聖書の深いところは人生の苦難でわかる

武祐一郎先生の町田集会閉会にあたって

建築士 東京聖書読者会 高橋照男

 

武祐一郎先生は、聖書の深いところを人生の苦難を通して把握されたと拝察いたします。私が武先生と同じ思いにさせられたところを申し上げます。

 

1・ロマ書3章22節「ピスティス」・・・ここは普通、「人はキリストを信じる信仰によって救われる」という解釈の翻訳が多いのですが、武先生は癌になられ、そこから回復されたご経験から、ここはもう一つの解釈であるところの「人はキリストのピスティス(まこと)によって救われる」という解釈に立たれるようになりました。私も脳内出血で意識不明の床から生還させられ、この命は99%でなく100%神に握られていることをいやおうなしに理解させられました。そして人は100%神の意志で救われるのだということを理解させられました。

2・マタイ28章6節「空の墓」・・・武先生はイエスの復活の物的証拠をイエスの墓が空になっていたということに置いておられます。私は集会でこの箇所を講じたときにこれをまともに信じている人々の本を読んで「胸が熱くなる」体験をしました。イエスの復活の物的証拠を「空の墓」に置かれる先生と信仰が一致したことを喜ぶものです。

3・ロマ書8章22節「被造物のうめき」・・・武先生は軍国少年からキリストの道に転向されたご経験の持ち主です。その後は社会的実践として平和運動に挺身されてこられました。それは世の悲惨な様を見られての「うめき」です。私も母の肺がんによる苦しみの様を目の当たりに見て、「被造物のうめき」というものを身近に体験しました。

4・ピリピ2章16節「終末信仰」・・・病気、戦争、死などの人間の苦しみは「うめき」であります。これは究極的には神ご自身の介入による「万物の再生、復活」によって完成されます。罪の体が贖われます。人間は有体的に復活させられます。武先生の平和運動はこの「うめき」の一環であり、必ずやそのうめきの労苦が無駄に終わらなかったという日が訪れることでありましょう。武先生の終末への希望はここにあります。

5・ロマ書8章23節「体の贖い、有体的復活」・・・武先生は「イエスの復活は歴史的にただ一回だけ起った。それは霊の体であった」という信仰に立たれておられます。これは使徒伝承そのものです。イエスは霊の体で有体的に復活されました。同じく私たちも終末の日に体が贖われて霊の体に復活させられます。これが死の悲しみ嘆きを乗り越える人類の唯一の希望であります。

私は以上のような点で武先生と信仰が一致したことを神に感謝するものです。

                           (2007.3.11

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