信仰なき人はどうなるのか

午後三時祈りの友東京支部会 高橋照男 2006.10.9

 

●信仰なき人の納骨式を依頼され、「信仰なき人の救い」について考える。

●信者になったほどの人の共通の悩みや心配は「家族の中で信仰のない人はどうなるのだろう」ということ。

     これパウロ自身の問題、聖書自身の問題、ロマ書9章がそれを取り上げているが、これとてもパウロの思い込み。先生(人間)の「ご見解」に従うことは誤り。

     まずイエスの言葉に聞くことが安心。結論は「万人救済説」。これは「人の子」の親になってみればわかる。子供を授からなかった人でも必ず自分の親はいる。

 

 塚本訳  ルカ 14:3-5
14:3 イエスは自分の方から律法学者やパリサイ人たちに向かって口を切られた。「安息日に病気をなおすことは正しいか、正しくないか。」
14:4 彼らが黙っていると、その人(の手)をつかんで、病気を直してお帰しになった。
14:5 そして彼らに言われた、「あなた達のうちには、息子か牛かが井戸に落ちたとき、安息の日だからとてじきに引き上げてやらない者がだれかあるだろうか。」

     子供が病気になったときの親の気持ちは、「息子が井戸に落ちたとき」の気持ちとは言いえて妙。必死で何とかしたい。

塚本訳  ルカ 15:4-6
15:4 「あなた達のうちのだれかが羊を百匹持っていて、その一匹がいなくなったとき、その人は九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を、見つけ出すまではさがし歩くのではないだろうか。
15:5 そして見つけると、喜んで肩にのせて、
15:6 家にかえり、友人や近所の人たちを呼びあつめてこう言うにちがいない、『一しょに喜んでください。いなくなっていたわたしの羊が見つかったから』と。

     この羊は、「家出羊」。「俺のことなんか放っておいてくれ」というのかもしれない。親の心労の「99%」がこの一匹の羊に向けられるとはこれまた言いえて妙。さすが神の子イエスの譬。

     「家出羊」はどんな苦難にあっても信仰を持つようにはならない。否かえっていじけて「神などあるものか」と不信仰になる

     「家出」の心は親の気を引こうという心理。神はそんな「いじけた」心をも「包む」。

●パウロの信仰はパウロの思い込み、パウロの神学。人間の側からの観点。しかし神の心をつかんでいる。イエスの心と内的に一致する。

塚本訳 ロマ 5:7-8
5:7 (驚くべき神の愛!人間の世界では、)義人のために命をすてる者はほとんどあるまい。善人のためならば、惜しげもなく命をすてる者が、あるいはあるかも知れない。
5:8 しかしわたし達が(義人でも善人でもなく、)まだ罪人(神の敵)であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった。このことによって、神はわたし達に対する愛をお示しになったのである。

     主君の仇を打つ「赤穂浪士」は高級な精神ではない。仇討ち礼賛の日本人の精神はロマ書5章7節どまり。神の愛とは大違い。

●「予定説」と「万人救済説」は矛盾しないことの根拠は次のとおり。

塚本訳 黙  3:20
3:20 視よ、われ戸の外に立ちて叩く、人もし我が聲を聞きて戸を開かば、我その内に入りて彼とともに食し、彼もまた我とともに食せん。

     内側から戸をあけなくても神の救いの心は決まっている。救いの方針は変わらない。戸を開けたものだけが救われるのではない。

     いじけた人間は心の「戸」を閉じているが、イエスはいつまでも、開けるまで叩き続ける。

●家出羊は逃げ回ってもいつか神に見出される。つかまる。人間にではなく神に見出される。

 

 

口語訳 伝道の書  3:1-8

3:1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。

3:2 生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、

3:3 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、

3:4 泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、

3:5 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、

3:6 捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、

3:7 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、

3:8 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。

 

●この世のことは「時」が解決するというのも真理。

●生まれるときは「時」が重要、予定日。死ぬときも「時」が重要、余命。

●救いにも「時」というものがある。順序があるというのがパウロ。

 

 

塚本訳 マタイ福音書 10:29

10:29 雀は二羽一アサリオン(三十円)で売っているではないか。しかしその一羽でも、あなた達の父上のお許しなしには地に落ちないのである。

 

●人生において死別は悲しいもの。子を失った母は「慰められようとしない」(マタイ2:18)

     平均余命はある。しかし死の「時」は神が決定。死因も神がご決定。

     救いの時も神が決定。人間はあせるが神にはご計画がある。

     死ぬときも神がご一緒で、神がご存知ということを知ると安らぐ

●しかし人間は「見ても信じられない」こともある。トマスがそうであった。物を見ても信じられないことがある。贈り物を信じられない時もある。

●しかし神は人生のいつの日にか不思議な方法で「十字架」「来世の実在、復活」を信じられるようにして下さる。それによって死の恐怖を取り除いてくださる。そに結果「処女降誕」と「再臨」も信じられる。

 

塚本訳 ロマ 10:19

10:19 しかし、わたしは(なお)考える、イスラエル人は(聞くには聞いたが、むずかしくて)わからなかったのではあるまいかと。

 

     積極的な無神論者はいない。神がいるなら信じたいという人が大部分

     それにしてもキリスト教はわかりにくい。仏教の方がわかりやすい

     信仰は頭で考えてもわからないものだからわかりにくい。啓示の恩恵

 

 

塚本訳 ロマ 3:23-24

3:23 なぜか。すべての人が罪を犯したため、いまだれ一人、(かつて持っていた)神の栄光をもたない。

3:24 (さりとて失った栄光を回復する力はないので、何一つ)代価を払わず、(ただ)神の恩恵によって、キリスト・イエスによるあがないの力で、(神に)義とされる(道が設けられた)のである。

 

●人間の側の行為である「悔い改め」や「信仰」や「信仰告白」で救われるのではない。神の側の一方的な絶対恩恵による無条件の罪の赦しで救われる。「洗礼」や信仰告白は救われた者の表現。救いが先で表現は後。

     私の母は、私の40年間の祈りも空しく、ついに昏睡状態の臨終に陥ったが、無意識のうちに私の名前を4回呼んだ。これで私は神は母に信仰が無くても救うのだと直感した。この時信仰上の大革命がおきた。

●キリスト教は「絶対恩恵による無条件の罪の赦し」がその本質

 

新共同 テト 2:11

2:11 実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。

 

新改訳 Tペテ3:18-19

3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

3:19 その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。

 

新改訳 使  10:42

10:42 イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。

 

●神は死者の神でもある。(マタイ22章23−33復活問答)

●生前、キリスト教や信仰や宗教ということに「縁」がなかった人にも神は死後でも尋ね、探し求める。(ルカ15章1−7いなくなった羊の譬)

     神は来世でも人の霊を救う。

 

 

塚本訳 Uコリ2:15-16

2:15 というのは、わたし達は救われる者の間でも、滅びゆく者の間でも、神にささげられるためのキリストのよい薫である。

2:16 ある者には、死から死へみちびく薫であるが、ある者には、命から命へみちびく薫りである。(ああ、)一体だれにこんなことが勤まろう。

 

●不信者に囲まれてこの世を生きる信者の生き方。神に任せる「祈り」

     苦難のパウロには、自分にはそれが務まるという自信がここに読める

     神は何とかして万人を救おうとしてくださる。苦難と不幸がその証拠

 

     イエスの来世観は「この世と来世は同じ原理」。

     死人は神のもとで生きている。アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、エリヤ、ラザロ。

 

塚本訳 マコ 9:2-9

9:2 (それから)六日の後、イエスはただペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山にのぼられた。すると彼らの見ている前でイエスの姿が変った。

9:3 着物(まで)が真っ白に輝きだし、この世のどんな晒し屋でも、これほど白くは出来ないくらいであった。

9:4 するとエリヤがモーセと共に彼らにあらわれ、二人はイエスと話していた。

9:5 ペテロが口を出してイエスに言う、「先生、わたし達(三人)がここにいるのは、とても良いと思います。だから小屋を三つ造りましょう。あなたに一つ、モーセに一つ、エリヤに一つ。」

9:6 彼はなんと言ってよいかわからなかったのである。三人とも怯えていたから。

 

塚本訳 マタ 22:30-32

22:30 復活の折には、めとることもなく嫁ぐこともなく、ちょうど天の使いのようである。

22:31 死人の復活については、(聖書にはっきり書いてある。)神があなた達に言われたこの言葉を読んだことがないのか。──

22:32 『わたしはアブラハムの神、またイサクの神、またヤコブの神である』と。(ところで)神は死人の神ではなく、生きている者の神である。(だからアブラハム、イサクなども復活して、今生きているわけではないか。)」

 

塚本訳 ルカ 16:22-26

16:22 やがて乞食は死んで、天使たちからアブラハムの懐につれて行かれ、金持も死んで葬られた。

16:23 金持は黄泉で苦しみながら、(ふと)目をあげると、はるか向こうにアブラハムとその懐にいるラザロとが見えたので、

16:24 声をあげて言った、『父アブラハムよ、どうかわたしをあわれと思ってラザロをよこし、指先を水にひたしてわたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの焔の中でもだえ苦しんでおります。』

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