死んだらどうなるのか

母からの宿題 

 

2006.1.22              東京聖書読者会 高橋照男

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ハイデッガー

「人生は死の壁に向かって歩む旅であるが、多くの人は自分にとってそれはずっと先のことだと思っている」

 

宮沢賢治

「雨ニモマケズ」の一節

西ニツカレタル母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ

南ニ死ニソウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

 

肺癌の痛みで苦しむ母との対話(20043月)

       私「天国に行けば痛みはなくなるよ」

       母「どうしてわかるの。行って見てきたの」

       私「聖書にそう書いてある」  

       母「あなたは、見ないものを信じて喜んでいる」と冷笑。

       間もなくして母は息を引き取った。

母を信仰に導けなかった悔いが残る。母から宿題が与えられた。

       

1・人間にとって死は不安、悲しみ、嘆き、恐怖である。

不安  痛みなく逝けるか。周囲に迷惑をかけずにポックリ死にたい

悲嘆  親しき者との別離。肉親と永久に滅却する恐怖。特に両親との離別。

恐怖  この私が全宇宙から永久に滅却する恐怖。誰からも忘れられる嘆き。

不信  来世をどうして信じられるか。天国では痛みがないというが

行って見てきたのか。母からの重い宿題。人生の課題

 

2・死の悲しみをどう克服するか。・・・人間はいつかは死ぬ

医学  延命処置、緩和ケア ホスピス、英国は治療と疼痛緩和を並存。

科学  ジェームズ・ワトソン著「DNAに魂はあるか」。科学に平安なし。

諦念  死後になにかありそうだとの漠たる思い。ホスピス遺族会での体験

信仰  人間、どうせ死ぬのなら来世への希望をもって安らかに死にたい。

  

3・永遠の生命と復活という驚天動地の朗報、旧約から新約へ

 

  旧約の思想

 

●神は土の人間に息を吹き入れる。息を引き取る。英語では息が出てゆく

expire)  神の息が命の本質

 

新共同 創  2:7

2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

 

●霊は神が引き取る。神に「帰る」「戻る」という旧約の思想。宗教に共通

 

口語訳 ヨブ 1:21

1:21 そして言った、/「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。

 

新共同 詩  90:1-3

90:1 【祈り。神の人モーセの詩。】主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。

90:2 山々が生まれる前から/大地が、人の世が、生み出される前から/世々とこしえに、あなたは神。

90:3 あなたは人を塵に返し/「人の子よ、帰れ」と仰せになります。

 

新共同 ル 23:46

イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた

 

 

新約の喜び、福音

 

●新約の喜びは死後の「復活」と永遠の生命。福音の本質

●しかし、その永遠の生命ということが分かりにくい。

●律法学者、金持ちの青年、ニコデモの疑問質問は当然。

 

塚本訳 ルカ 10:25(親切なサマリヤ人の話)

10:25 するとそこに、ひとりの律法学者があらわれて、イエスを試そうとして言った、「先生、何をすれば永遠の命がいただけるのでしょうか。」

 

塚本訳 マタ 19:16(金持ちの青年)

19:16 するとそこに、ひとりの人がイエスの所に来て言った、「先生、永遠の命を得るには、どんなよいことをすればよいでしょうか。」

 

塚本訳 ヨハ 3:3-4(ニコデモとの対話――新生の秘密)

3:3 イエスが答えて言われた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、(徴を見て信じたのではいけない。)人は新しく生まれなおさなければ神の国にはいることは出来ない。」

3:4 ニコデモがイエスに言う、「(このように)年を取った者が、どうして生まれなおすことが出来ましょう。まさかもう一度母の胎内に入って、生まれなおすわけにゆかないではありませんか。」

 

●永遠の生命を、物理的、空間的、時間的に理性が満足するように大脳皮質で考えると行き詰まり、解決できなくなる。不明。神の証明が不可能なのと同じ。

●心は脳の働きと解明されているが、それでは霊も脳に存在するのか。

●永遠の生命を理性(大脳皮質)に満足するように説明することはできない。それは不思議なことで理性では説明できない。あえて言えば神との関係概念。神との交わりができればその大脳皮質の質問はやむ。神の霊に触れると一瞬に氷解。

inspiration=霊感 You are my inspiration.「あなたは命の源」「あなたがいなければ私は死んだも同然」という関係に酷似。

 

塚本訳 ヨハ 17:3

17:3 永遠の命とは、ただひとりのまことの神なるあなたと、あなたが遣わされた(子)イエス・キリストとを知ることであります。

 

塚本訳 ヨハ 4:24

4:24 神は霊である。だから礼拝者も霊と真理とをもって礼拝せねばならない。」

 

●霊に生れるとはどういうことなのか。

●霊に生れるという不思議は「風」の譬がわかりやすい。どこから来てどこへ行くかわからない。分からなくては大脳皮質としては不満だが、わかっても不満。

●無教会主義集会は「来るものを拒まず、去るものを追わず」「風と共に去りぬ」

●クリスチナロゼッティの「誰が風を見たでしょう」はヨハネ3章8節が根拠

 

塚本訳 ヨハ 3:6-8

3:6 肉によって生まれたものは肉であり、霊によって生まれたものだけが霊である(から)。

3:7 『あなた達は新しく生まれなおさねばならない』と言ったからとて、すこしも不思議がることはない。

3:8 風[プニューマ]は心のままに吹く。その音は聞えるが、どこから来てどこに行くか、あなたは知らない。霊[プニューマ]によって生れる者も皆、そのとおりである。

 

●永遠の生命と何か。それは「植物」の生育で考えるとわかりやすい。イエスもパウロもそうした。しかしそれはあくまで単なる説明。人間の言葉による説明からでは永遠の生命はわからない。神の霊に触れればわかる。そのときに疑問が一瞬に氷解する。ヨブの体験はすべてのクリスチャンに共通。福音伝承と受容。

 

塚本訳 ヨハ 12:24

12:24 アーメン、アーメン、わたしは言う、一粒の麦は、地に落ちて死なねば、いつまでもただの一粒である。しかし死ねば、多くの実を結ぶ。(だからわたしは命をすてる。)

 

塚本訳 マコ 4:26-28

4:26 また言われた、「神の国はこんなものだ。──ある人が地に種を蒔き、

4:27 夜昼、寝起きしていると、種は芽生えて育ってゆくが、本人はその訳を(すら)知らない

4:28 (すなわち)地はひとりでに実を結ぶので、初めに茎、次に穂、次に穂の中に熟しきった粒ができる。

 

塚本訳 Tコリ15:35-40

15:35 しかし、ある人は言うかも知れない、(かりに復活があるとしても、)どんな風にして死人が復活するのか、どんな体で来るのかと。

15:36 訳のわからない人!あなたがまくものは、死ななければ生かされないのだ。

15:37 そしてあなたのまくものは、やがて出来る体をまくのではなく、たとえば麦にしても何かほかの種類にしても、裸の粒にすぎないのである。

15:38 しかし神は御心のままにそれに体をお与えになる、しかもそれぞれの種に独得の体を。

15:39 すべての肉が同じ肉ではない。人間の(肉)がちがい、家畜の肉がちがい、鳥の肉がちがい、魚の(肉)がまたちがう。

15:40 天の体があり、地の体がある。しかし天のものの輝きは別であり、地のもののはまた別である

 

口語 ヨブ425 

わたしはあなたのことを耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたしま

 

●人間の細胞は赤子で2兆個、大人で50兆個。脳細胞だけでも150億個。心も精神も将来は科学で解明されていくであろうが、霊の解明困難で学者も匙を投げる。霊のことは科学的探究の姿勢ではわからないようになっているのではないか。

 

塚本訳 Tコリ15:42-44

15:42 死人の復活もこのようである。(一つの体が死んで別の体が生まれる。)死滅の姿でまかれて不滅の姿に復活する。

15:43 恥辱の姿でまかれて栄光の姿に復活する。弱さの姿でまかれて力の姿に復活する。

15:44 (神の霊を持たない)魂だけの体がまかれて霊の体が復活する。魂だけの体がある以上は霊の体もあるわけである

 

●死後に何かありそうだとの漠たる思いは人類の共通現象。御霊前という言葉。

●イエスもパウロも死は眠りであるという。これも人類に共通の思い。「安らかにお眠りください」。死は眠りでも、復活なしの眠りは悲しい。朝がこない夜と同じ。

●1992年4月15日腎臓結石摘出手術で全身麻酔4時間の空白。無意識体験。

「高橋さん!終わりましたよ」との看護婦の声で目覚めた。復活はこれと同じか。

 

塚本訳 ヨハ 11:11

11:11 こう話して、またそのあとで言われる、「わたし達の友人ラザロが眠った。目をさましに行ってやろう。」

 

塚本訳 マタ 9:24

9:24 言われた、「あちらに行っておれ。少女は死んだのではない、眠っているのだから。」人々はあざ笑っていた。

 

新共同 Tコリ15:51-52

15:51 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます

 

塚本訳 Uペテ 3:8

 

3:8愛する者よ、“主の前では”一日が千年の如く、“千年”が一“日
の如く”である、この一つの事を忘れるな。"

 

●聖書は眠りの後に「復活」ということがあると告げる。

●復活が確実であることを理性に安息させるイエスの奇蹟。見える形。

●神は現代の我々にも信じられるように「不思議なこと」をしてくださる。

●極度の悲しみの時に与えられる不思議な慰めの数々の実例

 

塚本訳 ヨハ 11:43-44

11:43 こう言ったのち、大声で、「ラザロ、出て来い」と叫ばれた。

11:44 死人が手足を包帯で巻かれたまま、(墓から)出てきた。

 

●復活が確実である最大の証拠は、神がイエス自身を霊の体で有体的に復活させたこと。

●われわれも「一人一人が霊の体をもって人格的に復活する」(昭和16年5月、聖書知識317号、「基督教と復活」)。無教会主義は正統信仰を伝承してきた。

 

新共同 Tコリ15:20

しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂になられました

 

新共同 Uコリ4:14

主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。 

 

新共同 Tコリ15:52

15:52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます

 

●死んだら自動的に復活するようになっているのではなく、神に呼び出されて眠りから覚める。あくまでも神の主権による呼びかけで復活させられる。

●神の想起(思い出すこと)で声をかけられて目覚めさせられる

 

口語訳 ルカ 23:42

23:42 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。

 

私たちは本当に復活させられるか、それは確実か。呼ばれなかったらどうするか不安が残る。生きているうちに一生懸命祈ってお願いしておくことが大切。

●見ないものをどうして信じられるか。大脳皮質で信じようとする方法では心に平安はこない。「全人類救済論」を説かれてもこの私はどうかという不安が残る。

 

塚本訳 Uコリ5:1-7

5:1 なぜ(こんな希望に生きることができるの)であろうか。もし地上の家であるわたし達のこのテント、(この肉体)がこわれるならば、天に、神の建てられた建物、(人間の)手で造らない永遠の家をいただいていることを、わたし達は知っているからである。

5:2 どうしてであろうか。わたし達はこのテントにいて、天の住いを上に着たくてたまらずに呻いているからである。(この憧れと呻きこそ、永遠の住いのある証拠ではないか。)

5:3 ほんとうにもしこれを着たならば、裸(の恥しい姿)であることはないであろう!

5:4 それで、わたし達のこのテントにいる者は、重荷に呻いている。これを脱ぎたい(つまり死にたい)のではなく、(天の住いを)上に着たいからである。これは死ぬべきものが命に飲み込まれるためである。

5:5 このことがわたし達に出来るようにされたお方は神であり、このお方がその手付けとして御霊を下さったのである。

5:6 だから、わたし達はいつも心強くあり、また、この体に同居しているあいだは主から離れて別居していることを知っている、

5:7 ──というのも(いま)わたし達は(主を)見ることによってではなく、信仰によって歩いているからである。──

 

新共同 Tペテ1:7-8

1:7 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。

1:8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています

 

●来世と復活が確実である証拠。

●来世と復活が信じられる喜び。見なくても信じられるのはなぜか。

神の霊に触れるから。

●弟子達が有体的復活の霊体のイエスに出会えた時の喜びの連鎖反応。

●教会の本質、聖徒の交わりの本質。その実在が復活の証明。信仰の補強。

●神の印鑑としての聖霊とエクレシア。胸が熱くなるのは神の霊に触れたこと。

 

塚本訳 ルカ 24:30-32

24:30 一しょに食卓について、(いつものように)パンを(手に)取り、(神を)讃美したのち、裂いて渡されると、

24:31 (その時)二人の目が開けて、その方とはっきりわかった。すると(また)その姿が見えなくなった。

24:32 二人は語り合うのであった、「(そう言えば、)道々わたし達に話をされたり、聖書を説き明かされたりした時に、胸の中が熱くなったではないか」と。

 

●教会(集会)の実在と存続は神の霊が実在している証拠。来世と復活の確実性。

●使徒信条の伝承。讃美歌566番。「ミサ曲」のなかのクレドー

我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン。

●キリスト教は霊のことだからわかりにくい。仏教は大脳皮質の心に向かって説くからわかりやすい。

 

塚本訳 Tコリ2:11-16

2:11 なぜなら、(たとえば)人間のことも、その人間の中にある霊のほかに、いったいだれがわかっていよう。そのように神のことも、神の霊のほかに、わかった方はいままでなかった。

2:12 しかしわたし達はこの世の霊でなく、神から来るその霊を戴いた。それは、神から恩恵として賜わったもの(の何であるか)が、わかるためである。

2:13 またその(賜物の)ことをわたし達が話すにも、人間的な知恵に教えられた言葉によらず、御霊に教えられた言葉による。霊のことに霊のことを当てはめ(て解しようとす)るのである

2:14 しかし(御霊を持たない)生まれながらの人間は、神の霊から出てくることを受け入れない。彼にはそれが馬鹿なことなのである。またそれを理解することも出来ない。(霊のことは)霊的に判断されねばならないからである

2:15 反対に、霊の人はすべてのことを判断することができるが、しかし彼自身はだれからも判断されることがない。

2:16 なぜなら(聖書に)、『だれが主の御心を知って、主を教えることができるか』とあるからである。ただわたし達(主キリストを信ずる者)は、キリストの(霊を持ち、その)心を持っているのである

 

●霊は歴史外のことだからわかりにくい

●聖書学者リーツマンの見解

●聖書学者荒井献先生の見解

●歴史学者清永昭次先生の見解

●歴史とは何か

●「わかる」ということの三種

 

「最近リーツマンという学者が初代教会の歴史を書いたが、それに、キリストの復活の事実は歴史的研究の範囲外であって、ただ人間の霊魂が永遠なるものに接触する時にわかる、と言っているのは真に然りである」(塚本虎二「聖書知識」昭和18年3月、第159号、「基督教と復活」)

 

●歴史とは信仰のあるなしにかかわらず万人が認めること、わかること、写真に写ること。発掘されること。歴史の定義がそうだとすればキリストの復活は歴史内のことではない。

●「わかる。信じられる」ということの三種

脳でわかること 左脳・・・数学、物理、暗記物 共通テスト

          右脳・・・藝術、道徳心、精神、仏教

          小脳・・・運動、バランス

  霊でわかること  ・・・・信仰、聖書、基督教、来世、復活 

●塚本先生が聞かれた「神は愛なり」は、鼓膜振動ではなく霊の働き

●歴史の概念としては、「信仰現象、霊の実在現象は歴史のうち」ということになりつつある。「使徒の働き」の現象などはそのこと。見えるものの背後の実在。

 

4・信仰をもたないで死んだ人はどうなるのか。

 

●パウロの悩み。信仰なき者の救いはどうなるのか。

●神は信仰なくして死んだ人をも探し求める。信仰なくして死んだ人にも救いのチャンスがある。神は死んで眠っている人にもなお神であり続ける。探し求めてくださる。人は死んでも眠っているだけで生きている。

●使徒信条

 死にて葬られ、陰付(よみ)にくだり、

 

塚本訳 Tペテ3:18-20

3:18 というのはキリスト(御自身)すら罪の(贖いの)ために、義しい人でありながら義しからぬ人々のために、ただ一度死に給うたのである。これは君達を神に連れ行くためで、彼は肉では殺され給うたが、霊では活かされ、

3:19 且つ霊で行って、(陰府の)獄に閉じ込められていた(悪)霊達に(救いの福音を)宣べ給うた

3:20 彼らはかつてノアの日に、箱船が造られる間神が寛容をもって(悔い改めを)待ち給うた時不従順で、(ただ)小数の者、すなわち(ノアとその家族)八人(だけ)がこの箱船に入り水を通って救われた。

 

塚本訳 ルカ 15:4

15:4 「あなた達のうちのだれかが羊を百匹持っていて、その一匹がいなくなったとき、その人は九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を、見つけ出すまではさがし歩くのではないだろうか

 

塚本訳 ルカ 19:5-7

19:5 イエスはその場所に来られると、ザアカイを見上げて言われた、「ザアカイ、急いで下りておいで。きょうはあなたの家に泊まることになっているから。」

19:6 ザアカイは急いで下りてきて、喜んでお迎えした。

19:7 皆がこれを見て、イエスは(税金取りのような)罪人の所に入りこんで宿を取った、と言ってぶつぶつ呟いた。

 

塚本訳 マタ 21:28-32

21:28 いったいあなた達はどう思うか。──ある人に二人の息子があった。長男の所に行って、『坊や、きょう葡萄畑に行って働いてくれ』と言うと、

21:29 長男は『いやです』と答えたが、あとで後悔して出かけた

21:30 つぎに次男の所に行って同じように言うと、こちらは、『お父さん、承知しました』と答えたが、行かなかった。

21:31 この二人のうち、どちらが父の心を行ったのだろうか。」「もちろん長男」と彼らが答える。イエスが言われる、「アーメン、わたしは言う、税金取りや遊女たちは、あなた達よりも先に神の国に入るであろう

21:32 そのわけは、(洗礼者)ヨハネが義の道を示しに来たのに、あなた達は彼を信ぜず、税金取りや遊女の方がかえって信じたからだ。しかしあなた達は(あの人たちが悔改めるのを)見たあとでも、後悔して彼を信じようとしなかった。

 

塚本訳 ルカ 5:29-32

5:29 レビがイエスのために家で大宴会を催すと、税金取り、その他の人々が大勢、(イエスや弟子たちと)共に食卓についていた。

5:30 パリサイ人とパリサイ派の聖書学者が弟子たちに向かってつぶやいた、「なぜあなた達は税金取りや罪人と一しょに飲み食いするのか。」

5:31 イエスはその人たちに答えられた、「健康な者に医者はいらない、医者のいるのは病人である。

5:32 わたしは正しい人を招きに来たのではない、罪人を招いて悔改めさせるために来たのである。」

 

塚本訳 ヨハ 5:5-6

5:5 するとそこに三十八年病気の人がいた。

5:6 イエスはその人が横になっているのを見、すでに長い間わずらっていることを知ると、「直りたいか」とたずねられた

 

● 救われたいと思いさえすれば救われる。呼べば救われる

            不遇な育ちの人、失敗人生の人こそ救われる。

            絶対恩恵による無条件の罪の赦し。生前の生き方、信仰の有無によらない。

            母は昏睡状態になったとき私の名前を4回も呼んだ。私に平安が訪れた

 

口語訳 ルカ 14:26

14:26 「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。

 

塚本訳ロマ 10:12-13

10:12 (「すべて」と言う以上、)ユダヤ人も異教人も、その間になんの差別もないのである。なぜなら、同じ一人の方がすべての人の主であって、御自分を呼ぶすべての人に、あり余る恩恵をお与えになるからである

10:13 ほんとうに(預言者ヨエルが言うように、)『主[キリスト]の名を呼ぶ者はすべて救われる。』

 

塚本訳 ルカ 11:10-13

11:10 だれであろうと、求める者は受け、さがす者は見つけ、戸をたたく者はあけていただけるのだから。

11:11 あなた達のうちのどんなお父さんでも、子が魚を求めるのに、魚の代りに蛇をやるだろうか。

11:12 また卵を求めるのに、蝎をやるだろうか。

11:13 してみると、あなた達は悪い人間でありながらも、自分の子に善い物をやることを知っている。まして天の父上が、求める者に聖霊(という善いもの)を下さらないことがあるだろうか。」

 

塚本訳 ヨハ 1:13

1:13 この人たちは、人間の血や、肉の欲望や、男の欲望によらず、神(の力)によって生まれたのである。

 

●人間は死んだとしても神の目には眠っているだけで生きれいる。眠りは死ではない。神は死んだ人の神でもある。死後も神が支配する。

●「あなたが先に死んでも、私はずっとあなたの妻です」という人生観は最高。

 

塚本訳 マタ 22:31-32

22:31 死人の復活については、(聖書にはっきり書いてある。)神があなた達に言われたこの言葉を読んだことがないのか。──

22:32 『わたしはアブラハムの神、またイサクの神、またヤコブの神である』と。(ところで)神は死人の神ではなく、生きている者の神である。(だからアブラハム、イサクなども復活して、今生きているわけではないか。)

 

●救いの確かさについて。

 

カトリック・・・・・神父の権威による秘蹟に預かる。救いの客観性を強調。

プロテスタント・・・信仰者本人の主観。牧師の判断で洗礼を授ける

無教会・・・・・・・神の主観。神ママ。誰が救われるかは神の御胸次第。

          最後まで不安と信仰が存続。それでいいのだ。洗礼とか教会員になるとかの人間的作業での安心は信仰に禁物

 

●無教会における救いの確かさは無教会者の生きている姿。その身体の実在。

●信者が身体をもって今この世に生きているというのは、教会以上、組織以上、集会以上、エクレシア以上。

●神の国の理解は、ルイ14世の「朕は国家なり」の言葉が適切。

 

塚本訳 ルカ 12:23

12:23 命は食べ物以上、体は着物以上(の賜物)だから。(命と体とを下さった神が、それ以下のものを下さらないわけはない。)

 

塚本訳 ヨハ 2:20-21

2:20 ユダヤ人が言った、「このお宮を建てるには四十六年もかかったのに、あなたは三日で造るというのか。」

2:21 しかしイエスは自分の体のことを宮と言われたのであった

 

●クリスチャンの生涯とは、死の眠りから神により呼び覚まされて復活させられる「希望」に生きること。

 

また、会う日まで。

See you again in heaven!!

 

 

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