死の悲しみと淋しさ。それは嘆きの河があふれる時・・・・

・・・・有体的復活の使徒伝承を信じる道がある

                    東京聖書読者会 2008.7.6  高橋照男

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@  死の悲しみや淋しさの現実。それは嘆きの河があふれる時。

A  人間は死の悲しみや淋しさをどのように克服しようとしているのか。

B  天からの力、全く別次元からの救い。救いは向こうから来る。外からの光。

C  有体的復活の信仰が定着させられた事件。

D  死の悲しみと淋しさ。・・・有体的復活の「使徒伝承」を信じる道がある。

E  死とは神が出迎えに来てくださること。キリスト教では「召される」という。

F  死は眠り。終末、再臨の日に神の力で有体的に復活させられる。

G  山口喜代子さん追悼。墓から呼び起こされる復活の朝「また会う日まで」

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@ 死の悲しみや淋しさの現実。それは嘆きの河があふれる時。

人間、この有限なるものとしての根本的な悲しみ。それは「時」に対する無力。とりもどせない過去、わからない死後。ハイデッガーの言葉。「人生とは死という壁に向かって歩む旅である。しかし多くの人は『それは自分にとっては遠い先のことだ』と思っている」。子供達に死の悲しみを味あわせなければならない悲しみ。死の悲しみはどういう時に襲ってくるのか。(楽しいことがあった日の夜、淋しい夕暮れ、冬、木枯らしの吹く日、大犬座のシリウスを見るとき、残りの年数を思うとき、宇宙はこの私を忘れてしまうのだと思うとき、癌の宣告を受けたとき、親しい人の死、肉親の死、特に母の死)聖書の事例の数々。ナインの若者(ルカ710-15)、ラザロの姉妹(ヨハ111-45)、ラマの泣き声(マタ216-18)。老いの悲しさ、淋しさ、辛さ。

「幾山河越えさり行かば寂しさの、終(は)てなむ国ぞ今日も旅ゆく」・・・若山牧水

塚本訳ルカ 7:12

7:12 町の門の近くに来られると、ちょうど、ある独り息子が死んで、(棺が)舁(か)き出されるところであった。母は寡婦であった。町の人が大勢その母に付添っていた。


A 人間は死の悲しみや淋しさをどのように克服しようとしているのか。


 思いっきり泣く。号泣する。悲しい音楽を聴く(チャイコフスキー、千の風になって)。バッハの悲しい曲(2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調第2楽章)。同質の原理(日野原重明)。あきらめる(誰だって死ぬんだ)。人間(異性や仲間)の愛に走る。宗教の団体に走る。哲学に走る(死の哲学、デーケン)。霊魂不滅思想(ギリシャ哲学)。輪廻転生(仏教、良寛、葉っぱのフレディ)。いろいろな幸福論。旧約聖書に共鳴する(ヨブ記14章1節、詩篇90篇9〜10節)。叙情歌に浸ってオイオイ泣く(カールブッセ、「山のあなた」)。飲んで騒ぐ。遊んで騒ぐ(歌、遊びのサークル、習い事、ダンス、ゴルフ)。スポーツに興じて疲れて早く寝る。しかし何をやっても満足しないことを自覚する日がいつかは来る。「行き詰る。長続きしない」という現象。ヒルティ「倫理的世界秩序」。永遠の生命を獲得しようとした不撓不屈の努力(ミイラ、秦の始皇帝の兵馬俑(へいばよう)、4大文明は永遠に生きようとする人間の幸福追求の跡。生物はみな「死ぬまい、死ぬまい」と努力している。医学の延命処置。不老長寿の薬(アガリスク)。ホスピス。自然に生き、自然に死ぬ。満足死。大往生。

「裏を見せ、表を見せて散るもみじ」・・・ 良寛

新共同 ヨブ 14:1

14:1 人は女から生まれ、人生は短く/苦しみは絶えない。

 

口語訳 詩  90:9-10

90:9 われらのすべての日は、あなたの怒りによって過ぎ去り、われらの年の尽きるのは、ひと息のようです

90:10 われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです

 

山のあなた カール・ブッセ 上田敏訳 「海潮音」より

  山のあなたの空遠く
  「(さいはひ)」住むと人のいふ。
  噫(   ああ)
、われひとと()めゆきて、
  涙さしぐみ、かへりきぬ。
  山のあなたになほ遠く
  「(さいはひ)」住むと人のいふ。

 

B 天からの力、全く別次元からの救い。救いは向こうから来る。外からの光。


1997年春、私は東京聖書読者会でそれまで10年間ヨハネ福音書を講読してきたが、第20章8節「空の墓」の個所にさしかかったときのことである。これは聖者伝説の一種で神話であり、史実ではないとする近代聖書学の旗手たちの学説を読むと頭がすっきりした。しかし胸は熱くならなかった。ところが一方それを史実と信じている人々の本を読んだときには胸が熱くなった。私の胸を熱くした人はカトリック、プロテスタント、無教会に限らないが、無教会に限って言えば2代目までには多いがそれ以後は少なくなっていることは新しい発見であった。この原体験が私にとっての復活そして使徒伝承さらには再臨信仰への開眼の起点となった。胸が熱くなったが故に一瞬に見えたものがあるからである。それは

1 空の墓は歴史的事実であること、
2 それは罪の赦しと永遠の生命の実在の証拠であること、
3 その信仰告白は地上で(歴史的に)連鎖的につながりついにこの私にまで  
  到達した。

このことである。この3つの開眼はひとえに「胸が熱くなった」ことが原因であるが、胸が熱くなることによって聖書の真理が分かると言うことはルカ24章31〜32節、エマオ途上の2人の事件が補強する。「(その時)2人の目が開けて、その方とはっきりわかった。すると(また)その姿が見えなくなった。2人は語り合うのであった、「(そう言えば、)道々わたし達に話をされたり、聖書を説き明かされたりした時に、胸の中が熱くなったではないか」と。

復活体は写真に写ったか。顕現物語の背後にある歴史的事実。パウロのエルサレム訪問は同一体験の確認行為。有体的復活を言うと、胸が熱くなる人、共鳴者が全国的に出現する不思議な現象。沖縄、福島。荒井献、佐藤研氏との往復書簡。わが名によりて2〜3人集まるところ(マタイ1820)」の意味。パウロの信仰はエルサレム教会の伝承に土台を置いている(1コリ15:3)。復活は神が起こしたもうこと。the Resurrection(キリストの復活)<resurrect(復活させる)。これは外部からの力。われわれの復活の信仰もまた神に起こされる。啓示は向こうからやってくる。有体的復活のいわゆる史実ではない不思議な事実が信仰と理性の安息。「陀様の本願」だけの仏教との違い。京都大原三千院での質問。

 

塚本訳 ルカ 7:13-15

7:13 主は母を見て不憫に思い、「そんなに泣くでない」と言って、

7:14 近寄って棺に手をかけ──担いでいる者は立ち止まった──「若者よ、あなたに言う、起きよ!」と言われた。

7:15 すると死人が起き上がって物を言い出した。イエスは『彼を母に渡された。』

 

塚本訳 ヨハ 11:43-44

11:43 こう言ったのち、大声で、「ラザロ、出て来い」と叫ばれた。

11:44 死人が手足を包帯で巻かれたまま、(墓から)出てきた。顔は手拭で包まれていた。イエスは「解いてやって(家に)帰らせなさい」と人々に言われた。

 

塚本訳 ヨハ 20:6-9

20:6 続いてシモン・ペテロも来た。彼は墓に入り、亜麻布が(そのままそこに)あるのを見た。

20:7 また頭をつつんだ手拭は亜麻布と一しょになく、これだけ別の所に、包んだまま(の形)になっていた。

20:8 すると先に墓に着いたもう一人の弟子も入ってきて、見て、信じた

20:9 イエスは死人の中から復活されねばならないという聖書の言葉が、(この時まで)まだ彼らにわかっていなかったのである。

 

口語訳 ロマ 1:4

1:4 聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。

 

C 有体的復活の信仰が定着させられた事件。

家屋の全焼・・・・天国の家は焼けないとの認識。

脳内出血・・・・・蘇生。この命は100%(99%でない)神に握られているとの認識。

母の死・・・・・・神は信仰告白なき人も救うという認識

胃癌疑惑・・・・・祈りの輪。コイノニアの実感。「胸の熱さ」により死の恐怖がやわらぐ。「死ぬ時もこのようだったら楽だなー」という思いがした経験。

 

D 死の悲しみと淋しさ。・・有体的復活の「使徒伝承」を信じる道がある。

有体的復活という「いわゆる史実ではない不思議な出来事」の使徒伝承が信仰と理性の安息。落ち着く場所はどこにあるか。カトリックの「おミサ」、プロテスタント教会の「説教」、無教会主義は聖書の「読み」。いずれもその中核に有体的復活の「使徒伝承」がなければ信者は落ち着けないことになっている。餅屋には餅が売っていなければならないが餅を売っていないおかしな餅屋がある。それは偽りの看板。無教会が聖書それ自身を読まなくなった原因は有体的復活を伝承しなくなったから。無教会主義集会の老齢化と死。神が手を引く時。無教会主義でも「使徒伝承」の行為は可能。使徒伝承は「個人」に宿る。「使徒伝承」は組織、教会、集会の維持延命ではない。また信条の文字には宿らない。「救われる者は少ないか」の質問に対すイエスのチグハグな返答の謎。救いは神の主権にある。だから求めよ、門を叩け。(もしかしたら)開けてもらえるかもしれない。救いということが分かるようにして頂けるかもしれない。この千古不滅の巨大な真理を真面目に求道してみるだけの値打はある。人は何を大切に思って生きるか。「信仰・希望・愛」。人間にとって「希望」ということは大切。「有体的復活」の希望、それは人間にとって最高の希望。

塚本訳 ルカ 13:23-24

13:23 するとある人が「主よ、救われる者は少ないでしょうか」と尋ねた。人々に言われた、

13:24 「全力を尽くして(今すぐ)狭い戸口から入りなさい。あなた達に言う、(あとになって)入ろうとしても、入れない者が多いのだから。

 

●矢内原忠雄の質問「自分の親は救われますか」。内村鑑三「さーわからない。しかし祈りたまえ」。これはイエスの答えと同じ。

 

文語訳 Tコリ13:13
13:13
げに信仰と希望と愛と此の三つの者は限りなく存らん、而して其のうち最も大なるは愛なり、

●有限なる人間の悲しみに対する神の福音は、過去の罪の贖いと有体的復活。聖書におけるイエスの有体的復活の記事は、来世が実在することの見える希望。

 

E 死とは神が出迎えに来てくださること。キリスト教では「召される」という。

余命短き人からのご連絡。黒人霊歌「揺れるよ幌馬車」。砂州を越えて・・・テニスン。

●黒人霊歌「揺れるよ幌馬車」・・(エリヤは馬車の迎えで天国に昇った。私もという願い)

軽やかに舞い下りよ すてきなチャリオット(天国の馬車)

私を故郷に連れにやって来た

 

●砂州を越えて---辞世の詩・・・・・・・テニスン

陽は沈み夜空には星
澄んだ声がわたしを呼ぶ!

 

 

 

F 死は眠り。終末、再臨の日に神の力で有体的に復活させられる。

 

死とは一時の眠りであって、終末、再臨のときに「声をかけられて呼び出され」有体的に復活する。これが本当の「お迎え」。聖書はその希望を与えてくれる。

 

塚本訳 マコ 5:39

5:39 (家の)中に入って言われる、「なにを泣いたり騒いだりするのか。子供は死んではいない、眠っているのだ。」

 

塚本訳 ヨハ 11:11

11:11 こう話して、またそのあとで言われる、「わたし達の友人ラザロが眠った。目をさましに行ってやろう。」

 

塚本訳 1コリント15:3-6

15:3まえにわたしが(福音の)一番大切な事としてあなた達に伝
えたのは、わたし自身(エルサレム集会から)受けついだのであるが、キリストが聖書(の預言)どおりにわたし達の罪のために死なれたこと、"
15:4
葬られたこと、聖書どおりに三日目に復活しておられること
15:5
またケパに、それから十二人(の弟子)に、御自分を現わされたことである。
15:6
そのあと、一度に五百人以上の兄弟に御自分を現わされた。
そのうちの多数の者はいまでも生きてい(て、わたしが嘘を言っていないことを証明してくれ)る。もっともすでに眠った者もあるにはある。

 

塚本訳Tコリ15:43-44

15:43 恥辱の姿でまかれて栄光の姿に復活する。弱さの姿でまかれて力の姿に復活する

15:44 (神の霊を持たない)魂だけの体がまかれて霊の体が復活する。魂だけの体がある以上は霊の体もあるわけである。

 

新共同 コロ 3:3-4

3:3 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです

3:4 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう

 

塚本訳ロマ 8:11

8:11 しかしイエスを死人の中から復活させたお方の御霊があなた達の中に住んでおられるなら、キリスト・イエスを死人の中から復活させたそのお方は、あなた達の中に住んでおられるその御霊によって、あなた達の死ぬべき体をも生かしてくださるであろう。

 

塚本訳 ロマ 8:23

8:23 しかし(苦しんでいるのは)創造物だけではない。わたし達自身も、(神の子にされた証拠として)御霊なる初穂を持っているので、このわたし達自身も、自分(のみじめな姿)をかえりみて、呻きながら、(正式に神の)子にされること、すなわちわたし達のこの(罪の)体があがなわれ(て、朽ちることのない栄光の体にされ)ることを、待っているのである

 

信ずればその日がいつのことであるかは大脳皮質で分からなくても満足する。

塚本訳 マコ 13:32-33

13:32 ただし、(人の子の来る)その日また時間は、父上のほかだれも知らない。天の使たちも、子(であるわたし自身)も知らない。

 

G 山口喜代子さん追悼。墓から呼び出される復活の朝「また会う日まで」

 

山口さんの人生。幼き日にお父上(針ヶ谷姓)と死別(結核)。ご母堂は喜代子さんを連れて群馬県の実家に戻る。御母堂の御苦労、林野庁善福寺寮の寮母。寮生から母子共に慕われた。弔辞は寮生。住宅公団勤務。旅行好き。聖地旅行。2007年8月に癌の宣告(5段階のうちの第4段階)。最後まで聖書勉強。春に(本など)身辺整理。ご両親の眠るお寺(新宿、西光庵)に埋骨されることを希望。2008年7月1日松戸市立病院にて午前0時30分、平安のうちに召される。享年73歳。葬儀方法の問題。仏教の偉さ。その伝統の強さ。キリスト教は罪の赦しと有体的復活が本質。福音が日本に定着するのには300年はかかるか。

口語訳 詩  103:3-4

103:3 主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、

103:4 あなたのいのちを墓からあがないいだし、いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、

 

山口さん!、死は一時の眠りです。私たちの希望は「有体的復活」にあります。

墓から呼び起こされる復活の朝「また会う日まで」いましばし。さようなら。

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