正統信仰の源泉に連なる

2006年10月22日 東京聖書読者会

 

塚本虎二 聖書知識昭和30年(1955年)11月13日 雑感雑録

 

「(英国から一時帰国された好本督(ただす)氏が、・・・高橋註)何か英国へのお土産をとのことで、東京の真中に、30年来処女降誕から復活再臨までの正統信仰を文字通りに説き続けているコチコチの日曜集会があること、その会員の半数近くがギリシャ語を知っていることを、伝えてもらいたいと話した」

 

●イエスの十字架の死および復活という歴史的事実からパウロの書簡が執筆開始されるまでの約20年間(紀元約30年から50年)の間にすでに「キリスト論」といわれる今日の正統信仰の信仰告白の基本が出来上がっていた。その代表的なものがピリピ2章6-11の「キリスト賛歌」である。この部分がパウロの作ではなくそれ以前に出来上がっていた詩(歌)であるということは、この部分の文体がパウロ本来の文体と異なることから分かるのだそうであるが、悲しいかな素人の私にはその違いがわからない。しかしパウロが引用したこの「キリスト賛歌」の歌は一体どこの誰が(あるいは集団が)作ったのか、非常に興味の湧く課題である。つまり「パウロ以前の告白」の源泉はいずこ?の課題である。

ピリピ2章6-11節
[塚本訳]
"500206","ピリピ 2:6","彼は(先には)神の姿であり給うたが、神と等しくあることを棄
て難いことと思わず、"
"500207","ピリピ 2:7","かえって自分を空しうして人と同じ形になり、奴隷の姿を取り給
うたのである。そして人の様で現れた彼は、"
"500208","ピリピ 2:8","自ら謙り、死に至るまで、(然り、)十字架の死に至るまで(父なる神に)従順であり給うた。"
"500209","ピリピ 2:9","それ故に神も彼を至高く上げ、凡ての名に優る(「主」なる)名を与え給うた。"
"500210","ピリピ 2:10","これはイエスの(この尊い)名の前に、天の上、地の上、地の下にある“万物が膝を屈め、"
"500211","ピリピ 2:11","凡ての舌が”「イエス・キリストは主なり」と“告白して”父なる“神に”、栄光を帰せんためである。"


●「キリスト論」「キリスト賛歌」はパウロ以前に出来上がっていてそれがパウロに影響していることは自明のことであるが、まずピリピ2章6―11節の「キリスト賛歌」に類似あるいは同根の思想(信仰告白)を見てみよう。それは新約聖書の各所に沢山ある。これらは互いに「響きあって」いる。われわれは難しくて煩瑣な聖書学は知らなくてもこれらが心に「響けば」聖書を真に理解したことになる。

ローマ人への手紙 8:3

律法が肉に妨げられて無力になったために出来なくなったことを、神は(御子によって)成し遂げてくださった。すなわち(わたし達の)罪の(征服の)ためにその子を罪の肉の形で(この世に)遣わし、その肉(を殺すこと)において罪を罰されたのである。"[塚本訳]

ガラテヤ人への手紙ガラテヤ人への手紙 4:4

 しかし(定められた)時が満ちると、神はその御子を女から生まれさせ、律法の下に置いて、(この世に)お遣わしになった。[塚本訳]

ヨハネの第一の手紙 4:14

わたし達は(このことを)見たので証しをする。・・父がその子を世の救い主として遣わされたことを。[塚本訳]

ヨハネによる福音書 15:13

人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。[口語訳]

コリント人への第一の手紙 8:6

わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている。[口語訳]

ローマ人への手紙 1:3-4

 御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、
4 聖なる霊によれば、死人から復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。[口語訳]

コリント人への第二の手紙 8:9

あなた達はわたし達の主イエス・キリストの恩恵を知っているではないか、彼は(神の子として)富んでおられたのに、あなた達のために(人間となって)貧しくなられた、この方の貧しさによってあなた達が富むためである。"

ヘブル人への手紙 1:3-5

 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。
4 御子は、その受け継がれた名が御使たちの名にまさっているので、彼らよりもすぐれた者となられた。
5 いったい、神は御使たちのだれに対して、「あなたこそ、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」と言い、さらにまた、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう」と言われたことがあるか。[口語訳]

●これらに共通の思想は単純に次のことである。つまり神はこの世に介入して罪を赦すために血を流された。このことである。これをさらに砕いて言うと、神がその心をこの世に提示するために具体的に見える形をとられた。それが十字架と復活の歴史的事実。新約聖書は「グノーシス」思想に対決するためにこの歴史性強調のために編集された。また後年できあがる各種信条(「使徒信条」「ニカヤ信条」など)の土台もここにある。

●結論
ピリピ2章6-11節のようなキリスト賛歌の信仰告白は新約聖書全体の土台、つまりその後のキリスト教会の土台となっていることが分かる。むろんパウロもこの信仰を受け入れたのである。
 
コリント人への第一の手紙 15:3  

まえにわたしが(福音の)一番大切な事としてあなた達に伝えたのは、わたし自身(エルサレム集会から)受けついだのであるが、キリストが聖書(の預言)どおりにわたし達の罪のために死なれたこと、"[塚本訳]
●塚本訳・岩永整理版がここに敷衍で(エルサレム集会)と入れたことに深い意味を見る。

●今日ピリピ2章6-11の「キリスト賛歌」の作者は多分おそらく「エルサレムのユダヤ人原始キリスト集会」の誰か、というところまでにきりさかのぼれない。つまり作者不詳、読み人知らずの「歌」である。しかし原始キリスト集会ではこのような歌が多く歌われていたのであろう。

コリント人への第一の手紙 14:26  

すると、兄弟たちよ。どうしたらよいのか。あなたがたが一緒に集まる時、各自はさんびを歌い、教をなし、啓示を告げ、異言を語り、それを解くのであるが、すべては徳を高めるためにすべきである。[口語訳]

エペソ人への手紙 5:19

聖歌と讃美歌と霊の歌をもって互いに語り、心をもって主に歌いまた奏で、"

ヨハネの黙示録 5:9  

彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、[口語訳]

●これらを見ると「キリスト賛歌」は、誰か一人の作であるがそれを作らせ、また一緒に歌う人がいた集会の雰囲気がその背後に存在していたのであろうと、と推察することができる。
さらにこの歌の源泉を推測すれば神の霊が作者にこの歌を作らせたのだと言える。われわれはここで探求の旅を止め、満足を見出すべきである。この世の名前は誰でもよい、それは神の霊に触れた人であってその人の心の目が開かれて「胸が熱くなって」この歌を作ったのであろう。またその周囲のこれまた「胸を熱くされた人々」がこの「賛歌」を歌い支え、伝承していったのであると推測できる。天国に行けばあるいはその人たちに会えるかもしれない。

使徒行伝 16:14   

ところが、テアテラ市の紫布の商人で、神を敬うルデヤという婦人が聞いていた。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた。 [口語訳]

●その後2000年連綿と続くキリスト教はこのエルサレム原始キリスト集会の作者不詳の詩歌に起源をもつのである。そしてそれは無名の人々、しかしこの詩歌に対し心が響いた人たちによって担われてきたのである。胸が熱くされた人によって伝承されてきたのである。エクレシアとか教会の真の基礎はここにある。われわれはここに歴史的に繋がるのである。信仰告白の伝承は歴史的事実の信仰告白の連鎖である。これが教会(エクレシア)の本質である。

 

●エミール・ブルンナー「教義学V(上)」

 

・使徒たちはキリストの啓示の目撃者であり原証人である。教会は、この原始キリスト教的エクレシアと歴史的連続性にあるときにのみ使徒的である。教文館ブルンナー著作集第4巻教義学V(上)P160

 

・信仰についてのわれわれのあらゆる規定には常に、この初めの信条が共鳴していなければならない。それは、使徒たちがこの歴史的イエスの中に信仰のキリストを認識しているということである。同上P160

 

・この信仰に従ってキリスト者であることに彼が到達するのは、ただあの歴史的連鎖を媒介としてである。その連鎖は、イエスから原証人としての使徒たちを通り、この原証人の上に建てられた教会を通って彼にまで下ってくる。 同上P160

 

・歴史的な伝承そのものが教会を造るのではない。そうではなく、ただ信仰から出てくる言葉、霊に満ちた預言者的な言葉のみが教会を造る。 同上P16

 

・教会は自らを聖霊の道具として知っている。教会は聖書の文字そのものが権威であり内容であるようなシナゴーグではない。キリストとしてのイエスが誰であるかは《聖霊に》ある以外の仕方では把握され得ない。 同上P161

 

・神の自己宣伝と自己栄化は一つの歴史の中で生じている。旧約聖書も新約聖書もそれについての記録なのである。 同上P161

 

・さらに日本の無教会運動のような形成物でさえ、非常に実り豊かな奉仕が認めら得るであろう。というのはそこでもまたあの一人の救済者の使信が中心をなしているからである。

同上P173

 

・証言の言葉を信仰によって受け入れる人は、誰でも、その言葉と同時にエクレシアとの結合を受け入れるのであり、エクレシアに編入される。 同上P184

 

・それゆえ「人はエクレシアを通してのみ信仰に至る」という命題と「人は信仰を通してのみエクレシアに至る」という両方の命題とも正しい。 同上P185

 

・主はエクレシアの証しの言葉を用い、それによって御自身の自己伝達の仕事を継続する。エクレシアはそのようにして神の国を建て、人間の間に神の支配を樹立するための道具、神の手にある手段となる。 同上P186

 

・エクレシアはそれゆえこの意味において目的のための手段であって、自己目的ではない。というのは、目的は完成された神の国であるからである。 同上P186

 

・このイエス――十字架――復活の出来事を捉えることは、御自身の自己宣伝の中に現在する恵みの神によって捕らえられることである。・・・・・・ただキリスト――十字架――復活の信仰だけが完全に信仰である。 同上P236

 

     以上、ブルンナーの言うことをまとめると次のようになる。

 

エクレシアは使徒伝承の歴史的連鎖である。正統信仰から逸脱しないためには目撃証人である使徒の信仰伝承によって生じたエクレシアに連なること。

 

●もし教会なり無教会集会が「三位一体の使徒伝承」から逸脱するとエクレシアとしての連鎖は途切れて歴史上から消滅する。

 

口語訳 エペ 2:20

2:20 またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。

 

●正統信仰の源泉である使徒伝承、その連鎖に連なることが無教会主義

 

無教会主義集会の土台は人間でなく、使徒伝承に連なる三位一体の純粋な正統信仰である。これが無教会主義の本質。

 

     再び塚本虎二先生の言葉

「東京の真中に、30年来処女降誕から復活再臨までの正統信仰を文字通りに説き続けているコチコチの日曜集会がある。」

 

     内村、塚本、黒崎には三位一体の使徒伝承があった。この正統信仰なきところキリスト教はない。

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