予期せぬ出来事

2009.5.105.14のブログから

東京聖書読者会 高橋照男 2009.5.17

 

090510(日)5時起床

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「私を癒す名曲」

讃美歌122番「みどりもふかき」

1. みどり も ふかき 若葉の さと,

   ナザレ の 村 よ, 汝(な) が ちまた を

   こころ 清(きよ)ら に 行(ゆ)きかい つつ,

   そだち たまいし人 を 知るや.

曲は次をクリック。音楽を流しながら、再びこの画面にもどれば、伴奏付きで歌える。

http://www.moclin.jp/hymnal/midi/hymn_1-122-ye_fair_green_hills_of_galilee.mid

 この曲について。

神の子は人の子の姿をとってこの世に来られた。それは法王ではなく、神学博士ではなく、牧師ではなく、社会事業家ではなく、天下国家を断罪する批評家ではなく、大企業の社員でなく、大学教授ではなかった。辺境の一寒村ナザレのおそらく貧しかったであろう大工の息子(おそらく後継ぎ)であった。つまり人に尊敬されるカッコイイ地位や職業ではなかった。学歴もなかった。この讃美歌はそのイエスをだれが神の子と思ったであろう分かりはしなかった、というのである。当時の人はイエスが大工の息子であったというだけで「つまずいた」。つまずく人間は「この世人間」。しかし人間は分かる時が来る。上より聖霊を頂くとわが身は全身で叫ぶのだ「あなたこそ神の子です」と。木々の緑が深い季節になると第一節に「みどりも深き」という言葉があるこの曲を思うのだ。

 

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      写真はここをクリック

神の恩恵によって再建できた家。9年目。与えられたものという感じがする

 

 

 

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090511(月)5時目覚め。朝の黙想「死の悲しみ、復活の喜び」

●[死はなぜ悲しいのか]

@この「私」という個の存在が未来永劫この宇宙から歴史から滅却して2度と現れない。永久に現れることがないこの恐怖、悲しさ。

A短い人生、地球100億年の歴史でたとえ100年生きてもそれは一億分の一。瞬き以下。空しい。

B忘れられる悲しさ。子孫の3代先はこの高橋照男がいたことさえ忘れられる。

C美しい景色がみられなくなる。好きなクラシック音楽を聴けなくなる。

D愛する家族、孫たちと別れなければならない。

E病気や事故の場合、他人と比較して短い人生の不満。

F死の時の「苦痛」。安らかに逝きたいのだが。・・・・

G老いの悲しさ、淋しさ。能力の低下。経済の不安。介護の不安。看取られない。

 ●[人間の文明は死を避けたいという模索の努力]

@霊魂不滅の思想・・・ギリシャ哲学、仏教の輪廻。

A不老長寿の薬。健康長寿。天寿の満足

B忘れられないために「有名になろうとする」「名を残そうとする」「藝術は永遠」、しかしどんなに有名人でもあっという間に忘れ去られる。

C4大文明は死後の世界にまで地上の楽しみが連続することを願う。埋葬品の品々。ミイラ、秦始皇帝。

D自暴自棄の享楽。短い人生だから生きているうちに遊びぬこう。

E緩和ケア。ホスピス

F老化防止。数々の医療、薬品。老いの住まい。介護制度。看取り

 ●[復活の喜び]

@驚天動地、人の心に浮かばなかった「永遠の命」という「知らせ」

A復活の実証に接する「喜び」。使徒伝承を信じて、聖霊を頂く。理性の安息を得る。

B人には忘れられても神には忘れられないこの自分

C神と共に世を治める。

D肉の関係は失せて「天使のことく」なる。来世では婚姻生活なし。

E「永遠の命」を頂く時、「短い人生」という不満はなくなる

F死の苦痛は一瞬。喜びは永遠。肉の苦痛は霊の喜びの実在で克服。永遠の命への「希望」の喜び。

G外なる人(肉体)は衰えるが、内なる霊の命は日々新しい。

 

 090512(火)3時半目覚め。黙想「永遠の命の証拠は?」寝床でNHKブックス、佐竹明著「使徒パウロ」の第2回伝道旅行の部分を読む。かなり水準の高い本。佐竹は「パウロはユダヤ人には『律法からの自由』を説いたが異邦人にはそれをしなかった」。と指摘(p189−190)。我が意を得たり。日本人にも旧約の前提がないからその『律法からの自由』は通じない。仏教、儒教、神道が旧約だという人がいるがあたらない。日本人には「罪からの自由」がそのニーズ。そしてその結果としての「永遠の命」。「使徒行伝」において福音が律法を知らない異教人にも関係のあることになるのが「罪からの自由、解放」。聖書的には次の箇所。

塚本訳 使  11:18
11:18
これを聞いて人々は沈黙し、「それでは異教人にも、神は(永遠の)命を得させる悔改めをお与えになったのだ」と言って、神を讃美した。

塚本訳  使  17:30
17:30
ところで神は(こんな)無知な時代を大目に見ておられるが、今や人類に対し、どこの者でも皆、悔改めねばならないことをお告げになっています。

塚本訳 使  20:21
20:21
わたしはユダヤ人にも異教人にも、神に帰る悔改めと、わたし達の主イエスに対する信仰とを、証ししたのであった。

塚本訳 使  26:20
26:20
まずダマスコとエルサレムとの人たちに、ユダヤ全国に、それから異教人に、悔改めて神に帰り、悔改めにふさわしいわざをするようにと告げました。

パウロは異教のアテネでギリシャ人に分かりやすいように「哲学」的に語ったとろ失敗。通じなかった。それは大脳皮質への話だったからでは日本人にはどうか。ユダヤ人と同じく「証拠」を求めるにちがいない。証拠で信じるのは「科学教育」、「裁判」。これ同じく大脳皮質の満足を目指す。これに対してキリスト教は「見ずして幸いなり」と言って疑問をいなすが、それは理性を犠牲にすることでよくない。「永遠の命」の証拠は?。ある。それは今の時代のこの私の「罪の赦しの事実」「罪の苦からの自由」の事実。これが神の存在と永遠の命の証拠。だからこの解放の体験をしなければ神も永遠の命もわからない。信仰には新生の体験が必要。イエスは尋ねてきたニコデモに次ぎのように言った。

塚本訳 ヨハ 3:3-5
3:3
イエスが答えて言われた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、(徴を見て信じたのではいけない。)人は新しく生まれなおさなければ、神の国にはいることは出来ない。」
3:4
ニコデモがイエスに言う、「(このように)年を取った者が、どうして生まれなおすことが出来ましょう。まさかもう一度母の胎内に入って、生まれなおすわけにゆかないではありませんか。」
3:5
イエスは答えられた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、人は霊によって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない。

日本の若者の「宗教離れ」は深刻。神を信じている方が珍しいという惨状。しかし若者にニーズはある。それは「死の恐怖からの解放と永遠の命」。それに至るには十字架による罪の赦し。罪の赦しは手段で目的は永遠の命ところが社会派キリスト教徒は「地上天国」の構築が目的なので「罪の赦し」だけが目的。だから人の罪悪を断罪して終わり。これでは福音ではない。社会派信者の話を聞く人間は信仰が目的ではない。 使徒伝承の目的は「永遠の命」。これはユダヤ人も異教人も共通。

塚本訳 Tコリ1:22-24
1:22
実際、ユダヤ人は(信ずるための証拠に神からの不思議な)徴を乞い、異教人は(真理を知るために)知恵を求めるが、
1:23
わたし達は十字架につけられたキリストのこと(だけ)を説く。すなわち、ユダヤ人にはつまづき、異教人には馬鹿なことであるけれども、
1:24
(神に)召された者だけには、ユダヤ人、異教人の別なく、(これこそ)神の力、また神の知恵なるキリストを(説くのである)。

塚本訳  ロマ 10:11-12
10:11
(なぜ信仰だけで救われるか。)『これ[キリスト]を信ずる者は』すべて、(最後の裁きの日に)『恥をかかないであろう』と聖書が言っているからである。
10:12
(「すべて」と言う以上、)ユダヤ人も異教人も、その間になんの差別もないのである。なぜなら、同じ一人の方がすべての人の主であって、御自分を呼ぶすべての人に、あり余る恩恵をお与えになるからである。

文語訳 ヨハ 3:16
3:16
それ神はその獨子を賜ふほどに世を愛し給へり、すべて彼を信ずる者の亡びずして、永遠の生命を得んためなり。

塚本訳  ヨハ 3:16
3:16
そのゆえは、神はその独り子を賜わったほどにこの世を愛されたのである。これはその独り子を信ずる者が一人も滅びず、永遠の命を持つことができるためである。

[孤独なレース]

某氏に口を滑らせて自らを「孤独なレース」とメールしてしまい反省。そこで次の訂正メールを送った。

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前メールで「孤独なレース」と口を滑らしたのを訂正します。神が御一緒ならば「孤独」ということはありません。申し訳ありませんでした。

かってカナダ在住のYHさん(老いた御婦人)が塚本先生にお聞きしたいことがあると言ってわざわざ来日。「先生のおっしゃる無教会主義は分かりますが、・・・でも淋しくはありませんか」。すると先生はキッと居ずまいを正されて「神様がご一緒ならば淋しくはありません」と言われたそうです。YHさんの悩みは氷解。心晴れてカナダに戻られました。YHさんはもう「この世」にはおられないでしょう。そのことを思い出しました。

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 使徒伝承 「黒崎幸吉著 注解新約聖書Web版」 http://stonepillow.dee.cc/

        

090513(水)5時目覚め朝の黙示「アブラハムが生まれる前からわたしはいた」(ヨハ858クリスチャンと自称する人間がいたとしてもこのヘンテコリンな「三位一体の信仰」を信じられるかどうかに我が国のキリスト教の存立がかかっている生まれつきの普通の大脳皮質ではこれは「頭に入らない」。物理的、空間的、時間的にどうしても信じられない。イエスの「臨在」を如実に実感するとき,あるいは「胸が熱くなるとき」にのみこれが分かる。人間の側の思考や推論や知識ではこの信仰に到達できない。大脳皮質ではなく、「霊」で分かる。このヘンテコリンな信仰は神学的には「先在のキリスト」というが、このように神学的に探究するとわからなくなるから、「わたしはある(エゴーエイミ)」の言葉(ロゴス)の霊解の方が核心に迫れる。これ無教会が神学を避け「聖書の言葉」そのものに固着する理由。クリスチャンがこの「アブラハムが生まれる前からわたしはいる」という信仰を持たないとどうなるか。その現象としては、三位一体、処女降誕、有体的復活の信仰告白がない。そして盛んに地上天国の構築、平和運動、天下国家の断罪、社会運動、幸福なる人生、信仰なら何でも結構人間、・・・などに走る。一昨年「藤林益三」という本を編集したが、その底流には「三位一体」の信仰が流れている。藤林先生はその結果としての法曹界における「信教の自由」の戦いであった。単なるヒューマニズムや「人権思想」からの戦いではなかった。浅見仙作の「再臨信仰」にもとずく裁判も同じであった。もしクリスチャンがこのようなヘンテコリンな信仰を持たないとしたら、「信仰であれば何でも結構人間」となり「この世から仲良く」されるであろう。

 

090514(木)5時半目覚め。朝の啓示「葬儀の本質はとりなしの祈り」昨夜突然葬儀の計画が発生。キリスト教の葬儀の本質は死者のための「とりなしの祈り」であることを再認識。故人の犯した過ちに対して「赦しを乞う祈り」。「とりなしの祈り」は聞かれる。ステパノは石打ちの死刑で殺されつつあるとき、次のように祈った。

塚本訳  使 7:60
7:60
それからひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞこの罪をこの人たちに負わせないでください!」こう言って、彼は眠りについた。

これがステパノの「とりなしの祈り」。この祈りにある「この人たち」という言葉の中に、あのパウロが含まれていた。パウロはステパノが石打ちの刑の時に上着の番をしていただけだが、まぎれもなく殺害者の仲間であった。心でイエスを殺していた。それは次の通り。

塚本訳  使 7:58
7:58
彼を町の外に突き出し、石で打ち殺した。証人たちはぬいだ上着をサウロという青年の足下に置い(て、番をさせ)た。

つまりステパノの「とりなしの祈り」の「射程距離内」に、後にキリスト教の土台を据えた「パウロ」がいたのだ。新約聖書はこれほとんどがパウロの影響下でできた。

塚本訳 使  22:7-8

22:7 わたしは地べたに倒れて、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と言う声を聞いた。

22:8 わたしは答えた、『主よ、あなたはどなたですか。』わたしに言われた、『わたしだ、君が迫害しているナザレ人イエスだ。』

復活のイエスはなぜサウロ(ギリシャ名でパウロ)に現れたか。それはステパノの「とりなしの祈り」がが神に届いたからだと私は思う。

イエスは十字架で殺されながら次のように祈った。これも「とりなしの祈り」である。

塚本訳 ルカ 23:34
23:34
するとイエスは言われた、「お父様、あの人たちを赦してやってください、何をしているか知らずにいるのです。」『彼らは籤を引いて、』イエスの『着物を自分たちで分けた。』

すると十字架に付けた異教ローマの百卒長は次のように告白した。

塚本訳 マコ 15:39
15:39
イエスと向かい合ってそばに立っていた百卒長は、こんなにして息が絶えたのを見て、「この方は確かに神の子であった」と言った。

初めてイエスを(心から)「神の子」と告白したのは実に異邦人、このとき福音は異邦に流れ出た。イエスのとりなしの祈りにある「あの人たち」という言葉の中に殺害者である「百卒長」が含まれていたのだ。なぜ異教人の百卒長が人類で最初に信仰告白をしたのか。イエスの「とりなしの祈り」の射程距離内に「百卒長」はあったからで、イエスのとりなしの祈りが神に届いたからであると私は思う。

葬儀は「とりなしの祈り」がその本質。信仰なくして眠った人間も周囲の熱心な「とりなしの祈り」があれば神を動かす。陰府で神に声をかけられると私は思う。「○○○。なぜ生前に私を迫害してたのだ」「なぜキリスト教を嫌っていたのだ。それはわたしだ(エゴーエイミ)」と。 神御自身が信仰なき人に姿を現してくださるものと信じる。

[
葬儀方法は残された家族のもの]

「死人に口なし」。葬儀方法は残された家族の姿勢できまる。御遺族に信仰がなければ、また信仰がしっかりしていなければ、故人の遺言がどうあろうとそれを「踏みにじって」、無宗教でなされる場合もある。まさに「死人に口なし」である。だからキリスト教の葬儀は御家族からの御依頼がなければやってはいけない。一般に御遺族はキリスト教信仰をよくは思っていないのが普通。なぜか。イエスは次のように言う。

塚本訳  マタ 10:35-36
10:35
わたしは子を『その父と、娘を母と、嫁を姑と』仲違いさせるために来たのだから。
10:36
『家族が自分の敵となろう。』

塚本訳 マタ 10:21
10:21
また兄弟は兄弟を、父は子を、殺すために(裁判所に)引き渡し、『子は親にさからい立って』これを殺すであろう。

熱心な信者であっても御遺族に信仰がないばかりに、葬儀が無宗教や町内会のやり方で簡単に済ませられた事があった。「それでは信者であった故人がかわいそうだ」と思うこともあるが、葬儀の方法如何で故人の「行き先」が決まるわけではない。かえってイマドキのキリスト教、特に無教会の有体的復活を信じない人たちの「お祭りイベント」の葬儀では神に嫌悪されるに違いない。葬儀の本質は「とりなしの祈り」が本質である。お祭りイベントの形式的葬儀をしなくても「ひそかなるとりなしの祈り」は可能。イエスが死んだとき、墓で「ひそかに」泣いた女性。その涙が神に祝福された。復活のイエスは弟子たちよりも先に「マリヤ」に現れた。

塚本訳 ヨハ 20:15-16

20:15 イエスが言われる、「女の人、なぜ泣くのか。だれをさがしているのか。」マリヤはそれを園丁だと思って言う、「あなた、もしあなたがあの方を持っていったのだったら、どこに置いたか教えてください。わたしが引き取りますから。」

20:16 (こう言って、また墓の方を向いていると、)イエスが「マリヤ!」と言われる。マリヤが振り向いて彼に、ヘブライ語で「ラボニ!(すなわち「先生!」)と言う。

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図書館の帰り。奥多摩連山の夕暮れ。讃美歌43番「御神の賜いし、この日も暮れけり、いざや今朝のごと御神をたたえん」を独唱しながら歩く。復活の朝を望む。

2009.5.13 1740

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