死の悲しみと復活の喜び

本当の自由・父は悪魔・出会いの喜び・神が分かる時

ブログより抜粋   東京聖書読者会 2009.6.7 高橋照男

 

 

「本当に自由になる」とは

090520(水)3時半目覚め朝の啓示。次回感話のテキストはヨハ8:30−59。その36節に「本当に自由になる」という著しい言葉がある。その関連聖句が次々と浮かんだので列挙する。

{テキスト}

塚本訳 ヨハ 8:36
8:36
だから、もし子(たるわたし)が(罪から)自由にしてやれば、あなた達は本当に自由になるのである。(そしていつまでも父上のところにおることができる。)

{連想聖句}

塚本訳 ヨハ 8:32
8:32
真理を知り、その真理があなた達を自由にするであろう。

塚本訳Uコリ13:8
13:8
というのはわたし達は神の真理に逆らっては何も出来ないが、真理のためには何でも出来るからである。

塚本訳ヨハ 9:39
9:39
イエスは言われた、「わたしは裁きのためにこの世に来たのだ。・・盲が目明きに、目明きが盲になるために!」

塚本訳ヨハ 4:13-14
4:13
イエスは答えられた、「この(井戸の)水を飲む者はだれでもまた渇くが、
4:14
わたしが与える水を飲む者は永遠に渇かない。そればかりでなく、わたしが与える水は、その人の中で(たえず)湧き出る水の泉となって、永遠の命に至らせるであろう。」

新共同 エペ 3:18-19
3:18
また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、
3:19
人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。

塚本訳 Tコリ3:22
3:22
パウロでもアポロでもケパでも、世界でも命でも死でも、現在起こっていることでも将来起こることでも、万物はあなた達のものである

塚本訳マタ 16:26
16:26
たとい全世界をもうけても、命を損するならば、その人は何を得するのだろう。それとも、人は(一度失った永遠の)命を受けもどす代価として、何か(神に)渡すことができるのだろうか。

人間の営みはこれ全て「自由へのあがき」。速く、高く、束縛されず、命は長く、大きく、収入の増加・・・しかしすべて目的を達せずに常に渇いている。満足していない。その追及に真の喜びと平安がない。また生まれつきの人間は「従順」という言葉が耳に痛い。本能がそれを拒否する。神にも人にも命令されることを嫌う。そして自由になろうとして「自分の腹」(欲望、遊び、享楽、思想、地位自慢、ブランド品自慢、仲間内の褒め合い、優越感)の奴隷になっている。自分の腹が神になっていてその奴隷状態で不自由。「神への従順が真の自由」ということが全くわからない。では「欲望を断つ」ことが救いの道か。そうではない。神の霊という天からの宝を頂くと「自分の腹の目的であったこの世の宝、楽しみ、喜び」が色褪せて面白くなくなる。満足しない。天からの霊を頂くと結果的に自然と「聖書学」「神学」もまた面白くなくなる。聖書の語句そのものに肉薄する方が面白い。なぜか。それは神の言葉(ロゴス)だから。これ無教会主義の生き方。しかし現在の無教会は神の霊が去った老化現象として聖書を読まなくなった。田川建三は「無教会に昔日の面影はない」と言う(「書物としての聖書」P691)。天からの霊を頂くと「お交わり」「お祭り」「遊びとしてのお付き合い」「典礼」などの教会行事がつまらなくなる。心が満たされないものになる。これ理屈抜きに無教会主義の実際の原理。人は教会組織や集会では救われない。●人は神の霊に「それはわたしだ(エゴーエイミ)」と現れていただくことで救われる。その体験は様々だが、共通点は「正統信仰」(処女降誕、三位一体、有体的復活)の使徒伝承を継承するようになる。これを継承する殉教的闘士の出現を祈る。

 

 「あの人は邪魔だ」と思うのは人殺し

090522(金)4時目覚め朝の黙想「あの人は邪魔だ」と思うのは人殺し。「あの人は自分にとって都合が悪い」と思うのも人殺し。次回感話のテキストに次のような恐ろしくいやな言葉がある。しかし残念ながら真理である。

{テキスト}

塚本訳  ヨハ 8:44
8:44
(そのはずである。)あなた達は悪魔なる父の子で、父と同じ欲望を遂げようと思っているのだ。(人殺しをし、嘘をつくのは、そのためである。)悪魔は始めから人殺しである。(また嘘つきで、)真理に立ってない。彼の中には真理がないからである。だから彼は嘘をつく度ごとに、その本性を表しているのである。嘘つきで、嘘の父だからだ。

{連想聖句}

人間は生まれつき悪魔であることについて。・・・・・あの人は親が悪い、家系が悪い、親が悪い、育ちが悪い、教育が不足、躾が悪い、実家の家風がいけない、家庭環境が悪い。・・・・・などなどいろいろ批評されるが、所詮人間は全員生まれつき悪魔。

口語訳 詩  51:5
51:5
見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました

新共同 イザ 6:5

6:5 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」

 

口語訳 イザ 1:18

1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。

 

「イエスとの出会いの喜び」

090522(金)死んだあとに復活するということは人間には信じがたいことだが、もしそれが本当なら人生にも希望がある。そのことを神が最も分かりやすく示したのが、イエスの霊での有体的復活である。さわれもし、さわれなかった。見えていたがすぐ消えた。墓は空になっていた。ドアの向こうからスーッと入ってきた。声は聞こえたが姿は見えなかった。現れ方は様々。パウロが言う霊の体での復活であった。その霊の体での有体的復活に接した人に共通なことは理屈抜きに無条件に湧きあがった「不思議な喜び」の感情。・・・これが「ほんとうの命」。2000年後の我々は復活のイエスの顕現に接することはないが、聖霊の喜びで、死後またこの私も有体的に復活させられるのだという「希望」が不思議に湧く。我々は生きて「胸が熱くなる」ことにより、喜びに満たされる。この胸が熱くなるときの喜びが来世実在の証拠、保証。次回テキストのヨハネ9:56は難解である。アブラハムもダビデも我々も歴史的イエスに出会ったことはないが、聖霊の働きでこの時間的錯誤の不思議な喜びに満たされる。

[テキスト]

塚本訳 ヨハ 8:56
8:56
あなた達の父アブラハムは、生きてわたしの日、(わたしが来て神の契約を成就するその日)を見ることを、楽しみにしていた。そして(実際)それを見て、喜んだ。」

塚本訳 マタ 22:44-45

22:44 『(神なる)主はわが主(救世主)に仰せられた、『わたしの右に坐りなさい、わたしがあなたの敵を(征服して)あなたの足の下に置くまで』と。』

22:45 だから、ダビデが(このように)救世主を主と呼んでいる以上、どういう訳で(その救世主が)ダビデの子であろうか。」

 

塚本訳 ヨハ 8:58

8:58 イエスは言われた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、アブラハムが生まれる前から、わたしはいたのだ。

 

塚本訳 マタ 12:42

12:42 また、南の国(シバ)の女王がこの時代の人と一しょに(最後の)裁きの(法廷に)あらわれて、この人たちの罪が決まるであろう。というのは、彼女は地の果てからソロモン(王)の知恵を聞きに(エルサレムに)来たが、(この人たちは、)いまここにソロモンよりも大きい者がいる(のに、それに耳を傾けない)からである。

塚本訳マタ 13:17
13:17
アーメン、わたしは言う、多くの預言者と義人とは、あなた達が(いま)見ているものを見たい見たいと思ったが見られず、あなた達が(いま)聞いているものを聞きたい聞きたいと思ったが、聞かれなかったのである。

 

塚本訳 コロ 1:14-17

1:14 私達は彼において贖罪すなわち罪の赦しを持っているのである。

1:15 (まことに)彼は見えざる神の御像、凡て創造られた物の(前に生まれた)長子であり給う

1:16 万物は彼において創造られたからである。(然り、)天上のものも地上のものも、見ゆるものも見えぬものも、また(あらゆる天使達、すなわち)「王座」も「支配者」も「権威」も「権力」も、万物ことごとく彼によって、また彼のために創造られた。

1:17 そして彼は万物より先にあり給う。且つ万物は彼によって存在する。

 

[大島智夫著「伝道私信」2009.6月号第1ページ]

 

(「伝道私信」より引用)

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(上記コロサイ1章15-20bは)いわば信仰のリトマス試験紙なのです・・・・私たちのために十字架につかれた神の御子イエス・キリストが宇宙開闢より父なる神とともにおられ、歴史の中に見えざる神の見ゆる姿となられた方であった事を思えば思う程、跪き、頭を垂れざるを得ないのです。我らの救い主、主イエス・キリストが三位一体の子なる神として父なる神とともに宇宙創造に関与され、万有を支配される方であり続けた事を固く信じて疑いません。

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(「伝道私信」引用終わり)

そしてその関連聖句として次を上げておられる。これは実に新約聖書全編を貫く根幹中の根幹である。

塚本訳ヨハ 1:1-4
1:1
(世の)始めに、(すでに)言葉はおられた。言葉は神とともにおられた。言葉は神であった。
1:2
この方は(世の)始めに神とともにおられた
1:3
一切のものはこの方によって出来た。出来たものでこの方によらずに出来たものは、ただの一つもない。
1:4
この方は命をもち、この命が人の光であった。

塚本訳ピリ 2:6-8
2:6
彼は(先には)神の姿であり給うたが、神と等しくあることを棄て難いことと思わず
2:7
かえって自分を空しうして人と同じ形になり、奴隷の姿を取り給うたのである。そして人の様で現れた彼は、
2:8
自ら謙り、死に至るまで、(然り、)十字架の死に至るまで(父なる神に)従順であり給うた。

新改訳 Tテモ3:16
3:16
確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」

口語訳 黙  1:5
1:5
また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、

私が「イエスの墓が空になったことは史実」「復活は霊の体の有体的復活」「三位一体」ということを言ってもまるで頭に入らない人、何の反応もない人(それは地上王国の建設を目的とする人)はキリスト教信者なのかなーと感じる。しかしこの三位一体は霊で分かるものであって大脳皮質ではわからないことである。我が国のキリスト教の盛衰はこの信仰にかかっている。大島先生と同意見である。

 

[聖霊は時間的錯誤を突破する]

 塚本訳 Tペテ1:8
1:8
君達は彼を(目のあたり)見たことはないが、(これを)愛し、今も見ることは出来ないが、(これを)信じて、(既にかの日の)輝きに満ちた、言語に絶する喜悦を喜んでいる

口語訳 エペ 1:14
1:14
この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。

口語訳 ヘブ 11:13

11:13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。

 

 

「神の時がくれば神御自身がが教えてくださる

 090530(土)4時半起床朝の啓示「神の国の真理は神が教えてくれるという不思議」宗教的真理は大脳皮質の納得(証拠による納得、理論的証明による納得)ではなく霊による示し、啓示でわかる。ここが難しいところ。しかし「神の時が来れば」神が「それはわたしだ。(エゴーエイミ)」とその人に姿を現してくださる。「神が分かる」「信仰が分かる」というのは物理数学や哲学文学を「教」えるようには「教」えられないので難しいのだ。Jバイブルで「教」をヒットし、心に響いたものを列挙する。

塚本訳 ヨハ 6:45

6:45 預言書に、〃(最後の日に)人は皆神に教えを受けるであろう〃と書いてある。(そして神に引っ張られる者、すなわち本当に)父上に聞き、また学ぶ者は皆、わたしの所に来る。

 

塚本訳 ヨハ 14:26

14:26 (わたしが去ったあとで、)父上がわたしの名で遣わされる弁護者、すなわち聖霊が、あなた達にすべてのことを教え、またわたしが言ったことをすべて思い出させるであろう。

集会の某婦人(故人)は長らく数学の教師をされていたが、あるとき次のような感話をされた。「一人の生徒を個人指導していた時、世の中にこんなに「ものわかりの悪い」子供がいるのかと非常に困りぬいていた。しかしある問題を解いているとき、その子供にひらめきがあった。それ以後は堰を切ったように数学が分かりはじめてぐんぐん伸びた」。この世の数学(それは大脳皮質)にしてこれだ。ましてや神の国のことは神の示しがあるまでは人間は全員「ものわかりの悪い」存在なのだ。神とか信仰がさっぱり分からない。

塚本訳 Tコリ1:23-24

1:23 わたし達は十字架につけられたキリストのこと(だけ)を説く。すなわち、ユダヤ人にはつまづき、異教人には馬鹿なことであるけれども、

1:24 (神に)召された者だけには、ユダヤ人、異教人の別なく、(これこそ)神の力、また神の知恵なるキリストを(説くのである)。

 

「死の悲しみと復活の希望」

090601(月)4時半起床朝の黙想「死の悲しみと復活の希望」昨日、某氏から塚本虎二訳新約聖書CDの要望があったので早速コピー、送付準備をした。よい翻訳を探していたという。神は思わぬ時に思わぬ人を「起こす」ことが分かり感謝。

死の悲しみはどういう時に襲ってくるのか。現在とても楽しいことをしている時、今日一日が楽しかったときの直後に来るものだ。死んでしまったら今のような、今日のような楽しみや喜びは味わえなくなるのか。そういう瞬間に死の悲しみが襲ってくる。有限なる人間の宿命としての死の悲しみは、人生の「残酷さ」の最大のものである。神は人間になぜそんな「残酷なこと」を与えるのかとフト思ってしまうことがしばしばある。NO!。だから「復活の希望の喜び」が与えられたのだ。これが福音。これなくして人生はつまらない、淋しい、残酷である。ではその「復活の喜び」、その希望はどうしたら得られるのか。永遠の命の喜びは生きているうちにどうしたら得られるのか。答えは簡単。本人がその気になって「一生懸命」に求めれば必ず与えられる。その聖書的根拠は次の通り。

塚本訳  ルカ 11:10-13
11:10
だれであろうと、求める者は受け、さがす者は見つけ、戸をたたく者はあけていただけるのだから。
11:11
あなた達のうちのどんなお父さんでも、子が魚を求めるのに、魚の代りに蛇をやるだろうか。
11:12
また卵を求めるのに、蝎をやるだろうか。
11:13
してみると、あなた達は悪い人間でありながらも、自分の子に善い物をやることを知っている。まして天の父上が、求める者に聖霊(という善いもの)を下さらないことがあるだろうか。

塚本訳 ルカ 13:24
13:24
全力を尽くして(今すぐ)狭い戸口から入りなさい。あなた達に言う、(あとになって)入ろうとしても、入れない者が多いのだから。

 

塚本訳 ルカ 18:18、22−23

18:18 ひとりの(最高法院の)役人が尋ねた、「善い先生、何をすれば永遠の命がいただけるでしょうか。」

 

18:22 イエスは聞いて言われた、「もう一つ欠けている。持っているものをことごとく売って、(その金を)貧乏な人に分けてやりなさい。そうすれば天に宝を積むことができる。それから来て、わたしの弟子になりなさい。」

18:23 彼はこれを聞き、しょげてしまった。非常な金持であったのである。

塚本訳マタ 13:44
13:44
天の国は畑に隠されていた宝に似ている。人がそれを見つけると、(またそこに)隠しておいて喜んで立ち去り、持っているものをみな売って、その畑を買うのである

 

たとえ本人が「一生懸命にならなくても」・・それはこのダメな私を嫌いになり、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」となり躓いて救いを求めなかった場合でも、・・間接的祈りと周囲の熱心で救われる例が福音書には多数ある。そういう記事があることは救いだ。

 

 

「復活の喜び」

090603(水)4時半起床朝の黙示「復活の喜び」メール2通●630公園でラジオ体操

[イエスの復活に出会った人に共通のことは喜び]

 塚本訳 マタ 28:8-10
28:8
女たちは恐ろしいが、また嬉しくてたまらず、(中には入らずに)急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走っていった。
28:9
するとイエスがぱったり彼らに出合って、「お早う」と言われた。女たちは進み寄り、その足を抱いておがんだ
28:10
するとイエスは女たちに言われる、「恐れることはない。行ってわたしの兄弟たち[弟子たち]に、ガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのだから。」

塚本訳 ヨハ 20:19-20
20:19
その日すなわち週の初めの日の晩であった。ユダヤ人を恐れて、弟子たちのおる部屋の戸には(皆)鍵がかけてあったのに、イエスが(どこからともなく)はいって来て(彼らの)真中に進み出て、「平安あれ」と言われた。
20:20
そしてそう言いながら、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。

[復活の喜びは何に例えられるか]

待ち望んでいた人に出会える瞬間。木造建築の棟上げの日。播いた種の芽が出てくる不思議を見るとき。重い病が癒えて退院する日。●使徒伝承を聞いて胸が熱くなるとき。

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強い風の朝。人は聖霊の風が吹いて神が分かる。だから周囲は神風の到来を必死に祈る。

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早朝散歩。朝日。 口語訳 創1:3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。

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