]
これらに共通の思想は単純に次のことである。つまり神はこの世に介入して血を流された。このことである。これをさらに砕いて言うと、神がその心をこの世に提示するために具体的に見える形をとられた。(降誕の意義はここにある。それはグノーシス対策でもある)それはイエスの死を通じて示された。(十字架の贖罪の意味はここにある)この二点である。この二点にキリスト教の本質が込められている。

結論
ピリピ2章6-11節のようなキリスト賛歌の信仰告白は新約聖書全体の土台、つまりその後のキリスト教会の土台となっていることが分かる。むろんパウロもこの信仰を受け入れたのである。
 
コリント人への第一の手紙 15:3まえにわたしが(福音の)一番大切な事としてあなた達に伝えたのは、わたし自身(エルサレム集会から)受けついだのであるが、キリストが聖書(の預言)どおりにわたし達の罪のために死なれたこと、"[塚本訳]
(塚本訳・岩永整理版がここに敷衍で(エルサレム集会)と入れたことに深い意味を見る。岩永さんが土台にした塚本先生の改訳ノートの原本を見たいものである。)

今日ピリピ2章6-11の「キリスト賛歌」の作者は多分おそらく「エルサレムのユダヤ人原始キリスト集会」の誰か、というところまでにきりさかのぼれない。つまり作者不詳、読み人知らずの「歌」である。しかし原始キリスト集会ではこのような歌が多く歌われていたのであろう。

コリント人への第一の手紙 14:26 すると、兄弟たちよ。どうしたらよいのか。あなたがたが一緒に集まる時、各自はさんびを歌い、教をなし、啓示を告げ、異言を語り、それを解くのであるが、すべては徳を高めるためにすべきである。[口語訳]

エペソ人への手紙 5:19聖歌と讃美歌と霊の歌をもって互いに語り、心をもって主に歌いまた奏で、"

ヨハネの黙示録 5:9 彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、[口語訳]

これらを見ると「キリスト賛歌」は、誰か一人の作であるがそれを作らせ、また一緒に歌う人がいた集会の雰囲気がその背後に存在していたのであろうと、と推察することができる。
さらにこの歌の源流を推測すれば神の霊が作者にこの歌を作らせたのだと言える。われわれはここで探求の旅を止め、満足を見出すべきである。この世の名前は誰でもよい、それは神の霊に触れた人であってその人の心の目が開かれて「胸が熱くなって」この歌を作ったのであろう。またその周囲のこれまた「胸を熱くされた人々」がこの「賛歌」を歌い支え、伝承していったのであると推測できる。天国に行けばあるいはその人たちに会えるかもしれない。

使徒行伝 16:14 ところが、テアテラ市の紫布の商人で、神を敬うルデヤという婦人が聞いていた。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた。 [口語訳]

作者不詳の名作の例。
チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番第一楽章のメロディーは橋のたもとに座っていた盲人の乞食が口ずさんでいたものをチャイコフスキーが書きとめたものであるとされる。
またアンダンテカンタービレ(弦楽四重奏曲第一番第二楽章)のメロディーはチャイコフスキーの部屋の向かい側で左官屋が口ずさんでいたものであるとされる。そのほかドボルザークの「新世界交響曲」(交響曲第9番)の家路のメロディー(第二楽章)も米国の土俗民謡のものといわれる。このように名作の中には作者不詳がある。
その後2000年連綿と続くキリスト教はこのエルサレム原始キリスト集会の作者不詳の詩歌に起源をもつのである。そしてそれは無名の人々、しかしこの詩歌に対し心が響いた人たちによって担われてきたのである。胸が熱くされた人によって伝承されてきたのである。エクレシアとか教会の真の基礎はここにある。われわれはここに歴史的に繋がるのである。来世では逢えるものなら真っ先にこのエルサレム集会の人たちに逢いたい。

ではそのエルサレムの原始キリスト集会の祖はだれかというとそれは「ペテロ」である。
これはヨハネ福音書の付録とされる第21章にその影が見える。オスカー・クルマン(前田五郎先生と親交があった)の名著「ペテロ」の結論は新約聖書に現れた信仰の源流はパウロでなくペテロにある、ということである。(この本はカトリック側から賞賛された)しかし今素描したように源流はペテロ個人ではなく、エルサレムのユダヤ人原始キリスト集会の「胸が熱くなった」無名の人々であると解す。(彼らは幸福であったろうと推察する)そしてそのさらに源流は彼らの胸を熱くした神の霊がその本当の源流であると無教会者の私は理解する。(ペテロを高く評価しても私がカトリックに帰依することではない)

ローマ人への手紙 8:14-15 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。
15
あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。
 

 

inserted by FC2 system