信仰なき者の救い・・・黄泉がある
東京聖書読者会 高橋照男 2007.6.3
@ 死後の状態への不安
●東北の某氏から「黄泉(よみ)」についてどう考えるかという問いがあった●人間、死んだらどうなるか。どこへ行くのか。どうしたらこの不安から解放されて安心立命を得られるか。これ古来から人類の最大の疑問かつ課題。王も僕もみな死ぬ。社会的に偉い人も偉くない人も死ぬ時は同じ。ローマ法王、内村鑑三、塚本虎二、大熊好子、藤林益三みな同じ。全員罪人で死ぬ。そこに差別はない。社会的上下はない。物理的現象としては骨と灰と煙となる。●どんな人間も死後は悪臭を放つ。イエスの体も悪臭を放つので死体に香料を塗られた。人間は誰でも等しく土の器であり、腐る肉の持ち主である。穢れである。
塚本訳 ロマ
3:23
3:23
凡ての人、罪を犯したれば神の榮光を受くるに足らず、
●でも「死後のその先に何かありそうだ」と述懐したのは母が亡くなったホスピスの担当医。彼はクリスチャンではない。年間100人以上をも看取る。●死んだあとのことは「行って見てきて報告した人がないからわからない。信ずべきもの●末期の肺がんで肩で息をして苦しんでいた母に、「天国へ行けば楽になる」と言うと、「照男さん行って見てきたの?」と真剣な顔つきをして聞かれた。「聖書にそう書いてある」と言うと、「あんたは見ないものを信じて喜んでいる」と言って苦笑した。返す言葉がなかった。あのとき「信ずるんだよ」と言ったとしてもそれは無理なことであった●人は、人間の力では救えない。
口語訳
黙 21:3-4
21:3
また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
21:4
人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
A死後の不安を解消するには二つの道がある。それは「知識」か「霊」
●来世のこと、永世のことで安心立命するには二つの方法がある。その第一の道は「知識」である。「知識」はよく人間を解放する。自由にする。来世の様子を仔細に知れば安心というものである。天国の様子、黄泉の様子、地獄の様子、そしてどうすれば黄泉や地獄ではなく一足飛びに天国に行けるか。「どうすればよいのか」その方法の知識である。あるいは「死の哲学」「諦念の思想」である●その第二の道は「霊」の道である。霊に触れて信に到る道である。これが宗教の道、信仰の道である。この道がありうることをイエスは次のように言う
塚本訳 ヨハ
14:6
14:6
イエスは言われる、「わたしが道である。また真理であり、命である。(手段であると同時に目的であるから。)わたしを通らずには、だれも父上の所に行くことはできない。
B第一の道は「知識」による不安の解消・・・ところが知識では安心しない
●その第一の道は「知識」である。人間の究極の不安、地獄の苦しみの恐怖を救うために商売としての宗教が成り立つ。カトリックの免罪符、水子地蔵。そして職業宗教家が生まれ、宗教を商売にする。すべて「知」に対する働きかけ、知の満足を目指す●身内の死に遭遇した時の人間の嘆きは大きい。このとき大脳皮質への「知」による慰めは効き目がない。実際に効き目がなかった実例二つ。●まず第一の実例。塚本先生があるとき子を失った母親を慰めに行ったが心が通じず、先生は反省。子供を失った母親の嘆き悲しみは大きく、誰からも慰められようとしない。
塚本訳 マタ 2:17-18
2:17 その時、預言者エレミヤをもって言われた言葉が成就したのである。──
2:18 『声がラマに聞えた、──(ラケルの)』はげしい『わめきと、なげきの声である。ラケルはその子らのために泣くばかりで、慰められようとしない、子らがもういないので。』
●第二の実例。私の若いときからの親友は57歳の若さで急死した。彼は一人息子であった。そのご母堂の嘆きは大きく、私に取りすがって慟哭された。私は言葉もなくただ背中をさするだけだった。御親戚からの慰めの電話にも首を横に振って出ようとはしなかった。
塚本訳
ルカ 7:12-14
7:12
町の門の近くに来られると、ちょうど、ある独り息子が死んで、(棺が)舁き出されるところであった。母は寡婦であった。町の人が大勢その母に付添っていた。
7:13
主は母を見て不憫に思い、「そんなに泣くでない」と言って、
7:14
近寄って棺に手をかけ──担いでいる者は立ち止まった──「若者よ、あなたに言う、起きよ!」と言われた。
C第二の道は「霊」の臨在とそれを信ずる道・・・これが究極の安心
●病人ラザロが死んだとき、その兄弟マリヤとマルタの嘆きは大きかった。そのときマルタはイエスに言う。「最後の日の復活の時に生き返ることは、知っています」(塚本訳ルカ11:24)と。つまり終末の時に復活がありうることを頭で知っていても慰めにはならなかった。●このことは何を教えるか。死後どうなるかを深く聖書を頭で調べてもそれで心の安心、霊魂の満足は得られない。そこには信仰がないからである●マルタは人類は遠い将来全員が自動的に復活すると考えていた●ではイエスはどうしたか。イエスはマルタを慰めるにあたって人格という霊の風、人格の臨在でせまった。マルタにとっては将来の出来事の知識でなく今ここに向こうからやってきた霊の風。圧倒的な霊の臨在で安心した。
文語訳 ヨハ
11:24-25
11:24
マルタ言ふ『をはりの日、復活(よみがへり)のときに甦(よみが)へるべきを知る』
11:25
イエス言ひ給ふ『我は復活(よみがへり)なり、生命(いのち)なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん。
●この霊の人格の実在の圧倒に打たれたマルタは言う。
塚本訳 ヨハ 11:27
11:27 イエスに言う、「はい、主よ、(信じます。)あなたが救世主で、神の子で、世に来るべき方であると、私は信じています。」
●マルタはこの霊の臨在ではじめて安心した。これが大脳皮質レベルでの第一の「知」の道ではなく、第二の道である「霊」の臨在による安心の道である。そして神からの働きかけによる応答としての信仰。これが人間にとって本当の安心立命の道。信仰の世界である。●その後ふたたびラザロは死んだはずだが、そのときのマリヤとマルタの嘆きの記事は聖書にない。神の働きかけによるラザロのよみがえりの事実を目の当たりに見て来世の実在をすっかり信じられたから安心していたのであろう●神はご自分を愛する人にのみその姿を現すというのが救いの現実。●しかし、求めること自体が神を愛すること。「求めよ!」
塚本訳 ヨハ
11:5
11:5
イエスはマルタとその姉妹ラザロとを愛しておられた。
塚本訳 ヨハ
14:21
14:21
わたしの掟をたもち、これを守る者、それがわたしを愛する者である。わたしを愛する者はわたしの父上に愛され、わたしもその人を愛して、その人に自分を現わすであろう。(だからわたしを愛する者だけが、わたしを見ることができるのだ。)」
D問題は信仰なき者の救い・・・クリスチャン特有の心配事
●しかし問題は、自分一人の安心立命のことではなく、信じないで死んだアノ人のことである。それは我々の身内に大勢いる。それに今生きている親類縁者の者でも死ぬまでにはとうてい信じそうにない頑固で偏屈なアノ人、どんな苦難にあっても信じそうにないアノ人。アノ人たちは一体どうなってしまうのだろう。死んだら即刻地獄行きだろうか。われわれのこの不安と悩みには大きいものがある●聖書の告げるところによれば、どんなに善良で親切で人間的にすばらしい人であっても、そのままでは救われない。天国には行けない。残酷ではあるがいたし方がない。このことを知っていないとキリスト教はわからない。●親が、また両親が熱心なクリスチャンでも子供はクリスチャンではない例がほとんど。子供がクリスチャンでも親兄弟がクリスチャンではない例がほとんど。主人がクリスチャンでも妻はさっぱり。夫人がクリスチャンでも夫はさっぱり。それが普通で一般。こういう場合のクリスチャンの悩みは深い。「一体アノ人はどうなってしまうのだろう」という疑問に陥る。この悩みは深刻である。これはクリスチャンたるものの特有の悩み。十字架。●なまじクリスチャンになってしまったばかりにこんな悩みがあるのだ●ここにクリスチャン人生80年の霊と肉の戦いの涙がある。新約聖書はそういうときの慰めに力がある。
塚本訳 マタ
5:11
5:11
わたしゆえに罵られたり、迫害されたり、あらん限りの根も葉もない悪口を言われたりする時、あなた達は幸いである。
Eそのとき陰府(よみ)、黄泉(よみ)の存在は慰め。そこは救いの場所
●このようなとき、聖書が伝える「黄泉」という存在を知ることは、「知識」のレベルではあるが慰めと力になる。つまり信じないで死んだ人も「黄泉」の世界で神の導きと救いにあずかることができるというのだ。●ユダヤ人に死んだらどこへ行くのかと尋ねるとシェオール(ヘブライ語)=陰府(よみ)、黄泉(よみ)と答えるという●日本語の辞書では黄泉は「死者の魂が行くところ」となっている。「黄泉帰り」とはここからくる。原語はシェオール(ヘブライ語)、ハデス(ギリシャ語)。新共同訳は陰府(よみ)、塚本訳は黄泉(よみ)。●ただしに日本における黄泉の概念と聖書のシェオールないしハデスの概念はぴたり同じではない●新共同訳で陰府(よみ)は旧約聖書に68回、新約聖書に10回出てくるので、キリスト信者としてはなじみ深い言葉。讃美歌にもたくさん出てくる。代表例としてはルターの267番「神はわがやぐら」に「よみのおさ」という言葉がある。●黄泉とは神を信じないで死んだ者が終末の時まで居るところ。いわば卒業保留状態。落第としての地獄ではない。中間状態。●ただし教理的、神学的には複雑。無教会者としては、聖書それ自身に固着しなければならない●旧約で代表的な箇所
新共同
詩 139:8
139:8
天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。
●生きているうちに神を信じキリストの十字架による救いを頂いた人の霊魂は、死ぬと神の懐に安らうことができるとあるが、信じないで死んだ人は黄泉に行って、そこでまた救いの機会(チャンス)を与えられる。これが聖書的、かつ「使徒信条」の伝えるところである。●黄泉の存在は人間の願望から生まれた自己満足の慰めの教理ではなさそうだ。なぜか。イエス自身の頭の中に黄泉の概念がある。●イエス自身、黄泉と地獄は違う概念。
塚本訳マタ
11:23
11:23
それから、お前カペナウム、(わたしに特別に可愛がられたからとて、)まさか『天にまで挙げられる』などとは思っていないだろうね。(天に挙げられるどころか、)『お前は黄泉にまでたたき落されるであろう。』お前の所で行っただけの奇蹟をソドムで行ったなら、(あの堕落町でも、)きょうまで滅びずにいたにちがいないのだから。
塚本訳ルカ
16:23-24
16:23
金持は黄泉で苦しみながら、(ふと)目をあげると、はるか向こうにアブラハムとその懐にいるラザロとが見えたので、
16:24
声をあげて言った、『父アブラハムよ、どうかわたしをあわれと思ってラザロをよこし、指先を水にひたしてわたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの焔の中でもだえ苦しんでおります。』
●パウロの思想は次の通り。
塚本訳 ロマ
14:9
14:9
キリストが死んで生き返られたのは、死んだ者と生きている者との主になるためであるから。
塚本訳Tテサ4:14
4:14
私達が信ずるようにもしイエスが死んで復活し給うたならば、神はイエスによって眠った者をも同様にイエスと共に連れ来たり給うであろうから。
●キリストも一旦は黄泉に下ってそこから神の力によって復活させられた。これわれわれの慰めである。キリストさえも一度は黄泉にまで下られた。
塚本訳 Tペテ3:18-19
3:18
というのはキリスト(御自身)すら罪の(贖いの)ために、義しい人でありながら義しからぬ人々のために、ただ一度死に給うたのである。これは君達を神に連れ行くためで、彼は肉では殺され給うたが、霊では活かされ、
3:19 且つ霊で行って、(陰府の)獄に閉じ込められていた(悪)霊達に(救いの福音を)宣べ給うた。
塚本訳 黙 1:17-18
1:17
私は(この荘厳極まりない)彼(の異象)を見た時、死んだように(なって)その足許に倒れた。すると彼はその右の手を私の上に於て言い給うた──「懼れるな。私は最初の者、最後の者、 1:18
また(永遠に)活きる者である。(だからかつて)死んだけれども、視よ、(今)私は(再び)永遠より永遠に活きる者である。私は死と陰府の(門の)鍵を有つ。(私には凡てのものを活かし、また殺す権能がある。)
使徒信条(讃美歌566所載)・・・中間部分・・・
主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり、
●神は黄泉からキリストを引き上げたように我々をも黄泉から引き上げてくださる。起こしてくださる。第一コリント15:4の岩波佐藤訳は他の訳が「復活」あるいは「よみがえる」と訳しているところを「起こされる」としている。このほうが真意を表している●復活とは神の力によって起こされること。引き上げられること。●死者への祈りが代祈。死者が黄泉から起こされるように神に祈ること。これが聖書の思想で信者のあるべき姿勢。
岩波翻訳委員会(佐藤)訳1995 第一コリント15:3-4
461503なぜならば、私はあなたがたに、まず第一に、私も受け継いだことを伝えたからである。すなわち、キリストは、聖書に従って、私たちの罪のために死んだこと、
461504そして埋葬されたこと、そして聖書に従って、三日目に〔死者たちの中から〕起こされていること、
●初代キリスト教徒は詩篇16編の10をキリストが黄泉から引き上げられたことを歌っているものと読み込んだ
口語 詩篇16:10
16:10 あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。
塚本訳 使 2:27
2:27
あなたはわたしの魂を黄泉に捨ておくことはなく、あなたの聖者(救世主)を朽ち果てさせることもないから。
塚本訳 使 2:31
2:31
これは救世主の復活のことであると前から知っていて、こう語ったのです、『彼は黄泉に捨ておかれもせず、』彼の肉体の『朽ち果てることもない』と。
●ここから、あの難解な次の箇所も、イエスの墓が空であったことと有体的復活の事実を考えると、あながち神話でもなさそうに思える。全人類が死から解放されることの象徴。
塚本訳 マタ
27:51-53
27:51
その途端に、宮の(聖所の)幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして地が震い、岩が裂け、
27:52 墓が開いて、眠っていた多くの聖者たちの体が生きかえり、
27:53
墓から出てきて、イエスの復活の後、聖なる都(エルサレム)に入って多くの人に現われた。
F結論
●神はその黄泉にいる人へも救いの手を伸べるというのがキリスト教の思想。教理。生きているうちに不幸にも福音を信ずるに至らなかったアノ人にもチャンスがきっとある。それは卒業の保留である。しかし追試というチャンスで救われる●99匹の健常な羊を残してでも迷い出た一匹を救う神、健康な者には医者はいらない、病人(罪人)を救いに来たという神。そういう父なる神は黄泉にいる人間を救う。●否、地獄に行った人間をも救う。神は地獄の三丁目にまで追いかけて行く。それがキリスト教の父なる神だ。絶対恩恵の無条件の罪の赦しを実行する愛の神だ。●死んでも救われるチャンスはある。救いにラストチャンスというものはない。救いのチャンスはこの世でもあの世でもエンドレスだ。なぜか。神は全能だから。●三年前に亡くなった母はキリスト教の神を信じていなかった。今頃あるいは黄泉にいるのかもしれない。しかしそこで神に導かれて救いを受け入れるかもしれない。否、そこでも救いを受け入れなくて、たとえ地獄に落ちたとしても神はそこへも追いかけて行ってくださると信じる
塚本訳 ルカ 15:2-4
15:2
パリサイ人と聖書学者たちがぶつぶつ呟いて言った、「この人は罪人を歓迎するし、また(招かれていって)食事までも一しょにする。」
15:3 そこで彼らにつぎの譬を話された。
15:4
「あなた達のうちのだれかが羊を百匹持っていて、その一匹がいなくなったとき、その人は九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を、見つけ出すまではさがし歩くのではないだろうか。
●迷い出た羊にとっては一匹で心細い状態が黄泉だ。崖の下に落ちて身動きできなかったのかもしれない。羊にとってそれは黄泉だ。すると人間にとってはこの世の人生がすでに黄泉なのかもしればい。
塚本訳 ルカ 15:13-16
15:13
幾日もたたないうちに、弟は(分け前)全部をまとめて(金にかえ、)遠い国に行き、そこで放蕩に財産をまき散らした。
15:14 すべてを使いはたしたとき、その国にひどい飢饉があって、食べるにも困り果てた。
15:15
そこでその国のある人のところに行ってすがりつくと、畑にやって、豚を飼わせた。
15:16
彼はせめて豚の食う蝗豆で腹をふくらしたいと思ったが、(それすら)呉れようとする人はなかった。
●放蕩息子は父の家から家出して」異国で「食うに困った」。これが彼にとっては黄泉の苦しみだ。しかし神はその彼を赦して救う。●神を信じない者のこの世で生きている間の苦難はそのまま「黄泉の苦しみ」だ。しかしそれは同時に救いの場所、救いの時。
塚本訳 ルカ
15:32
15:32
だが、喜び祝わずにはおられないではないか。このお前の弟は死んでいたのに生きかえり、いなくなっていたのに見つかったのだから。』」
塚本訳Uコリ6:2
6:2
『恵みの時にわたしはあなたの願いを聞きとどけ、救いの日にわたしはあなたを助けた。』と神は仰せられるではないか。見よ、今や『大いなる恵みの時』、見よ今や『救いの日』!
●でもアノ人は黄泉でも悔い改めないかもしれない。そうしたらどうしよう。だから救いは全能の神の力に期待して祈るしかない。他人はもう手の届かないところにいるのだから。
塚本訳 ルカ
16:30-31
16:30
彼が言った、『いいえ、父アブラハムよ、もしだれかが死人の中から行ってやれば、きっと悔改めます。』
16:31
しかしアブラハムは答えた、『モーセと預言書との教えに従わないようでは、たとえ死人の中から生き返る者があっても、その言うことを聞かないであろう。』」