イエスの復活を信じられるようになった理由

東京聖書読者会 2010.3.7 高橋照男

@「死人が復活するなどという宗教はとても信じられない」。それが健全常識。

A私が復活を信じられたのは、「空の墓」の伝承を聞いて胸が熱くなったから。

B一体何が起こったというのか。イエスの遺体の物理的消失。佐藤研論考。

Cイエスの「空の墓」の史実性。荒井献先生との往復書簡による確認合意。

D脳内出血で意識不明になったときの最後の希望は「空の墓」の史実伝承。

Eイエスの復活体とはどういうものだったのか。遺体の4次元世界への変化。

F来世での復活の希望を抱くには、史実の使徒伝承を聖霊で信ずることが必要。

G復活は神の力によって「心の目」が開かれるときに信じられるようになる。

H「胸が熱くなる」および「有体的復活」の言葉に対して応答がある不思議。

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@「死人が復活するなどという宗教はとても信じられない」。それが健全常識。

塚本訳 マタ 28:16-17

28:16 さて、十一人の弟子はガリラヤに行き、イエスに命じられた山にのぼり、

28:17 お目にかかっておがんだ。しかし疑う者もあった

A私が復活を信じられたのは、「空の墓」の伝承を聞いて胸が熱くなったから。

「胸が熱くなる」ことによって見えたもの 
            
●私は東京聖書読者会でそれまで10年間ヨハネ福音書を講読してきたが、1997春、第20章1〜10節「空の墓」の個所にさしかかったときのことである。このことに関する約60ほどの文献を読んだところ、それは大略二つの見解に分かれていた。その一つは、イエスの墓が空になっていたというのは「聖者伝説」の一種で神話であり、史実ではないとするもの。これは大体において近代聖書学の旗手たちのものであり、頭がすっきりした。ところが一方それを史実と信じている人々の本を読んだときには胸が熱くなるという現象が起きた。これは実に顕著な差で不思議なことであった。この原体験が私にとって、有体的復活、使徒伝承、さらには再臨信仰への開眼の起点となった。私の胸が熱くなったが故に一瞬に見えたもの、それは次のことである。

 1 イエスの墓が空であったことは歴史的事実であること、
 2 それは罪の赦しと永遠の命の実在の証拠であること、
 3 その信仰告白伝承は地上で(歴史的に)連鎖的につながり
   ついにこの私にまで到達したこと

B一体何が起こったというのか。イエスの遺体の物理的消失。佐藤研論考。

●1998年4月、荒井献門下の佐藤研先生(荒井献先生とともに岩波書店発行の新約聖書の翻訳責任編集者)は、現代思想(青土社)1998年4月号に「復活信仰の成立」という論考を書かれた。その結論は「イエスの弟子たちにとって空の墓は衝撃であった。復活信仰はこの史実が基盤になっている」と言うものである。「我が意を得たり」というのは このようなときに使うのである。佐藤論考のポイントを記そう。
「イエスの墓が空になった、ということが史実であると想定せざるを得ない最大の論拠は次の点にある。つまり、イエスの弟子たちが『イエスは復活した』と宣教し始めたとき、一般のユダヤ教徒がそれを反駁するに際し、墓の中のイエスの死体を指示できなかった点である。・・・・日曜日の朝、イエスの死体が葬られたはずの墓から消失してしまっていたのであり、その事態が、当所を訪れた女たちにまず明らかになったのである。このことの史実性だけは、カンペンハウゼンの言う通り、ほとんど否定できない。」(「現代思想」1998年4月号113-114ページ)

Cイエスの「空の墓」の史実性。荒井献先生との往復書簡による確認合意。

復活記事は4福音書で一致しないが、「空の墓」は一致する。これが歴史と信仰の接点。このことに関して歴史と信仰を厳しく峻別される新約聖書学の泰斗荒井献先生と共有認識に立てた。その往復書簡の重要な部分を下記に掲げる。

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さて、ファイルの方はまだ通読しておりませんが、二論考の方は読ませていただきました。私もまた佐藤研君と共に、「墓が空だった」ことは歴史的事実と信じます。ただ、「信じる」ということは、弟子たちによるイエス顕現体験を共有することを不可欠の条件とすることを合意しています。空の墓の史実性だけでは復活「信仰」は成立しなかったでしょう。エマオ途上の二人の弟子たちは、―――空の墓の史実性を前提しつつも―――直接的には復活のキリストに出会って、「胸が熱くなった」のです。勿論高橋さんも、イエスの顕現体験との結びつきなしに空の墓の史実性のみを復活信仰の前提にされているのではないでしょう。(このファイルを通読すれば分かることかもしれません)。もしそうであるならば、私は高橋さんと復活観を共有できると信じます。以上簡潔に私の感想を記しました。ご諒解いただければ幸いです。   敬具

1999年2月23日  荒井献  (封書)

1999年も漸く終わりに近づきました。冊子『神の与える喜びの時』をご恵送に与り心から感謝申し上げます。小生(と佐藤研君)の復活理解を評価していただき、いささか気恥ずかしいところでありますが(私は“復活”について正面から語りませんので)、この度それを高橋さんからひき出して(●●●●●)いただいた感あり、お礼申しあげます。よきクリスマスをお迎えください。

1999年12月11日  荒井献  (葉書)

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●荒井献先生の言わんとすることは「墓が空」であったことは史実(物理的事実)だが、それが即復活信仰の根拠ではない。復活信仰は理性でなく顕現体験を必要とするということである。これは私の考えと一致して、確認合意できた。

D脳内出血で意識不明になったときの最後の希望は「空の墓」の史実伝承。

「脳出血の記録」―――死を目前にして―――― (退院礼状)

 

2000年7月6日勤務先で執務中に急に目まいと吐き気がして立てなくなり、救急車で聖路加国際病院に運ばれました。職場の方々の素早い判断と聖路加病院の処置および手厚い看護のおかげで一命を取り止めることができました。あとで分かった事ですが、救急車の中では一時意識がなかったそうです。病名は小脳出血であり、これが脳幹であったら、命を失っていたそうであります。主たる原因は年齢、高血圧、ストレスでした(石川医師談)。幸い現在は快方に向かいつつありますが、全治(目まいがなくなる)には相当の日数(年数)がかかるそうですので、今後は常に体調に留意して生活したいと存じます。

 さて、私は今回のことを通して「死の準備」をさせられました。職場の方が、救急車に「聖路加へ」と迷うことなく指示したのは、私がクリスチャンであることを知っていたからだそうであります。救急車の中では「死ぬのかよー」と叫んでいたそうであります。また救急外来処置室ではまともな祈りはできず、ただ「助けてくれー」と心に念ずるのみでした。しかしこのように死を目前にしたとき、私は「イエスの墓が空であったことと、復活の歴史的事実」を「罪の赦しと永遠の命へ」の最後の望みの綱としてますます強く信ずるに至らしめられました。そしてまた今回の病を通して、「来世実在の希望」と「再び生きることを赦された喜び」を与えられたことを深く感謝しております。

 皆様方におかれましては、残る生涯が日々お健やかであられますようにお祈り申し上げます。私に降りかかった、たび重なる苦難(火災と脳内出血)の故に、涙を流して泣いて下さった方々のことは永遠に忘れることはできません。

2000728日夜明け  聖路加国際病院脳外科病室窓辺にて 高橋照男

Eイエスの復活体とはどういうものだったのか。遺体の4次元世界への変化。

●パウロの見解・・・「霊の体」というものがある。

塚本訳Tコリ15:42-44

15:42 死人の復活もこのようである。(一つの体が死んで別の体が生まれる。)死滅の姿でまかれて不滅の姿に復活する。

15:43 恥辱の姿でまかれて栄光の姿に復活する。弱さの姿でまかれて力の姿に復活する。

15:44 (神の霊を持たない)魂だけの体がまかれて霊の体が復活する。魂だけの体がある以上は霊の体もあるわけである。

 

●塚本虎二の見解・・・「復活の体」は生前と同じような有体的姿であった。

聖書知識231号 昭和24年(1949)7月 P6-8 有体的復活

 

〇3次元の世界に住む者が第四次元からわたし達の所に現れれば、それはわたし達に考え及ばない不思議である。復活のイエスはこの4次元から現れられたので、何の不思議もない、・・(中略)・・今日の進歩した科学からすれば、こんな説明を借りずとも、極めて簡単な常識的な現象として説明できそうである。

 

〇問題はそれよりも、そんな存在がどうして肉や骨をもち、また食事などが出来るかということである。この点については、パウロが極めて合理的なまた詳細な説明を試みている(第一コリント1535以下)。彼は復活体なるもののあることを主張して、同じ肉でも人の肉、獣の肉、魚鳥の肉があるように、天的存在物には天的の「霊の体」があるという。(中略)大体生前と同じような顔付や、丈の高さ、体の格好であり、手足の疵(きず)まで依然として元のようであるらしい。しかも生前と異なり、彼は肉的の存在がうける時間空間等のすべての制約を受けず自由に行動し、またその形体の変更が出来るらしい。彼はただ認めさせようと思うときだけ認められ、去来を悟られることなく、あるいは消え、あるいは現れる。これはツァーンの註解に言う所であるが、大体当たっているように思われる。

 

●イエスは墓の中で3次元人間から4次元世界の人間(霊の復活体)に変化(栄化)させられた。その結果「墓が空になった」。そして復活のイエスはいつどこでもまた誰にでも自由に姿を現して下さる不思議な存在になった。この時空を超えた不思議な復活体が難解な三位一体の信仰の根拠である。(マタイ2820

 

F来世での復活の希望を抱くには、史実の使徒伝承を聖霊で信ずることが必要。

●来世での復活の希望を抱くには、有体的復活の伝承を「聞く事」と、聖霊を与えられてそれを信じられるようになることである。だから聖霊が与えられるようにと祈ることが必要。信仰には理性の安息のために伝承への信頼が必要。

塚本訳Tコリ6:14(聖書知識66号、昭和10年 P25 試訳)

6:14 そして神は主(キリスト)を甦えらせ給うたのであるから、その御能力をもって、また私達(の体)をも甦らせ給うであろう。

 

●人生において極度の悲しみの時にキリストは姿を現して下さる。ラザロの死(ヨハネ11:32)、ナインの若者(ルカ7:13)、ヤイロの娘(ルカ8:52)。こういう神の業は肉のよみがえりという現実の喜びだけではなく、来世で復活がありうるという希望を与えてくれる。これは神がイエスを史実として有体的に復活させて示してくれたことと同質である。我々はこれで理性の安息を得る。

G復活は神の力によって「心の目」が開かれるときに信じられるようになる。

●神は人それぞれに特殊特定の方法でイエスの復活を信じやすくしてくださる。私の場合は、胸の熱さが故に心の目が開かれイエスの「墓が空であった」ことは歴史的事実であると信じざるをえなくなった。「胸が熱くなった」というその忘れ得ぬ体験はエマオ途上の二人にも起こった。私の体験は異常ではない。

塚本訳ルカ 24:31-32

24:31 (その時)二人の目が開けて、その方とはっきりわかった。すると(また)その姿が見えなくなった。

24:32 二人は語り合うのであった、「(そう言えば、)道々わたし達に話をされたり、聖書を説き明かされたりした時に、胸の中が熱くなったではないか」と。

 

●人に復活が分かるというのは神によって「心が開」かれる時である。

 

塚本訳 ルカ 24:45-46

24:45 それから聖書をわからせるために彼らの心を開いて

24:46 言われた、「救世主は苦しみをうけて、三日目に死人の中から復活する。

 

●パウロへの復活顕現も同行者にはわからなかった(使徒9:7、22:9)。こういう個人的主観的体験でも最近の歴史学では「歴史」の範疇であり、真理だとされるようになってきている。パウロのような信仰体験も歴史の内である。

 

塚本訳 使  9:7

9:7 一緒に来た者たちは唖然としてそこに立っていた。声は聞いたが、だれも見えなかったのである。

 

●復活体は写真には写らない。心を開かれた人にのみ「心の目」で見える。このことをレンブラントは「エマオの晩餐」(1628年)の絵で表現した。絵は、二人のエマオの旅人のうちの一人だけに心の目が開かれてわかったという場面である。イエスの存在が分からなかった人の姿は真っ黒に描いている。

 

塚本訳マタ 24:40-41

24:40 その時、二人の男が畑にいると、一人は(天に)連れてゆかれ、一人は(地上に)のこされる

24:41 二人の女が臼をひいていると、一人は連れてゆかれ、一人はのこされる。

●復活のイエスはなぜエマオ途上の二人に現れたのか。二人が望みをかけていたイエスが殺されたので悲しみに沈んで「暗い顔」をしていたからである。

塚本訳 ルカ 24:17

二人に言われた、「歩きながら何をそんなに論じ合っているのです。」暗い顔をして二人は立ち止まり、

http://homepage3.nifty.com/teruterubouzu-travel/france1.html

レンブラント エマオの食卓 1628年 パリ ジャックマール・アンドレ美術館蔵

 

●神はイエスの復活を人の「心の目」を開いて有体的に現して下さる。このことは塚本訳ではその敷衍の故に明快である。(使徒230 1040)。心の目で見えたことは絵画的には肉眼で見えたように表現するが、言葉での表現も同じで肉眼で「見た」かのように表現する。見たは「理解した」の意味に通じる。

塚本訳 使徒2章30節
神は(救世主である)このイエスを(預言どおりに)復活させられました。わたし達は皆このことの証人です。(イエスの復活を目の当り見たのだから。)

塚本訳 使  10:40-41

10:40 (しかし)神はこの方を三日目に復活させ、(人の目にも)見えるようにされた。

10:41 (ただし)国民全体でなく、神からあらかじめ選ばれていた証人であるわたし達、すなわちイエスが死人の中から復活されたあとで、一緒に飲み食いした者(だけ)に見えたのです。

 

塚本訳 ヨハ 14:22-23

14:22 イスカリオテでない方のユダが言う、「主よ、いったいどういうわけで、わたし達だけに御自分を現わし、この世(の人)にはそうしようとされないのですか。」

14:23 イエスは答えられた、「わたしを愛する者は、わたしの言葉を守る。するとわたしの父上はその人を愛され、わたし達は(父上もわたしも)、その人のところに行って、同居するであろう。

●神の愛は人間が理性ではとうてい信じ難い復活を信じやすくしてくださる。復活を信じられないのは頭で知ろうとしていて神の力を信じないからである。

塚本訳 マコ 12:24

12:24 イエスは言われた、「あなた達は聖書も神の力も知らないから、そんな間違いをしているのではないか。

 

塚本訳 ヨハ 11:26

11:26 また、だれでも生きている私を信じている者は、永遠に死なない。このことが信じられるか。

H「胸が熱くなる」および「有体的復活」の言葉に対して応答がある不思議。

●いろいろな集まりで、空の墓を信じて胸が熱くなったという話をすると、少数ではあるが必ずといってよいほど、「お話を伺って私も胸が熱くなりました」とお世辞でなく真剣な態度で言ってくる人が出現する。またある信仰雑誌に「空の墓」のことを書いたら、わざわざその主筆に「胸が熱くなりました」と手紙を寄せた読者がいた。わたしはこの不思議なる応答の現象に驚くと同時に「この体験は私だけのものではない」とその真理性に自信を持った。これは聖霊の働きとしか考えられない。これが使徒信条の「聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、・・身体(からだ)のよみがえり・・を信ず」の全世界全教派に共通の普遍的真理であり真のエクレシア(マタイ1820)の姿であると信ずる。これら応答の方々は常に時空を超えた存在であることがまた不思議である。  

●2010214日、「今井館伝道聖書集会、復活の使徒伝承を継承する」で、以上の話をして「現在の牧師の三分の一は有体的復活を信じていないようだ。百害あって一利なしだから直ちに牧師をやめてしまえ!」と話したところ、聞いておられた方が来られ「私は牧師の妻です。教会は心から復活を信じていません。でも高橋さんのような方が世におられることはうれしいです」と挨拶を頂いた。この事実からも神が日本に無教会主義を起こされたのは復活の使徒伝承を継承することに目的があり、このことが日本への神の賜物であると考える。

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